足柄峠は標高 759mの箱根外輪山から派生する尾根上に位置し、静岡県小山町と神奈川県南足柄市との境にあり、古くから官道として防人や旅人の往来も盛んでありました。
また、軍事的にも重要な場所であったため、多くの史跡や遺跡、石仏、文学碑等が残され、その上旅情豊かな風景は訪れた人達の心を離しません。
古代、足柄峠は都と東国とを結ぶ官道でありました。 大和朝廷の昔、倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の帰路この峠に立ち弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲んで「あずまはや~」と叫んだという記述が古事記に所載されています。
足柄峠から富士を望む。
雄大に広がる富士の裾野 御殿場市、その左手には愛鷹山。
雲一つない富士を望んでから聖天堂へ。 弘法大師の建立と云われ、本尊は等身大の石仏で秘仏として公開されていません。 福運厄除、縁結びの御利益があるとして参拝者が絶えません。
聖天堂の近くに足柄明神社があります。
ここ足柄明神は 『古事記』 によると、東国平定の帰りに食事をしている倭建命を白い鹿になって襲い、打ち殺された坂の神が祀られています。
足柄の開拓者たちが足柄明神を産土神(うぶすなかみ)として祀った。坂東人(関東地方の人)の誇りを守った古代の英雄なのです。 この足柄明神は天慶3年(940)に創建され、後に矢倉岳に遷座され矢倉明神となり、その後に苅野への移転があり、昭和 14年(1939)には足柄神社となり現在に至っております。
足柄明神社跡よりこれから向かう矢倉岳(標高 870m)を望む。
矢倉岳に向かう途中で、万葉集に詠われた足柄道に関連する7つの歌碑が迎えてくれる「足柄万葉公園」を歩き、しばし万葉人の心に触れて行きます。
足柄の坂は、世に聞こえた荒振る神の棲む坂であった。 その荒振る神は、坂を旅する異郷の人々にとって、恐ろしい神であっただけでなく、坂の麓で生活する里人にとってさえも、畏み恐れなければならない存在であった。
足柄の 御坂畏み 曇夜の
吾が下這へを 言出つるかも
《 あしがりの みさかかしこみ くもりよの あがしたばへを こちでつるかも 》
【大意】足柄の神の御坂を越えて行くとき、峠の神に手向けして恐れかしこまるあまり、人の隠さねばならない恋人の名前まで、つい告白してしまった。 人に云うべきじゃないことだのに。
当時の旅人たちは畏怖のあまり思わず『足柄の御坂かしこみ』と峠の神に手向けせずにはいられなかったというが、往時の森厳さと神秘感寂寥感は今もその名残りをとどめています。
次の詩は、防人が九州防備のために徴用されその任期が3年とされていたが、当時の防人の宿命として再び故郷へ帰ることが困難な時代であった。
足柄の 御坂に立して 袖ふらば
家なる妹は 清に見もかも
《 あしがりの みさかにたして そでふらば いわなるいもは さやにみもかも 》
奈良時代東国の任地に赴く役人たちが、ここで都に最後の別れを告げ、また防人の任に赴く東国の農民たちも、この峠で故郷に残した肉親を思い、心の叫びを詠んでいます。
【大意】足柄の神の御坂に立って故郷に向かって別れを告げる時、家に残して来た妻は、私が力の限り袖を振っているのをハッキリと見ているであろうか❓
こうした万葉人の痛切な声は、時代を越えて今もなお私たちの胸をうちます。
この様に、足柄の坂は日本列島を東西に区分する重要な境界と考えられていました。
足柄峠からは万葉公園を通過すると尾根伝いのアブラチャン並木の中を進みます。 アブラチャンはクスノキ科 で何本も株立ちするのが特徴で、とても分かり易いです。 樹木全体に油分が多く、特に秋の果実は触ると油っぽい感触が伝わります。
尾根道(新ルート)を下り、旧ルートと合流する。
尾根道の下り途中で見られた露頭の「タマネギ石」 。 地層は泥岩や頁岩(けつがん)などで良く見られ、地層の中に丸い同心円状の岩を「タマネギ状風化」と言います。 また、昼と夜の温度差によって岩石の表面と内面で膨張量の差が出来ることによるヒズミで割れ目が入って起こるともいわれています。
足柄万葉公園から矢倉岳に向かう尾根道の鞍部(上部に送電線が見える。)を過ぎ、矢倉岳本峰の登りにかかる辺りで宝永 噴火で降灰した黒い火山灰を見ることが出来ます。 火山灰の下に見える小石の層は噴火の際に軽いので先に飛んできた軽石の層です。
矢倉岳本峰の登りは樹林帯の中の登りで、直接の陽射しが当たらないので登り易かった。 山伏平通過、 この辺りは地蔵堂や二十一世紀の森、洒水の滝への分岐となっている。
山頂に近い樹林帯の中では、苔が生き生きしてとても綺麗でした。
お昼に丁度良く山頂に着いた。まずは休憩してお弁当に。
足柄明神が矢倉岳山頂に遷座され、矢倉明神となった名残りの五輪塔。
黒玉子で有名な箱根大涌谷(おおわくだに)の噴気が見えました。
この矢倉岳は約 200~70万年前に伊豆と本州の間にあった海に泥や砂、礫が堆積して出来ている足柄層という地層をフィリピン海プレートに乗った伊豆半島が押して来たプレート運動の圧力により、標高 870mまで隆起したのです。
この足柄層群が出来ていく過程で、およそ 170~120万年前に出来た地層に、その直後の115万年前にマグマ が入り込んで、ゆっくりと冷え固まり、後に矢倉岳となる岩体が出来ました。 できた岩石の種類は『石英閃緑岩』 と呼ばれる深成岩の一種です。
115万年前に深成岩体が出来たことは、そう珍しいことではありません。
世界的に珍しいのは、115万年前にできた岩体が既に地表に露出している点にあります。
低山であれども、世界的に(地質を研究されている方にとって)有名な 『矢倉岳』 であります。