素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

🐾 大磯散策 🐾

2019年02月24日 | 偉人

 

大磯随想・世界と日本 (中公文庫プレミアム)
吉田 茂

中央公論新社

 

名士の保養地としての歴史を持つ、❝大磯❞を散策しました。                        町の北西部には東海道新幹線と小田原厚木道路が走り、南部には東海道本線と国道 1号線が走り、現在の町は三分割された状況です。

古代は豪族「師長国造」(しながこくぞう)の支配領域であった。                           律令体制の整備に伴い相模国の餘綾(よろぎ)郡に属した。町東部には高句麗(こうくり)からの渡来人が移り住んだ歴史があり、高麗(こま)山・高来(たかく)神社・唐ケ原などの名称は彼らに由来するとされています。                                                  中世に相模国の国府が置かれていた。                                    江戸時代には東海道の宿場町として栄え、近代以降は温暖な気候により保養地として注目され、ドイツ人医師「ベルツ」により紹介されていた 海水浴 を普及させるための適地を探していた陸軍軍医総監「松本 順」により海水浴場として開かれた。

大磯駅前洋館    平成 24年 9月 13日に指定された景観重要建造物(旧木下家別邸)

明治中期から昭和初期に要人の避暑・避寒地として邸宅や別荘が多く建てられた。      特に伊藤博文、吉田茂のそれは特に有名である。                                                                          この他に山縣有朋や西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、岩崎弥之助、安田善次郎といった政財界要人の別荘が立ち並んだ。

次に駅から国道 1号線を渡り、父の仇を討ったことで名高い曽我兄弟のいわれある宮経山「延台寺」寄りました。

                                           兄弟は伊豆の豪族 河津三郎祐泰(かわづさぶろうすけやす)の子。                          兄は十郎祐成(すけなり)、弟は五郎時致(ときむね)                                    1176(安元 2)年 父 祐泰が伊豆の奥狩場で工藤 祐経に殺されたのち、母が曽我 祐信に再婚したので曽我氏を称した。

                                           この延台寺には、曽我十郎祐成を賊の矢から防いだ「虎が石」といわれる身代わり石や曽我兄弟の木像が法虎庵曽我堂に安置されています。                            石の上には綺麗に刺繍された赤い布で覆われて見えませんでした。

次は延台寺にほど近い、船着山「地福寺」(じふくじ)真言宗東寺派のお寺に立ち寄りました。  境内には香り良い紅梅・白梅が咲き誇り、その下に文豪『島崎藤村』夫妻のお墓がありました。藤村の本名は春樹。生まれは岐阜県中津川市馬籠、旧中山道の馬籠宿で本陣、庄屋、問屋を兼ねた島崎 正樹の四男として生まれました。

                                           大磯には旧島崎 藤村邸があります。小さい素朴な冠木門(かぶきもん)と割竹垣に囲まれた小庭に建てられた三間の平屋民家。 ~余にふさわしき閑居なり~ 

                                           大磯がお気に入りで「この書斎を離れる時は自分がこの世を離れる時だ。」と云っていたそうです。 馬籠の永昌寺に分葬されているとのことです。

                                            ❝夜明け前❞ 「木曽路はすべて山の中である」で始まる長編小説は有名ですね。

地福寺より国道1号線を二ノ宮よりに進み、新島 襄(1843~1890)終焉の碑へ。

                                           教育家である「新島 襄」は以前から大磯に来たいと思っていたようで、明治 22年(1889)11月病に倒れたのを機に知人の勧めもあり、同年 12月 28日大磯で静養し再起を計ることにした。                                           海岸にほど近い百足屋(むかでや)旅館の松林に囲まれた別館の愛松園にて再起の希望を持ち静かに療養していたが、明治 23年(1890)1月 20日 危篤に陥い、妻の新島 八重も東海道線で京都から大磯にやって来た。

                                          『グットバイ、また会わん』襄が八重に送った最後の言葉だそうです。                  1月 23日午後2時 21分、46歳 11ヶ月の生涯を閉じ、大磯が終焉の地となった。        終焉の碑は門下生が集い、旧百足屋の敷地内に建てられた。                    襄は明治 8年(1875)京都府に同志社英学校を開設し、その後同志社大学設立を企画した。

 

次は更に二ノ宮よりに進み鴫立庵へ。

                                             西行法師の《心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮》と詠まれた歌にちなみ、小田原の崇雪(そうせつ)が昔の沢らしい面影を残す景色の良いこの場所に石仏の五智如来像をこの地に運び草庵を結び、初めて鴫立沢の標石を建てたと言われています。

                                             京都の落柿舎滋賀の無名庵、と並び日本三大俳諧道場であります。

大磯中学校付近には旧東海道の松並木が残っています。その少し先に旧伊藤 博文邸滄浪閣があります。                                              この付近の国道 1号線と西湘バイパス間の松林の中には塀で囲まれていますが、別荘地「大磯」の雰囲気が感じられます。                                        伊藤 博文(1841~1909)は、初代内閣総理大臣であり、大日本帝国憲法を起草するなど、立憲政治の黎明期に大きな役割を果たした。                                   明治 29年に別荘を小田原から移転し、「滄浪閣」と名付けた。                                                     関東大震災後に再建された建物のうち、洋館と和館部分が当時の状況を留めている。                               別荘地大磯の代表的建物として、町の指定有形文化財となっています。

 

丁度、お昼の時間に旧吉田 茂邸に到着しました。

                                                 旧吉田邸は、明治 17年に吉田茂の養父「健三」が別荘として建てたもので、吉田茂が昭和 19年頃から、その生涯を閉じる昭和 42年まで過ごされたそうです。                      銀の間(寝室兼書斎)ここで吉田は最後を迎えたそうです。

その住いは吉田 茂没後、西武鉄道(株)へ売却され、大磯プリンスホテルの別館として利用されていました。                                              ローズ ルーム (食堂)

                                              平成中頃より神奈川県や大磯町により近代政治史の歴史文化遺産とし旧吉田 茂邸の保存・活用が検討され、隣接する「県立大磯城山公園の拡大区域」として整備することになりました。   新館 2階からの眺望 

                                           しかし、計画検討の最中、平成 21年 2月本邸が火災で焼失してしまいました。            紅白梅と兜門   

                                                消失を免れた日本庭園や歴史的資源(兜門 ・七賢堂 など)、そして大磯丘陵に連なる貴重な緑地を保存活用するため、平成 21年 7月に都市計画に位置付けされ、県が公園整備を行い、旧吉田茂邸は大磯町が町有施設として再建しました。

この吉田邸には、政界引退後も多くの政治家が「大磯参り」を行い、またアデナウアー西独首相や当時の皇太子殿下夫妻などの国内外の要人が招かれたそうです。                    また、吉田 茂没後に大平首相とカーター大統領の日米首脳会談が実施されました。

 

こんな自分たちの身近な所に歴史に残る素晴らしい場所があった事に驚きました。

 

 

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👣 小海沿線を歩く 👣

2019年02月18日 | 名勝:自然の風景
[キャラバン] トレッキングシューズ C1_02S ゴアテックス 0010106

低山でもガレ場・ぬかるみ等色々なケースがあります。足首をしっかり

保護され、ゴアテックスなら雨の日も安心です。

Caravan

山梨県北西部の小淵沢と長野県東部の小諸を結ぶ鉄道 『小海線』。 JR東日本。             信越本線と中央本線を結ぶ、全長 78.9Kmの路線です。

この蒸気機関車 は昭和 12年 3月より北海道の原野を走り、昭和 25年 8月から中込機関区に転属し、戦後の混乱 期に貨客混合列車として登場、小海線の輸送に活躍した。

国鉄の合理化により昭和 48年 6月廃車となりました。

同年 11月 17日 長野鉄道管理局より貸与を受け、野辺山高原へ永住することになった様です。

小海沿線でも、今回一番の目的は北相木村の三滝山「大禅(だいぜん)の滝」の氷柱見学であります。

                                           ここには「大禅の滝」・「小禅(こぜん)の滝」・「浅間(せんげ)の滝」の三瀑があり、三滝山と名付けられました。                                                 中でも大禅の滝は高さ 30mあり 、厳寒時には凍結してマツカサ状の大氷柱となる、面白い滝なのです。その眺望、壮観さは他に類例がないとのことです。

本当に不思議な氷柱ですね       

                                           雫がポタ ポタ垂れているとツララの様になると思うのですが  

                                           マツカサの先端を上に向けて立てた様な円錐形の氷柱になるのです。

1つのが垂れると、落ちて跳ね 上がる感じで氷結していくのでしょうか  不思議

直ぐ近くにある「小禅の滝」にも寄ってみました。

                                                こちらは冬 になると見られる普通の滝の氷結でした。

今日は雲一つない素晴らしい天気なので、八ヶ岳 がとても綺麗に見ることができました。   中々こんな日に巡り合うことがなく、下から見上げる八ヶ岳に感動しました。

青空に白い稜線と白亜の電波望遠鏡、この対比が美しい国立天文台「野辺山宇宙電波観測所」にも寄ってみました。

                                           観測所が野辺山にあるのは、天体からの電波はとても弱く、大気中の水蒸気に吸収され更に弱められてしまうので、観測には標高が高く水蒸気の少ない所、人工の電波が少ない所が適しているとのことです。                                              野辺山の良く晴れてカラッとした気候と周りを山 に囲まれて都会からの電波を遮る環境は宇宙電波の観測に最適な場所なのだそうです。

電波観測所のすぐ近くにある平沢峠 からも八ヶ岳や飯盛山が綺麗に見ることができました。

                                            八ヶ岳には良く足を運びますが、こんな素晴らしい天気に恵まれたのは初めての経験です。

綺麗な八ヶ岳 を見ていると美濃戸から赤岳鉱泉か、行者小屋の方に入ってみたい気がした。

                                             スノーシュー歩きでは坪庭が良いのかな   色々、になると虫が動く。

 

 

                                                           

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🌼 松田町寄ロウバイ園 🌼

2019年02月08日 | 春景色

 

NEEKFOX 超軽量 リュック 折りたたみ 防水 コンパクト アウトドア 旅行 登山 お出かけ 18L
軽くて持ち易く、アウトドアや旅行用などに普段使い易い便利な折りたたみリュックサックです。 収納サイズ18Lで125gと超軽量で強度もあり、汚れや崩れに強いナイロン素材。        防水ファスナーを使用し、少々の雨には対応できます。

 

丹沢 山塊の南側に位置する松田町寄(やどりき)地区、こちらで蠟梅を見て来ました。

ぶらりと立ち寄れる里山の風景。

寄ロウバイ園は地元の方々が平成 16年に、標高 380m付近の荒廃農地を整備し、平成 17年度 寄中学校卒業生が 250株のロウバイを記念植樹したのが始まりとのことです。

250株から始まった「寄ロウバイ園」も今年で 11年目を迎えて3,000株の 20,000本以上、敷地面積 13,000㎡以上と日本最大級のロウバイ園だそうです。

園誕生のきっかけとなった寄中学は今年度で閉鎖され、春からは隣の中学に統合されるそうです。多くの地域で少子化のためやむなく閉鎖統合されてしまうところが増えています。    仕方ないことかも知れませんが、母校が消えてしまうことは本当に寂しいですね。

園内は甘い香りがあふれ、花もつぼみも蠟細工のような光沢があります。

濃い黄色は『満月蠟梅』、淡いレモン色は『素心(そしん)蠟梅』。

私が訪問したのは 2月 4日(月)で入園番号 16,963番でしたが、9日のタウンニュースには 2万人を超えたと発表されていました。

寒い時期でも春を告げる色鮮やかな花を、結構遠方から見に来て下さるのですね。      卒業記念に植樹された卒業生もこんなに有名になり喜んでいると思います。

開花時期は 1~2月。葉の出る前に直径 2cmほどの香りの良い花を下向きに付けます。

                                               冬空の青に、下から見上げる黄色がとても鮮やかなコントラストに驚きます。

 

 

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🏢 韮山反射炉 🏢

2019年02月03日 | 世界遺産

 

[ザノースフェイス] ハット ゴアテックスハット ユニセックス NN01605
防水・透湿性素材のゴアテックス・ファブリクスを使用したレインハット。つば結合部、縫い目からの雨水侵入を抑え、広めのつばで紫外線カット、調節可能な顎ひも付きです。
GOLDWIN(ゴールドウイン)

幕末期における近代製鉄技術導入への挑戦を物語る『韮山反射炉』

寛永 16(1639)年から嘉永 6(1853)年のペリー黒船来航まで続いた❝鎖国❞         長崎「出島」のオランダ人との貿易関係を除く他の外国人の日本渡航禁止による孤立状態。

この状況の中、天保 11(1840)年のアヘン戦争(清朝のアヘン禁輸措置からイギリスと清国[中国]との間に起った戦争。清国が敗北し、列強との不平等条約締結、中国の半植民地化となった。)を契機に、日本では列強諸国に対抗するための軍事力強化が大きな課題となり、唯一外国との交流のある長崎の出島より西欧の文物(蘭学)を取り入れ、薩摩や佐賀などの各藩では、西洋の先進的な技術の導入が積極的に行われるようになりました。

幕府においても、韮山代官「江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)を始めとする蘭学に通じた官僚たちにより、近代的な軍事技術や制度の導入が図られはじめた。                        江川英龍は西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産、西洋式築城術を用いた台場の設置、海軍の創設、西洋式の訓練を施した農兵制度の導入など、一連の海防政策を幕府に進言した。

このうち、鉄製大砲を鋳造するために必要とされたのが「反射炉」であった。

嘉永 6(1853)年、ペリー艦隊の 来航を受け、幕府もついに海防体制の抜本的な強化に乗り出さざるを得なくなった。                                                                                                              そこで以前から様々な進言をしてきた江川英龍を責任者として、反射炉と品川台場の築造が決定されたとのことであります。

                           

 

なぜ『反射炉』と呼ばれるのか 

反射炉は、17世紀から 18世紀にかけてヨーロッパで発達した金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉で、内部の天井がドーム状になった炉体部と、煉瓦積みの高い煙突からなる。

                                            石炭などを燃料として発生させた熱や炎 を炉内の天井で反射し、一点に集中させることにより、銑鉄を溶かすことが可能な千数百度の高温を実現する。                      この様な、熱や炎を反射する仕組みから、反射炉と呼ばれているのだそうです。

 

反射炉は、当初 伊豆下田港に近い賀茂郡本郷村(現 下田市)で着工し、基礎工事などが行われていた。しかし安政元年(1854)3月、下田に入港していたペリー 艦隊の水兵が敷地内に侵入する事件が起きたため、急きょ海岸から離れた韮山の地に建設地を変更することとなった。

下田での築造のために用意されていた煉瓦や石材は韮山に運ばれ、改めて利用された。    また、千数百度という高温に耐える良質の耐火煉瓦は、賀茂郡梨本村(現 河津町)で生産されていた。                                               韮山での反射炉築造は順調には進まず、江川英龍は、その完成を見ることなく安政 2年(1855)に世を去っている。                                                                                                                  後を継いだ息子の英敏が築造を進め、安政 4年(1857)、連双 2基 4炉の反射炉本体とその周辺の関連施設からなる韮山反射炉を完成させた。

 世界文化遺産

『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業

明治日本の産業革命遺産は、西洋から非西洋への産業化の波及を顕し代表する日本国内 8エリア、23資産から構成されており、平成 27年(2015)7月、世界文化遺産に登録された。

19世紀の半ばから 20世紀の初頭にかけ、日本は工業立国土台を構築し、製鉄・製鋼・造船・石炭産業という重工業分野において、急速な産業化を成し遂げた。                    産業化の歩みは、蘭書 片手に試行錯誤での鉄製大砲鋳造への挑戦や、洋式船 の模倣から始まった。                                                     次に、西洋技術の導入が行われ、専門知識の習得を行った。                        明治の後期には、国内で人材が育ち、積極的に導入した西洋の科学技術を国内に適合するよう改良を加え、産業経済の基盤を築いた。                                      このようにして、日本は非西洋諸国で初めて産業革命の波を受容し、50年余りという短期間に、植民地にならず自らの手で産業化を成し遂げた。

ガイドの土屋様から詳しく解説して頂きました。                               鎖国中に師もなく蘭書片手に試行錯誤の鉄製大砲造り、韮山反射炉では 4基しか製造できなかったそうです。出来上がった大砲は品川のお台場まで船で運ばれました。

                                           「萩の反射炉」と共に現存する反射炉としては、歴史に残る貴重な遺産となっています。            ここ韮山反射炉は、実際に稼働し、ほぼ完全な形で残る世界唯一の反射炉とのことです。

 

 

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