素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

▲九鬼山ハイク▲

2016年12月25日 | 私の見た山・登った山

ちまたではクリスマス、当地では街中にクリスマス メロディーが流れるほどではないが、小さな お子さんがいる家庭では年間の大きなイベントです。                                   一方では子育ても終わり落ち着かれ、ノンビリ生活を送っている方々も沢山いられます。                                                                                        今では生涯独身の方や私たち歩く仲間の中でも配偶者を亡くされた方など一人住まいの方が増加傾向にあるようです。                                                                                   (馬立山の木々の合い間より見えるのが九鬼山 です。)

                                                      その様な方々も含め、家に籠ることなく仲間と楽しく1年の締めくくりにと、山梨県の九鬼山(970m)を歩いて来ました。

中央自動車道の大月 ICを 9時 25分に出て、中央本線「猿橋駅」近くの神楽山登山口に 9時 30分到着。 

                                               登山準備は途中で済ませ、狭い道路脇の登山口であり、素早くバスを下車し神楽山に取り付いた。

尾根に出るまでは急登であったが、歩き始めであり皆さん快調であった。

登山道脇は落葉樹が多く、木々の間から周りの景色が見て取れるうえ、登山道が明るく落ち葉の上をカサカサと音を立てて歩くのも気持ち良い。

神楽山(674m)は縦走路から少し外れていたが、目の前に見えるので皆さん山頂に向かった。山頂着 10時 30分。

                                               山頂は狭く順番に登り、山頂標識を確認して次の御前山に向かった。

多少のアップダウンを繰り返し、御前山ごぜんやま:730m)着、10時 55分。

                                                        露岩の山頂で、南東側が開け一番の展望良好地でした。富士が素晴らしい。

次の馬立山またてやま:797m)までの途中に沢井沢ノ頭と言うピークを 11時 30分に通過。

                                               尾根上だが風もなく、暖かい日差しの中を散策と言った感じで進み、

                                                     馬立山到着 11時 55分。

こちらも尾根上であるが、風が無かったので 25分間の昼食とした。12時 20分出発。

 

ここから札金峠までは、こんなに登ったのにもったいないと感じるくらい高度を落とす。約 35分下り続けて札金峠を 12時 55分通過。

徐々に緩やかな明るく広い登山道を登り 13時 20分、登山道が広場の様になった「紺場の休場」に到着、5分の立ち休憩を取った。

ここからは西方向が開けており、正面にドッシリとした高川山(975m)を望むことができた。

さて、これからが今日の目的である九鬼山を目指す。                                                     札金峠まで下った分、ここで取り返すのである。

九鬼山に直進直登でなく、北東側にある尾根に巻いて登って行く。

尾根に出てからは本峰を目指す、でも最初に見えるのは偽山頂であり、皆さん大分疲れが見えてきたが 今年最後の登山であり、頑張って登りました。

少し差は出たものの 10分遅れ程度の 14時 05分に全員二等三角点の山頂を踏みました。 お疲れ様で~す。

ここからの富士山の景色も最高でした。                                                                          2016年の締めに綺麗な富士が望めて良かった。

全員で記念写真を撮って 14時 20分、 田野倉に向けて下山を開始しました。

逆光の富士やリニヤ実験線の軌道を見ることができたが、逆光であったことが残念だった。

大分、住宅の屋根が大きく見えだし、最後に小さな沢の徒渉をしたら田野倉側の登山口に出た。15時半。

17時半からは、焼肉での忘年会であり、下りの早いことに驚いた。               皆さん元気で何よりです。   来年もどうぞよろしくお願い致します。       楽しい山行・お祭り・寺社仏閣見物、ありがとうございました。

 

 

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◎ 秋葉山本宮秋葉神社奇祭の火祭り見学 ◎

2016年12月17日 | 伝統行事

火防(ひぶせ)の神様『秋葉山本宮秋葉神社』の“火まつり”に合わせて参拝をして来ました。

                                                         こちらの神社は、東海随一の霊山との呼び声も高い秋葉山 (あきはさん)を神体山と仰ぎ、創建は和銅 2年(709年)と伝えられております。

                                                   中世には「秋葉大権現」と称して、その御神徳は国中に知れ渡り、朝廷からは正一位(しょういちい)の神階を賜り、著名な武将からも数多くの名刀が寄進されました。

                                                       更に江戸時代には全国に秋葉講が結成され、街道は参詣者で賑わい、今なお古式の祭儀がそのまま営まれ、全国津々浦々より崇敬されております。

「秋葉の火まつり」は、毎年 12月 15日~16日の両日にわたって執り行われます。                                                                                       火防(ひぶせ)の神の本宮と仰がれる秋葉神社の大祭のクライマックスである 16日の深夜(22時~)に、社伝の秘法を以て『弓の舞』・『剣の舞』・『火の舞』の三舞を奉奏して斎行されます。

私達は本宮秋葉神社に 21時に到着。                                                冷え込みは予想外に厳しく、防寒万全の態勢で出発。 とても月の綺麗な夜でした。                    この日は秋葉山の秋葉寺(しゅうようじ)で 21時から、22時からは本宮秋葉神社の 2か所で「火まつり」大祭が同日に開催されました。                                                 まずは開催時間が早く、今日の宿坊でもある秋葉寺へ向かいました。                          神社から秋葉杉の中の真っ暗な参道の下りが 20分ほどかかり、21時 25分到着。           既に大護摩供養は終了し、火渡りの儀式に入っていました。

                                           火渡り儀式を見学後は宿坊に入り、荷物を部屋に置き、カメラとライトを持ち 22時から始まる秋葉神社への坂道を、寒い中必死に登りました。

古代、人類の祖先は生活に欠かせない火の利用を発見し、雄大な神秘の火を最も神聖なものとして、火の御祭を尊びました。

                                                 寒い冬の季節を耐え忍ぶ人々は、一日も早く野山に草木の芽吹くのを待ち望んで火を焚き、その力によって、うららかな春の日差しを迎えようと神の祭りが行われます。

                                                                              こうして古くから行われてきた秋葉の火まつりは、第に火災焼亡の危急を免れ、第に洪水波没の難を免れ、第に諸厄諸病の難を免れ給うと、多くの人々の願いをこめて、三名の神職によってそれぞれの弓の舞・剣の舞・火の舞の三舞が、各々秘伝をもって演じられます。

最初の『弓の舞』は、弓を左手に鈴を右手にとって、静かな舞から次第に激しい舞に移り、舞の後は 5本の矢を東西南北に向けて次々に放ちます。                                       この当たり方によって、来年の豊年吉凶を占うのだそうです。

次の『剣の舞』は、左手に剣を右手に鈴をもち、地上の精霊をなだめ、悪魔を抑える舞を舞い、左右に二振りの剣をとって振りかざし、罪・穢れを切り祓う舞いとのことです。

最後の『火の舞』は、ご本殿の奥に奉安されている万年の御神燈から火を移した松明が、神職により神楽殿に運ばれ、

                                                                                                                                                その松明を受け取った神職が高く低く振りかざしながら、人々の火難・水難・諸厄諸病を祓いやる祈りを込めて、                                                                                                                                                  あかあかと燃え盛る火の舞に参拝者の皆さん寒さを忘れ見入っていました。                                                 

 

 

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⛩ 山住神社参拝 ⛩

2016年12月17日 | 宮詣で

南アルプスに連なる標高 1100mの頂で、1300年の大杉に囲まれ山霧深い霊山は、また霊験あらたかな山岳信仰の山住山山住(やまずみ)神社を参拝して来ました。

                                                  伝えられる ところによると、山住神社は和銅 2年 愛媛県伊予郡大三島の日本総鎮守「大山祇(おおやまずみ)神社」より遷祭(せんさい=移して祭る)し、お祀りしたと云われ、この時代は芽原河内(はぎわらこうち)神社と呼ばれたようです。

                                                     山住神社の社家山住家は、初代神官「守屋左京亮藤原茂家」から現当主まで36代の歴史を誇る名家であります。

また、山住神社は百戦錬磨、天下人となった戦国武将「徳川 家康」公との関連もあります。                                                                                                               元亀 3年(1572)三方ヶ原に於いて、血気盛んな 32歳の若き城主であった家康公は、軍勢 8千を率いて、軍勢 3万の武田軍と戦火を交え、52歳の知略・戦略に長けた武田 信玄勢の攻勢に家康公は防戦一方で、❝三方ヶ原の戦❞は家康公にとって、数少ない敗戦(まけいくさ)であった。

古老の語るところによると「戦に敗れた家康公は山住神社に難を逃れ、敵は家康公を追って神社に迫った。ところが俄かに空は曇り辺りは薄暗く日暮れの様になり、風暖かく霊山全域にウォ~ ウォ~と地響きのする山犬の吠える声が沸き上がり、敵はこの声に驚き 肝を潰し我先にと退散し、家康公は敵から難を逃れた。」と言う。

                                                  その翌年、天正元年正月 17日 家康公は御参拝をされ、また天正 4年に宝剣二振、慶長 19年にも宝剣一振を奉献された。                                                                                         宝剣の一振は名刀『伯耆安綱』(ほうきやすつな)であったとのことです。

                                                                                                                      土地の名家である片桐家の文書には「遠江国(とおとうみのくに)丑寅ノ鎮守二御座候」つまり浜松城の北東の守り神であり、浜松城の鬼門の守り神として家康公は三方ヶ原の戦の後ちに篤く信仰されたと伝えられています。

 

 

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🏯 高根城跡散策 🏯

2016年12月17日 | 日本の歴史

静岡県浜松市天竜区水窪(みさくぼ)町の信遠国境警備を目的として築かれた城に登城して来ました。                                                                                                           城名は高根城と申し、遠江(とおとうみ)最北端に位置する山城で、標高 420m・比高 150mの通称三角山の山頂部を中心に築かれています。

城址からは、水窪町中心部および北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろすことができる。

                                                    高根城は、この一本の主要街道を押さえることが目的でした。

平成 6年~11年にかけて、本曲輪(ほんくるわ)を中心に発掘調査が実施され、出土遺物から15世紀前半、地元国人領主 奥山氏が築いたと考えられています。

                                               『遠江国(とうとうみのくに)風土記伝』によると、永禄年中(1558~1570)に信州の遠山土佐守(とおやまとさのかみ)に攻められ落城したと伝わる。

                                               永禄 12年(1569)には、今川 氏真(うじざね)・徳川 家康双方から所領安堵状(あんどじょう=所有権・領有権などを承認した公文書)を、元亀 3年(1572)には武田信玄からも安堵状を得ている。

                                                     遠州忩劇(そうげき)の頃、奥山氏内部で今川・徳川・武田のどこに組するかで内部分裂が起こり、奥山惣領家が滅亡し、最終的に武田配下に組み込まれた可能性が高いようです。

また発掘調査で、最も注目されるのは、各曲輪間を結ぶ城内道が完全な形で検出されたことだそうです。                                                                                                                    幅約一間(約1.8m)の道は、三の曲輪から土橋を利用し、二の曲輪東中段を真っ直ぐ通り、梯子によって二の曲輪下段へと上がる。                                                  ここからは、木橋を通り、直角に曲がり、城門をくぐり、更に三度直角に折れ曲がり、本曲輪搦手門(からめてもん)へと至る構造であったとのことです。

日本最大の城郭遺構を誇る『姫路城』でも、本丸まで行くには迷路のようになっており、その様子がとてもコンパクトに表現されていました。

全国的にみても、完全な形で城内道が検出された事例はなく、戦国期の城内構造を知る貴重な遺構と評価されています。

 

 

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👣 秋葉古道を歩く 👣

2016年12月17日 | 名勝:自然の風景

新東名高速道路の浜松浜北 ICを出て、秋葉山本宮秋葉神社の火伏 祭りを見学に向かい、国道 152号線を走りました。                                                      途中の SAで頂いた地図を見ると、国道 152号線と表示されているのに秋葉山から北に 152号線を追っていくと、南アルプス赤石山脈の荒川岳・赤石岳・聖岳の左手で 152号線が途切れている。

                                                    エッ国道なのにそんなのあるの  

本宮秋葉神社の奇祭 、火祭りは前日の夜に見学を済ませたので、

                                                 今日は国道 152号線(秋葉街道)と天竜スーパー林道の歴史街道を歩いてみた。                                              一般国道の 152号線は、起点は長野県上田市で終点は静岡県浜松市、総延長 264.1km。                                                                                                長野県内の八ヶ岳や南アルプスの山間部を縦断して、静岡県の天竜川や支流の水窪川に沿って浜松市街に南下する国道路線で かつての杖突街道および、「塩の道」として物資交流があった歴史ある秋葉街道である。

                                                 その路線上には、信州の代表的な峠である「青崩峠」と「地蔵峠」の間に車両交通 不能区間が存在します。

標高 1082mの青崩峠は、遠州と信州の国境にある峠である。                                            この道は海の幸山の幸が人馬の背によって運ばれたことから「塩の道」と言われる所以である。                                                     また戦国時代には、武田信玄覇権の道として多くの兵や軍馬、物資が往来する道であった。

                                                   江戸時代になると、火伏の神としての秋葉信仰が盛んになり、信仰の道として参拝者により大いに賑わった。                                                     近代には、御料林(国有林)を始めとして、木材の需要が増し林業が盛んになり、森林鉄道そして林道開発が進み秋葉街道筋は繁栄したとのことです。

青崩峠の手前には、健脚祈願の人々が全国各地から参詣に訪れるという『足神神社』を私達もしっかりとお参りして来ました。

                                               遡ること1250年代のことですが、諸国行脚の途次この秋葉街道で不幸にして脚を病い、辛うじて池島に辿り着いた鎌倉の北条 時頼の脚を数日にわたって治療し、

                                                全快せしめた池島庄屋地(現在大屋)の五代目“守屋 辰次郎”を彼亡き後、時頼の命により村民が霊神として祠を建て祀ったのだそうです。

静岡県北遠地域を流れる天竜川東部の山中を縦断する林道「天竜スーパー林道」も走ってきました。

                                                  道幅は 4~5mの1車線と狭くカーブの連続であるが、全線が舗装されている。

                                                      標高 1200m付近を走る林道であり、途中の竜頭山(1352m) 周辺エリアには森林公園「天竜の森」・「野鳥の森」などハイキングやトレッキングの観光拠点となっていました。

竜頭山を歩きましたが登山道はとても良く整備され、

                                                     寒かったですが南アルプス越しに見えた富士山はとても素晴らしかったです。

 

 

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⛄ 冬のたより ⛄

2016年12月17日 | 冬の風景

山を 遠ざかって 山を眺める季節

 

山を 離れて 山を想う季節

追憶 の地図をひろげて

回想の山路を たどる季節

山へ の希望を育てる季節

                  田淵行男 季節の置手紙より

 

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▲金時山ハイク:2016▲

2016年12月12日 | ジオパーク

足柄山の山奥で  けだもの集めて 相撲のけいこ  ハッケヨイ ノコッタ  ハッケヨイ ノコッタ 〟                                                                                              童謡「金太郎」で知られる金時山(1212m)は、その名の通り金太郎が遊んだ山として有名であります。

金太郎は幼い頃「菱の腹掛け」ひとつで熊や 猪の待つ、この山へ毎日のように勇んで登って来ました。

                                               ある日、金太郎は大石を落としてしまった。                                                              この音にあわて驚き、岩に当たって死んでしまった大猪の鼻を金太郎は、ねんごろに弔ってあげたとのことであります。                                     そんな云われもあり、金時山を別名『猪鼻山』とも言うようです。

11月中旬に体調を崩し、走ることや歩くことを中止し、一寸良くなったかな と感じ、金太郎さんのように勇んで、箱根ジオツアー参加の皆さんと共に金時山に向かいました。

静かな山歩きには丁度良いコースです。                                        平らな歩き易い登山道が続き、最後に急登がある。 こんな感じを何度か繰り返し、足柄峠から金時山に向かう登山道のピークに合流する。                        急に眼前が開け、富士山とご対面できる「猪鼻砦跡」に到着。

ここは御殿場側から望見すると、金時山が頭でここがちょうど猪 の鼻の先端部の形に見えるため「猪鼻砦」と名付けられたといわれています。                                     ここで休憩し体力を温存し、金時山山頂へ向かいます。

                                                鳥居を過ぎると登山道は急登の階段に変わり、またその先にはアルミ製の急な階段が 12本も待ち構えています。                                                                                                   途中にはベンチも用意され、休み休み山頂を目指しました。

箱根ジオパークに今年の9月、新たに南足柄市編入が認可され 、神奈川県主催の編入記念ツアーであります。                                              金時山は箱根山の寄生火山で箱根外輪山の最高峰であります。

                                                   それだけに眺望は素晴らしく稜線を裾野いっぱいに広げたコニーデ(円錐形火山)の代表、日本一の富士山を前景に西に愛鷹連邦や駿河湾、南に向かえば足元に仙石原、芦ノ湖、白い噴煙をあげる大涌谷や箱根の山々、そして東には相模湾が広がり、遠くに南アルプスや丹沢方面など360度の大パノラマが楽しめます。

また、現在は山頂に 2軒の山小屋がありますが、当初は 1軒のみでした。                       富士山の強力(ごうりき)で抜群の力持ちと云われた「強力のコミさん」が建てられた山小屋です。                                              そのコミさんは、昭和 16年 8月に北アルプスの白馬岳の山頂に 200キロ(約 55貫)の風景指示盤を背負いあげることに成功しました。                                            人間業では考えられないこの偉業は地元のボッカの協力を得ながら富士山の強力の名誉と足柄山の金太郎の再現を自分に云い聞かせ、決死の覚悟でやりとげられました。                            がその時のハードな仕事が災いし、昭和 20年 2月 42歳の若さでこの世を去りました。           コミさんと親しかった作家新田次郎氏は、その後コミさんをモデルに「強力伝」を発表し直木賞を受賞した事は良く知られています。                                            現在も父(正さん)が建てた山小屋を金時娘(小見山妙子)さんが守り続けております。

長野県の白馬岳にある山小屋「白馬山荘」の食堂に向かう廊下の上部には、金時娘さんの色紙が飾られています。

 

 

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