冬至、北半球では正午における太陽の高度は一年中で最も低く、また、昼が最も短い。
夏ならまだ明るい時間なのに、たそがれ時から国際客船ターミナルの横浜港大桟橋から、移り行く夕暮れの富士やみなとみらい方面を眺めた。
陽が落ちると師走の街に、冬の灯りがきらめきだし、その美しさに感動。
素人にも美しさは感じるが、三脚なしで、それを表現することは難しい。
冬至、北半球では正午における太陽の高度は一年中で最も低く、また、昼が最も短い。
夏ならまだ明るい時間なのに、たそがれ時から国際客船ターミナルの横浜港大桟橋から、移り行く夕暮れの富士やみなとみらい方面を眺めた。
陽が落ちると師走の街に、冬の灯りがきらめきだし、その美しさに感動。
素人にも美しさは感じるが、三脚なしで、それを表現することは難しい。
YSC 40~80(フォーティー・エイティー)結成 2周年。
平成 29年12月17日(日)セミプロやプロが演奏会に使用している熱海の店舗を貸切り、先生・家族・友人等を招いて飲食しながらの演奏会兼忘年会に参加して来ました。 先生(サクソフォーン奏者)の御挨拶。
このYSCはソプラノ、アルト、テナーのサクソフォーンクラブです。 我が YSC の 演奏曲 を編曲して下さる先生の御挨拶。
当初の結成は先生の指導により、サックスの練習仲間でアンサンブルを組んだらどうか と言うことが始まりでメンバーが集められたのです。 YSC リーダーの演奏。
メンバーは人柄の良い、色々な職業の方々が集まり、皆さん趣味の域を越え真剣に取り組まれる姿に、自分の甘い考えでは不味いと方向転換し皆さんと共に歩んでいます。
教室でのレッスンが月 2回、メンバーとの合同練習は防音室を貸切 月 2回、個人的な練習を含めると月10日以上は練習に時間を作っています。 これは「大人の音楽祭」に先生とアンサンブルで参加しました。
仲間での演奏曲も徐々に増え、ニッポン放送の深夜ラジオ番組「オールナイトニッポン」のオープニングテーマ曲『ビター・スィート・サンバ』や『ルパン3世』・『テイク・ザ・A・トレイン』など YSC としての演奏曲が 10曲ほどになり、10人のメンバー各人がメインで演奏する曲 10曲や練習曲を含めると 20曲を越え、単独でやっていたらとうに挫折していた と思われたのに、今はとても楽しくなりました。 我が YSC の先生方は凄い先生ばかりで、ピアノを演奏しながらコルネット(管楽器)を同時演奏され、自分はビックリしました。
結成 2年の間に、地元の音楽祭や商店街の催し・お祭り・老人ホーム慰問などに参加して来ましたが、来年はもっと沢山の行事に参加していく予定です。
鎌倉という土地の歴史の始まりは、はるか遠く旧石器時代にまで遡ります。 独自の美意識や文化を色濃くしていったのは、源 頼朝によって武家政権が誕生した鎌倉時代。 その後、江戸時代には江戸庶民が社寺を訪れるようになり、明治時代の文明開化を経て、近代には文士たちが集う文壇の中心地としてのイメージを根付かせてくれた所です。
また、平成 27(2015)年度より文化庁がスタートさせた『日本遺産』という認定制度。 日本各地に存在する有形・無形の文化財を、その地域の歴史的なストーリーにからめ沢山の人々に認知を広めようとするものだそうです。 それに鎌倉市は、歴史的遺産と自然・文化とが調和したまちとして、平成 28(2016)年度にこの認定を受けられたとのことです。
そんな事は露知らず、殆ど歩かない中学の同級生 5人と行き当たりばっ旅の感じで鎌倉に向かいました。
当初は北鎌倉へ行こうとの話が、電車の中で江ノ電に乗り海を見ながら行こうと急きょ変更になり、文明の利器 ICカードを持たない人がいたので、藤沢駅で精算所に向かう。 全てがスローで、歩くのも遅い。 今日は何ヵ所の寺社を回れるのか 鎌倉の空気が吸えるだけでも良いだろう。 江ノ電の由比ヶ浜駅下車 10時半を回っていた。 駅から北西に進み、バス通りである由比ヶ浜大通りを横断し、ツバキに囲まれた石畳の小道を緩やかに登って行く。
そこは鎌倉ゆかりの文学者たちの足跡が辿れる、旧加賀藩前田家 16代当主「前田利為(としなり)」の別邸であった『鎌倉文学館』である。
相模湾を一望する高台にあり、一寸見頃を過ぎていましたが海側にあるバラ園で遅咲きの花が見られました。
この文学館では、教科書で知った沢山の文学者の直筆原稿や手紙、愛用品などが展示され、特に何度も訂正した直筆原稿を見ると作品を執筆する大変さが読んで取れました。 それぞれが好きな文士の生い立ちや作品に目を通したりで 12時を回ってしまい、鎌倉駅に向かい食事を済ませた。
午後は鎌倉駅から金沢街道を走る バスで浄明寺まで乗り、鎌倉五山五位の浄妙寺に向かった。 こちらの寺は稲荷山と号し、臨済宗建長寺派の古刹である。 源 頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利 義兼(1199没)が文治 4年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。
開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の弟子 月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と改称したとのことです。
この後は、バス通りである金沢街道を徒歩で鎌倉駅に戻りながら、街道両脇にある寺社に立ち寄った。 足利 尊氏の祖父、家時が開基し、建武元年(1334)に創建された臨済宗寺院『報国寺』。
古くから境内の孟宗竹の林が有名で「竹庭の寺」と呼ばれています。 平日であったが、あまりの混雑で竹林に入らず、次に移動。
天平 6年(734)に行基(ぎょうき)が開山した鎌倉最古の寺『杉本寺』。
茅葺き屋根の本堂には本尊の十一面観音菩薩が 3体あり、そのうち 2体は国指定の重要文化財。本堂に上がり、間近に拝見することができます。
鎌倉時代の火災の時に 3体の観音菩薩が自ら大杉の下に避難したことから「杉の本の観音」と呼ばれたとのことです。 坂東三十三観音霊場の第一番札所であります。 苔むしてすり減った石段に、長い歴史を感じます。
もうこの歳になると急ぐことはしない、ノンビリ・キョロキョロ、紅葉ヶ谷と呼ばれる車の少ない道を進む。
臨済宗の禅僧、夢窓疎石(むそうそせき)が嘉暦 2年(1327)に開山した『瑞泉寺』に 15時 到着。
梅・桜・スイセン・新緑・紅葉など四季折々の美しい花が彩る寺。
「谷戸」(やと)と呼ばれる多くの谷が連なる鎌倉は 15時ともなると、谷間は暗く、日差しのある所は明る過ぎるという明暗の差が大きく、素人では写真撮影が難しい。
足利 基氏をはじめ、代々の鎌倉公方の菩提寺として高い格式を誇り、また夢窓疎石が岩盤を削って作ったといわれる岩の庭は、書院庭園の元となり、国の名勝に指定されているとのことです。
瑞泉寺から戻りながら、鎌倉宮の北側に昭和 58年~平成 8年にかけて約15,800㎡の発掘調査が行われ、当時の伽藍配置や苑池が発掘された国指定史跡『永福寺跡』(ようふくじあと)に立ち寄りました。
到着 15時半。 鎌倉には沢山の神社仏閣が見られるが、みな境内は狭い所が多いのに、こんなに広い場所があるのに驚きました。
永福寺は、源 頼朝が文治 5年(1189)奥州平泉を攻めた後、戦いで亡くなった数万の将兵の鎮魂のために、平泉で見た毛越寺や中尊寺を模して建立を思い立ったとされています。
頼朝が征夷大将軍に任命された建久 3年(1192)に中心の二階堂が完成しました。 この堂の名は、現在の地名ともなっています。 建久 5年(1194)までに、二階堂の両脇の阿弥陀堂、薬師堂が完成します。
この三つの堂を中心に惣門、南門、釣殿、多宝塔、鐘楼、僧坊などの建物があったとされ、当時の旅日記 などの文献には「その姿形は極楽の様子をそのまま表したようだ。」と形容されているとのことであります。
私達も当時の推定復元図 を見ましたが、何と京都の宇治平等院とそっくりで、ビックリしました。 建物の礎石はありましたが、それだけでなく関東の平等院として再建されたら凄いですね。
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希(こいねが)ひ
手をかたくくみあはせ しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも 私たちの内の 誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ 鳥々は恒に変わらず鳴き
草木の囁(ささや)きは時をわかたずとするとも いま私たちは聴く 私たちの意志の姿勢で それらの無辺な広大の讃歌を
あゝわがひと 輝くこの日光の中に忍びこんでゐる 音なき空虚を 歴然と見わくる目の発明の 何にならう
如(し)かない 人気(ひとけ)ない山に上(のぼ)り 切に希はれた太陽をして
殆(ほとん)ど死した湖の一面に遍照さするのに
『わがひとに与ふる哀歌』 伊東静雄(1906~53)