本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
壽
御祭神 神代日本の国づくりをされた神 大己貴命(大国主命)をお祀りする
東海の総鎮守の社 砥鹿神社里宮
霊山 本宮山 砥鹿神社奥宮
すべての国に平和がありますように
本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
壽
御祭神 神代日本の国づくりをされた神 大己貴命(大国主命)をお祀りする
東海の総鎮守の社 砥鹿神社里宮
霊山 本宮山 砥鹿神社奥宮
すべての国に平和がありますように
新春に行われ、人気の高い恒例のスポーツ行事となっています。
今のスポーツ界での日本の若い選手の活躍は素晴らしく沢山の感動を頂いています。
今年(2024)の7月 26日から8月 11日までフランスで開催された第 33回 パリオリンピックでも、沢山の選手の活躍に興奮しました。
日本の国旗が、高々と掲揚されると、何故か自分のことの様に嬉しくなります。
❝ 努力は人を裏切らない ❞
この言葉を自分にも言い聞かせています。
先日の 10月 19日(土)には 「箱根駅伝予選会」 が実施され、皆さん我が校こそはと大会に臨みました。 ところが当日は暑くて熱中症で倒れ、棄権する選手もいたようです。
また、20日(日)には全日本実業団女子駅伝が実施されました。
時期として駅伝競走大会のシーズンに突入です。
箱根駅伝 は 1920年、報知新聞社によって開始されたとのことです。
来年の 新春 に実施される 箱根駅伝 は第 101回大会となります。
全校、全選手の力走を楽しみにしています。
どんな結果になっても
皆さんの頑張りを誇りに思います。
負けないで
築 300年の古民家 『瀬戸屋敷』 で行われる雛祭りには、江戸時代の風情がいっぱい。
地元の蔵から発見された 300年前の「享保雛」や瀬戸屋敷収蔵のひな人形の数々、手づくりの「つるし雛」8000 個以上を展示。 高さ 2.4mの「大つるし雛」は圧巻です。
瀬戸屋敷は、江戸時代、この地域の名主を務めてきた瀬戸家のお屋敷として建てられました。 300年という長いながい時間の流れに洗われた、穏やかでやわらかい空気が迎えてくれます。
屋敷には、水車や土蔵、囲炉裏、井戸など、あの頃の日本が今もそのまま残っています。
季節や自然とよりそっていた、日本ならではの暮らしを思い出してみる。
時間を忘れて、ただただほっこりと過ごしてみる。
まわりに広がる田園風景も、じまんのひとつです。
おたまじゃくし、アメンボ、ホタル、あじさい、稲穂など、季節ごとのいろんな表情が心の時計をゆっくりにしてくれるはずです。
歴史ある母屋を、様々な時代のお雛様が彩り、豪華な段飾りや御殿飾り、八千個以上のつるし雛など、華やかな色彩と手作りの温かさが見る人の心を和ませます。
3月3日は、女の子の晴れの舞台でもある 『ひな祭り』 の日です。 女の子のいる家庭ではひな壇を作り、たくさんのひな人形を飾るのが習わしとなっていました。
桃の花を供えることから桃の節句」も呼ばれ、春らしい彩に満ち溢れる行事となっています。
でも、『ひな祭り』を紐解くと彩に満ち溢れる行事とは、一寸違うようです。 ひな人形とはそもそも、何なのでしょうか ❓
それは形代(かたしろ)と呼ばれる人形の一種で、神や霊が降臨するもので、霊が取り憑く対象物なのだそうです。 言わば、わが娘の身代わりだそうです。 娘に襲い掛かろうとする病などの災厄、穢れを、ひな人形に移して避けるという行事が「ひな祭り」のもとになっているとのことです。
この行事が定着したのは平安時代といわれています。
当時の乳幼児死亡率は現代とは比較にならないほど高かった。 赤ちゃんのうちに亡くなってしまうことも珍しくもなく、親としては必死の思いで子の成長を見守り、枕元には形代を置き、厄除けとしたようです。 そして1年の災いを、春のひな流しで祓う。 この様なことが『ひな祭り』の起源なのだそうです。
ひな人形は「ひな祭り」が終わったら直ぐに片付けないといけない。というしきたりは今でも存在するようです。
大磯の左義長はセエノカミサン(道祖神)の火祭りで、セエトバレエやドンドヤキとも呼ばれており、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
その始まりは 400余年前、江戸幕府初期の頃とされており、江戸時代、明治、大正、昭和、平成、令和と時代の移ろいと共に、親から子、子から孫へと引き継がれてきた伝統行事です。
「道祖神のお祭り」というと正月飾りの後始末的な行事と捉えられていますが、大磯左義長の根底には『子供たちの 健やかな成長を願う』という想いがあるのだそうです。 「下町」と呼ばれる大磯港周辺の地区には、かつて多くの漁業関係者が住んでいて子供も多く、この行事が盛んに行われていました。
しかし、近年は社会動向の変化に伴って次第に下町地区から漁業関係者が 離れ、人手も不足してきています。 大変ありがたいことに下町以外の皆様にも御支援頂きながら令和の時代まで引き継いで来ることができました。 ただ、かつての賑わいを取り戻すまでには至っておらず、徐々に衰退の一途をたどっているのが現状とのことです。
歴史上または芸術上価値の高いものを、特に重要なものとして重要無形文化財として国が指定していますが、人口減少や都市以外の過疎化が進みつつある現在、『祖先から受け継いできた思いを風化させず、また次の世代へ引き継ぎたい』という気持ちで活動される大磯町左義長保存会の皆様のご努力に心から感謝申し上げます。
明るいうちに会場を見学していたので、暗くなっても 様子が判っていたので良かったですが、やはり「道祖神の火祭り」であり夜の迫力が最高です。
北浜海岸に立てられた9基のサイトに、その年の恵方の方角が火の点け口となり 18時30分に一斉に点火されます。
その時間を目安に沢山の方々が竹の竿に取り付けた針金に挿したお団子を持ってやって来ます。
夜になってからの浜風は 冷たく、山用の準備が有ったので寒さは大丈夫でしたが、次々に押し寄せる人の波に驚きました。
それぞれの地区のサイトは色々特徴があるので、砂浜をグルグル歩き廻りました。
暗くて良く見えないし、歩き回ってハアハアしてメガネは曇るし、砂浜で歩きにくく三脚どころでなく、普段でも上手くない写真がボロボロでした。 ただ、何となく雰囲気が判って頂けたら嬉しいです。
サイトの燃え上がった炎がオンベ竹に届き始めると、四方に張られたオンベ綱が外され、恵方の方位に倒されます。
その頃になると山王町、大北、長者町の3ヵ所のサイトの西湘バイパス側では褌姿(ふんどしすがた)の若い衆が伊勢音頭(左義長音頭)を唄いながら火の回りに集まります。
晩年を大磯で過ごされた「島崎藤村」 は、大磯に伝承されてきた民俗行事の大磯左義長に心動かされ、日ごろ敬慕する西行法師の面影を伝える鴫立庵や茶室如庵(のちに犬山市へ移された)など、数々の好条件に心引きつけられて大磯に移り住みました。
島崎藤村のお墓は、大磯駅に近い『地福寺』にあります。
上の絵は、左義長が盛んであった頃のものです。
※ ご覧頂き、ありがとうございます。
会場は JR 東海道線の大磯駅から 10分ほど南東に進んだ大磯北浜海岸で行われました。
普段はサーフィンを楽しまれる人たちの会場のようで、海岸にはトイレ やシャワー施設も用意され、左義長用には大磯港よりに観覧台が用意されていました。 この日も沢山のサーファーの方々が、サーフィン を楽しまれていました。
祭りの当日は、町内各所のおんべ竹やお仮屋などを片付け、集められたお飾りや縁起物を浜辺に運んで9つの大きな円錐形のサイトが作られます。
尖端から大穂竹(おんべ竹)が突き出し、その穂先に書初めや輪飾り、極彩色の色々な物が浜風に音をたてて なびき、周囲には御用済みのだるまや神社のお札などが差し込まれて、まさに奇観です。
セエトバレエの準備は前年の事八日といわれる 12月8日の「一番息子」という行事から始まります。
セエノカミサン(道祖神)の祠に置かれているゴロ石と呼ばれる真ん中がくびれた石に縄をつけ、子供たちが家々を巡り「○○さんに良いお嫁さんが来ますように、いちば~んむすこ」などと家人に頼まれた願いを唱えながら玄関先で石を地面にドンドンと打ち付け、賽銭をもらいます。この賽銭で子供達は風邪をひかないよう豆腐を食べるという厄災招福の行事とのことです。
地元では、これが正月行事の始まりだといわれています。
かつては、松の内(1月7日)が過ぎると子供たちは正月のお飾りを集めに歩き回り、8日に下町通りに木造の組立式のセエノカミサンのお仮屋 が作られ、子供たちが籠ります。
あげられたお賽銭は子供たちのお小遣いになったようです。
北浜海岸に藁(わら)や各地区から集まった正月飾りなどを積み上げて、高さ8メートルほどのサイトが9基作られた風景。
各サイトには御用済みのだるまや神社のお札が差し込まれており、待っている間にも家から持って来られたお札などを差し込んでる方々を見掛けました。
地元の人たちはセエノカミサンにお参りして歩き、特に七ヶ所に参ることを七所参り(ななとこまいり)と言っていたようです。
小正月の1月 15日前後に行われる火祭りが『左義長』で「どんど焼き」・「どんど祭り」とも呼ばれ、各地でも行われますが色々な風習の形が見られて楽しいですね。
昔は、ほとんどの家で門松を立てたので、サイトの材料に困ることは無く、藁(わら)が燃えた後にはお飾りが顔を出したりしたようですが、今は材料集めに大変苦労しているとのことです。
どこでも聞かれる話には、燃やした書初めが高く舞い上がると腕が上がる、松の燃え炭を屋根に載せておくと 「火災除けのまじない」 になるといわれ持ち帰った。というお話があります。
※ ご覧頂き、ありがとうございます。
火の用心 ❣ 火の用心❣
消防団が 新年の最初に行う演習の儀式『出初式』を見てきました。
近代的な消防演習のほかに、町火消時代の伝統を継ぐ梯子(はしご)乗りは有りませんでした。
日本の消防組織は、江戸幕府が大名火消、旗本火消〈定火消(じょうびけし)〉を設置したのが始まりだとされており、その組織が整ったのは 1658年(万治1年)だそうです。
1718年(享保3年)町奉行令によって町火消を設けたが成果が上がらず、1720年改組し、「いろは四十七組」(のちの四十八組)が発足した。
出初式は町火消の初出行事で「いろは四十八組」の江戸町火消は、それぞれの纏(まとい)を奉持して町を練り歩き、梯子乗りの妙技を披露した。
1948年(昭和 23年)の『消防法』によって自治体消防が発足してからは、消防団のパレードや一斉放水などの行事が多くなったようです。
消防団員の士気高揚と防火意識の普及などを目的として「南足柄市消防出初式」が1月9日(日)に開催されました。
毎年実施されている行事ですが、今回初めて見学させて頂きました。
学生生活を卒業し社会人になってからは、広い校庭のような所で整列することもなくなり、消防団員186名さんのキビキビした切れのある動きには、流石頼れる方々だと感じました。
それに消防団の県大会に出場された選抜メンバーによる見事な消火演技を披露して下さいました。
会場での演技終了後、大雄橋上流狩川水辺プラザでの一斉放水会場まで、消防車両 28台の連なるパレード走行が実施され、多くの市民が出迎えました。
大雄橋上流の狩川水辺プラザ左岸から消防団が 24本のホースから一斉放水。
右岸からは足柄消防署のはしご車がはしごを伸ばし、高所消火対応の放水作業を見せてくれた。
私たち市民は、この様な消防団員の皆さんにより守られていることに感謝いたします。 この出初式会場の受付では、消防団員の募集も行っております。
昔からお正月には歳神様が元旦の朝に天から降りて来ると信じられていました。
門松、注連縄(しめなわ)などの飾りや、大掃除、餅つきなどの行事は、その歳神様を迎えるためのものです。
一般的には、餅つきや大掃除などのお正月の準備は、13日から は28日までの間に行い、また門松や注連縄飾りは 29日は『苦待つ』31日は『一夜飾り』といって不吉とされていますから、この両日は避けて飾ります。
かつてのお正月は、お盆と同じく、祖先の霊を呼び、慰霊する行事だったといわれています。
それが次第に分化し、新年のお祝いと、一年の無病息災を願うものに変わって行ったようです。
霊(歳神様)は門松を目印に降臨してくるといわれています。
そして注連縄は、あの世とこの世との境界線の意味があるといわれ、注連縄を張ることによって「霊域」をつくり、死霊が滞在できる環境としたようです。
こうして招いた霊に、一年の幸福と豊作を祈る・・・・・それが日本の正月の原点だそうです。
※ 参考書籍 ⇒ 「日本のしきたり」彩図社
改めまして
新年 あけまして おめでとうございます。
本年も どうぞ よろしくお願い致します。
昨日は去りました。
明日はまだ来ていません。
私たちにはただ、
今日があるのみ。
さあ、始めましょう。
マザー・テレサ(修道女)
※ ご覧頂き、ありがとうございます。
大嘗宮(だいじょうきゅう)一般参観が令和元年 11月 21日(木)から 12月 8日(日)とのことで、平日の雨の日が空いているのではと思い出かけてみました。 いやいや、それでも結構混雑していました。 一般参観が終了すると、取り壊されてしまうということで、皆さん一目見ておきたいと思われるのですね。
大嘗宮は、天皇陛下がご即位の後、初めて新穀を皇祖・天神地祇に供えられ、自らもお召し上がりになり、国家・国民のためにその安寧と五穀豊穣などを感謝され、ご祈念になる大嘗祭の中心的な儀式「大嘗宮の儀」のために令和元年 7月下旬から 3ヵ月余りかけて皇居東御苑に造営されました。
二重橋前から坂下門の検問所に向かう。
7世紀後半の天武天皇の時代から、歴代の天皇が即位後に「大嘗祭」を行うことが、皇室の伝統となっているのだそうです。
政府のノーチェックで入れる「桜を見る会」と違って、坂下門前の検問所で皇室警察により持ち物検査とボディーチェックが行われ、大嘗宮へ。 これなら天皇皇后両陛下も安心できると思いました。
令和元年 5月 13日には大嘗祭で使う米を収穫する 2つの地方を決める「斎田点定(さいでんてんてい)の儀」が宮中三殿にある国内の神々を祀る神殿で行われました。
坂下門を抜け進むと、まず富士見櫓が目に入りました。
儀式では、亀の甲羅をあぶってひびの入り具合で物事を定める「亀卜(きぼく)」と呼ばれる宮中に伝わる占いが行われ「大嘗祭」で使う米の収穫する東の「悠紀(ゆき)」地方に栃木県が、西の「主基(すき)」地方に京都府が選ばれました。
栃木県は「とちぎの星」という品種が作付けされ、京都府は「キヌヒカリ」という品種が作付けされました。
参観者の流れに沿って進むと「百人番所」が見えました。 百人番所とは、江戸城本丸への道を厳重に守る大手中之門に向き合って設けられた警備詰所とのことです。
甲賀組、伊賀組、根来(ねごろ)組、二十五騎組という 4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務していました。各組は、20人の与力と100人の同心で構成されていました。
百人番所前を左折し、立派な石垣の間を抜け大嘗宮のある本丸方向へ移動。
曲がりくねった順路を流れに沿って登り進むと、前方左手に大嘗宮が見えてきました。
大嘗宮の俯瞰写真 23番の幄舎(あくしゃ)という参列諸員が着席した建物は大嘗宮の儀終了後、撤去されました。 その広場を一般参観者が右から左へと移動しながら大嘗宮の見学をします。
令和元年10月22日に天皇が即位を国の内外に宣明する「即位礼正殿の儀」が行われ、各国元首、首脳らや国内の代表が参列されました。
大嘗宮の儀では、本年 11月 14日の夕方から夜にかけて「悠紀殿供饌(ゆきでんきょうせん)の儀」が行われ、翌 15日の暁前に「主基殿供饌(すきでんきょうせん)の儀」が行われました。
見学順路は、大嘗宮を正面に見て右手から左に進み、左側面から裏手に回り、北西方向の平川濠へ進み二の丸庭園を見学し大手門を出ました。
こちらは右手 7番、中央 17番、左手 21番を見た所です。
こちらは右が 7番、左は 17番です。
こちらは正面で12番の南神門です。
こちらは左手から 8番、18番、21番を見たものです。
こちらは大きい建物 2番、その手前が 14番、その右に 21番、20番です。
こちらは後方から左手 3番と 21番を見たものです。
参観者が大変多く、流れるように見学し「立ち止まらないで下さい。」との指示も飛び大変でした。その後は、ノンビリ秋らしい装いを見せてくれる二の丸庭園を見学して来ました。
とても静かで、京都の雰囲気が感じられました。
元々、明治 45年(1912)に、皇居内の吹上地区に建てられたものですが、昭和 43年(1968)に現在の場所に移築されたという「諏訪の茶屋」