素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

◎ 古都鎌倉「光明寺」参拝 ◎

2019年07月24日 | 鎌倉カメラスケッチ

7月 27日(土)~28日(日)に 観蓮会 が催され、境内の記主庭園にてクロマチックハーモニカ(演奏:山下 伶)、(ピアノ:朝香 智子)の演奏会があり、第二部には琵琶のバック演奏での引声(いんぜい)念仏朗読会が行われます。                                     また、この観蓮会では、蓮の葉茎を使いお酒を飲む像鼻杯も行われ、500円で体験できます。

最近では多くの寺院でクラッシック コンサートやピアノ 演奏会など色々工夫された催しが増えており、参拝だけで寺院を参詣するのは ひと昔前のことのようです。

27日(土)は夕方 から境内の提灯に明かりが灯り、紙灯籠に供養の霊位を記して供養が行われます。

                                                  法要の前には、お稚児 さんと共に行列をつくり 海岸へ向かい、海難横死の諸霊及び魚 たちの供養を行うのだそうです。                                                                                        御廟入口にある景勝展望台からの眺め。

この観蓮会の両日には例年沢山の参拝者が訪れ、その様子を撮ってみたいと思うのですが、沢山の人の中で写真を撮ることは周りの方に迷惑を掛けるので、開催日前の静かな平日にこの時期に見られる『ハス』見て来ました。

総門を抜けると目の前に鎌倉に現存する最大の山門 が、威圧感をもって迎えてくれます。

                                           大きいお寺だけあって、太っ腹。                                     拝観料など無く拝観自由 、それだけに拝観者も襟を正さなくてはいけません。

山門を抜けると直ぐ左手に庫裏本坊があり、御朱印帳を出し朱印をお願いした。                 引換券をもらい境内各所の参拝に回る。

参道は広く、壮大な堂宇が建ち並ぶ浄土宗の大本山。

第4代執権、北条 経時(つねとき)の帰依を受けて、然阿良忠(ねんありょうちゅう)上人が 1243(寛元元)年に開山した。                                     かつては関東総本山として、徳川 家康が定めた浄土宗の学問所、関東 18檀林の筆頭にもなっていたとのことです。

鎌倉最大の山門をくぐると、阿弥陀如来三尊座像を祀る本堂。

両脇には浄土宗の教えを表現した、白砂を敷き詰めた枯山水の庭「三尊五祖の石庭」と、

                                            小堀 遠州作といわれる池泉式の記主庭園が広がり、

                                             夏になると1951(昭和 26)年、植物学者の大賀 一郎博士が千葉県の遺跡から出土した二千年以上前の種子を発芽させた古代ハス (大賀ハス)と呼ばれるものを見ることができます。

優雅な雰囲気で一面に咲く、光明寺記主庭園の古代ハス。

蓮の葉を盃にして飲む『像鼻杯』について                               蓮の茎はレンコンと同じく中に空洞ができているため、葉の上に注がれたお酒は茎の中を通り口元へ運ばれるのだそうです。1杯500円、是非お召し上がり下さい。

お車で御参拝の方は、ご注意ください。

                                       

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🐾 のんびり鎌倉ウォーク❝2017❞ 🐾

2017年12月08日 | 鎌倉カメラスケッチ

鎌倉という土地の歴史の始まりは、はるか遠く旧石器時代にまで遡ります。           独自の美意識や文化を色濃くしていったのは、源 頼朝によって武家政権が誕生した鎌倉時代。                                                                                                                           その後、江戸時代には江戸庶民が社寺を訪れるようになり、明治時代の文明開化を経て、近代には文士たちが集う文壇の中心地としてのイメージを根付かせてくれた所です。

また、平成 27(2015)年度より文化庁がスタートさせた『日本遺産』という認定制度。                                                                                                                          日本各地に存在する有形・無形の文化財を、その地域の歴史的なストーリーにからめ沢山の人々に認知を広めようとするものだそうです。                            それに鎌倉市は、歴史的遺産と自然・文化とが調和したまちとして、平成 28(2016)年度にこの認定を受けられたとのことです。

そんな事は露知らず、殆ど歩かない中学の同級生 5人と行き当たりばっ旅の感じで鎌倉に向かいました。

                                                当初は北鎌倉へ行こうとの話が、電車の中で江ノ電に乗り海を見ながら行こうと急きょ変更になり、文明の利器 ICカードを持たない人がいたので、藤沢駅で精算所に向かう。                                                                                                                       全てがスローで、歩くのも遅い。                                                                                  今日は何ヵ所の寺社を回れるのか  鎌倉の空気が吸えるだけでも良いだろう。                                           江ノ電の由比ヶ浜駅下車 10時半を回っていた。                                                                駅から北西に進み、バス通りである由比ヶ浜大通りを横断し、ツバキに囲まれた石畳の小道を緩やかに登って行く。

そこは鎌倉ゆかりの文学者たちの足跡が辿れる、旧加賀藩前田家 16代当主「前田利為(としなり)」の別邸であった鎌倉文学館である。

                                            相模湾を一望する高台にあり、一寸見頃を過ぎていましたが海側にあるバラ園で遅咲きの花が見られました。

                                            この文学館では、教科書で知った沢山の文学者の直筆原稿や手紙、愛用品などが展示され、特に何度も訂正した直筆原稿を見ると作品を執筆する大変さが読んで取れました。                                                                                                             それぞれが好きな文士の生い立ちや作品に目を通したりで 12時を回ってしまい、鎌倉駅に向かい食事を済ませた。

午後は鎌倉駅から金沢街道を走る バスで浄明寺まで乗り、鎌倉五山五位の浄妙寺に向かった。                                                                                                                         こちらの寺は稲荷山と号し、臨済宗建長寺派の古刹である。                         源 頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利 義兼(1199没)が文治 4年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。

                                               開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の弟子 月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と改称したとのことです。

この後は、バス通りである金沢街道を徒歩で鎌倉駅に戻りながら、街道両脇にある寺社に立ち寄った。                                          足利 尊氏の祖父、家時が開基し、建武元年(1334)に創建された臨済宗寺院報国寺

                                              古くから境内の孟宗竹の林が有名で「竹庭の寺」と呼ばれています。                 平日であったが、あまりの混雑で竹林に入らず、次に移動。

天平 6年(734)に行基(ぎょうき)が開山した鎌倉最古の寺杉本寺

                                                  茅葺き屋根の本堂には本尊の十一面観音菩薩が 3体あり、そのうち 2体は国指定の重要文化財。本堂に上がり、間近に拝見することができます。

                                                鎌倉時代の火災の時に 3体の観音菩薩が自ら大杉の下に避難したことから「杉の本の観音」と呼ばれたとのことです。                                                                                        坂東三十三観音霊場の第一番札所であります。                                               苔むしてすり減った石段に、長い歴史を感じます。

もうこの歳になると急ぐことはしない、ノンビリ・キョロキョロ、紅葉ヶ谷と呼ばれる車の少ない道を進む。 

                                            臨済宗の禅僧、夢窓疎石(むそうそせき)が嘉暦 2年(1327)に開山した『瑞泉寺』に    15時 到着。

                                           梅・桜・スイセン・新緑・紅葉など四季折々の美しい花が彩る寺。

                                              「谷戸」(やと)と呼ばれる多くの谷が連なる鎌倉は 15時ともなると、谷間は暗く、日差しのある所は明る過ぎるという明暗の差が大きく、素人では写真撮影が難しい。

                                              足利 基氏をはじめ、代々の鎌倉公方の菩提寺として高い格式を誇り、また夢窓疎石が岩盤を削って作ったといわれる岩の庭は、書院庭園の元となり、国の名勝に指定されているとのことです。

瑞泉寺から戻りながら、鎌倉宮の北側に昭和 58年~平成 8年にかけて約15,800㎡の発掘調査が行われ、当時の伽藍配置や苑池が発掘された国指定史跡永福寺跡ようふくじあと)に立ち寄りました

                                                             到着 15時半。                                                                                                                         鎌倉には沢山の神社仏閣が見られるが、みな境内は狭い所が多いのに、こんなに広い場所があるのに驚きました。

                                            永福寺は、源 頼朝が文治 5年(1189)奥州平泉を攻めた後、戦いで亡くなった数万の将兵の鎮魂のために、平泉で見た毛越寺中尊寺を模して建立を思い立ったとされています。

                                            頼朝が征夷大将軍に任命された建久 3年(1192)に中心の二階堂が完成しました。       この堂の名は、現在の地名ともなっています。                                     建久 5年(1194)までに、二階堂の両脇の阿弥陀堂、薬師堂が完成します。

                                                この三つの堂を中心に惣門、南門、釣殿、多宝塔、鐘楼、僧坊などの建物があったとされ、当時の旅日記 などの文献には「その姿形は極楽の様子をそのまま表したようだ。」と形容されているとのことであります。

                                            私達も当時の推定復元図 を見ましたが、何と京都の宇治平等院とそっくりで、ビックリしました。                                                                                                                       建物の礎石はありましたが、それだけでなく関東の平等院として再建されたら凄いですね。  

 

 

 

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🐾 晩秋の鎌倉散策 2016 🐾

2016年11月29日 | 鎌倉カメラスケッチ

同郷の仲間とぶらり鎌倉に出てみた。以前に横浜や大船に住んでいたという人がおり、地理に詳しく助かった。                                                       小さい頃の遠足や旅行の記憶をたどりながら、それぞれの記憶を話し合い「そうそう」とか「そんな事有ったっけ」、「エッ全然覚えていない。」など思い思いに語り合った。                                       気が置けない仲間ほど、気楽で楽しい。                                      歩くのは、あまり得意でない仲間なので、月に 1度は飲み会以外にウォーキング(アルコール会)をしようと言うことで始まりました。                                                         横須賀線を北鎌倉で降り、「どっちに行くの 」から始まり、平日なのに凄い混雑でビックリ。                                                                                            「皆さんの流れに付いて行けば大丈夫だから」と言い、まずは鎌倉五山第二位の寺格を持つ臨済宗円覚寺派の総本山『円覚寺』を参拝。

開基は鎌倉幕府八代執権の北条 時宗、開山は無学祖元(むがくそげん)創建は弘安5(1282)年と言われています。                                                           御本尊は仏殿に安置された木造「宝冠釈迦如来坐像」。

明治22(1889)年に横須賀線の開通で寺域が分断されてしまいましたが、以前は広大な境内であったとのことです。

私達がこうして、

今、生きているということは、

そこに仏様がいらっしゃる

ということなのであります。

それが何よりも尊いものであります。

その事実がどれだけ素晴らしいことであるか、

心の底から感動して気づくことが大切です。

そのように本当の自分に目覚めて、

各自それぞれが、それぞれの生活の中で

明るく楽しく生きることが、

禅の教えであります。

(円覚寺パンフレットより)

次にのんびり東慶寺参拝。                                          今日はお寺で祝いの儀式が執り行われており、拝観料なしで参拝できました。

開山は北条 時宗の妻「覚山尼」で弘安8(1285)年の創建。                                     開山当初から縁切寺法を定め女性救済にあたったとのことです。

                                                      女性はかんざしや草履など身につけているものを境内に投げ込めば駆け込みとして認められ、たとえ一国の城主といえども男性は不可侵であったようです。

鎌倉街道の巨福呂坂を登り、横須賀線の踏切手前を右に折れ、鎌倉五山の第四位にあたる臨済宗円覚寺派『浄智寺』を参拝。

浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相次いで寺院を建てた北条氏の所領であったので、今でも禅刹が多い。

                                               山を挟んだ隣りが駈込み寺の東慶寺で、その向かいには円覚寺があり、建長寺も数分の場所にある。                                                                                                                     どの寺院も丘を背負い、鎌倉では「谷戸」と呼ぶ谷合に堂宇を並べている。

寺域が背後の谷戸に深く伸び、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保ち、うち庭の隧道を抜けると、洞窟に弥勒菩薩の化身といわれる、布袋尊が祀られています。

次に鎌倉五山の第一位『建長寺』へ。                                      建長寺は巨福山建長興国禅寺といい、臨済宗建長寺派の大本山です。

                                                      今から約 760年前 建長 5(1253)年に鎌倉幕府五代執権北条 時頼(1227~1263)が建立した、我が国最初の禅寺です。宋より蘭渓道隆を招いて創建した。

今も 10余の塔頭を有する壮観さで、奥の半僧坊までは長い階段が続いている。             本尊は地蔵菩薩座像。

                                                           国宝の梵鐘をはじめ重要文化財、名勝史跡も多い。

尚、「建長汁(けんちんじる)」は建長寺発祥の料理とのことです。

1寺院を参拝するのも意外と時間の掛かるものです。                                    巨福呂坂切通しを抜け鶴岡八幡宮の境内に入ったのは 13時近くであった。

さすが鎌倉メインの八幡宮であり、土日祝日を感じさせるような混雑振りに驚いた。            参拝後は隠れ銀杏があった階段を下り、

                                                   舞殿から真っ直ぐに太鼓橋へと表参道を進み、大きな三の鳥居を抜け小町通りに入った。

                                                  八幡宮の参道に比べたら小町通りは狭くて、仲間の姿を見失ったら大変とキョロキョロする暇もなかった。

                                                  とても小町通りの店では食事のできる状態ではなかったが、詳しい仲間が小町通りを1本裏に入り、静かなお店で食事ができてラッキーだった。

食後は由比ヶ浜大通りから長谷通りをブラブラ歩いて鎌倉ならではの高徳院「大仏殿」へ。

 

ここは小学校の遠足でも来た思い出があり、途中の街並みや高徳院近辺の変わりように皆驚いていた。

浄土宗のお寺で、大仏様の正式名は「阿弥陀如来坐像」と言うようです。                 大仏様の裏に観月堂があり、その横に与謝野晶子の歌碑が立っています。                私たちが幼い頃に見た端正な顔立ちは変わらずかまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かなと詠まれています。

次は長谷観音の名で知られる浄土宗のお寺、正式名は「海光山慈照院長谷寺」を参拝。

 

広い境内には観音堂をはじめ阿弥陀堂、地蔵堂、出世開運授け大黒天を祀る大黒堂と見どころが充実しています。

                                                    展望台からは由比ヶ浜はもとより、遠く三浦半島や相模湾が一望できます。

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◎ 鎌倉七福神めぐり ◎   

2016年01月06日 | 鎌倉カメラスケッチ

七福神は福神信仰に由来するもので、夷尊神(恵比寿)、大黒天、弁財天、毘沙門天、布袋尊、福禄寿、寿老人という七人の福の神様の集合をいいます。                                                                                                                                                                            このうち、恵比寿神は古神道の神。                        大黒天・弁財天・毘沙門天は仏教の神。                       福禄寿・寿老人は道教の神仙。そして布袋は禅僧で実在した人物とのことです。

                                                         したがって、七福神はインド・中国・日本という三国の、それぞれ異なる宗教が合体してできあがった集団ということになります。                                            下の写真は集合時間前に円覚寺前の白鷺池で見つけたカワセミです。

これらの福神を参詣して回ると、除災招福・諸願成就がもたらされるといわれ、江戸時代にお正月の行事として一般化しました。                              現在ではお正月に限らず参詣されているようです。

JR北鎌倉駅西口の交番前を10時に出発。                                     まず、臨済宗円覚寺派で鎌倉五山第四位の金宝山:浄智寺に向かいました。     山門脇には鎌倉十井の1つである「甘露の井」があります。             甘露と言われたほどですから、昔はさぞ美味しい水だったのでしょう。

浄智寺には境内裏の洞窟に等身大の石像、弥勒菩薩の別の姿である『布袋尊』が祀られています。                                          知恵を授け、福徳円満な人を作る福神です。                             巨大な太鼓腹に、いつも半裸という風体で杖と大きな布の袋を携えていたようです。

ところがこちらの布袋尊は、他の布袋尊と異なり、右手で前方を指しています。   一説に、これは参詣者の「幸せはどこにあるのでしょうか?」という質問に対して「それはお前のすぐ後ろにあるのだ」と教えているのだということです。          これは、入口の山門に掲げられた額の「寶所在近」(ほうしょざいきん)つまり「宝は近きにあり」という文言に由来するようです。

鶴岡八幡宮 『旗上弁財天』                                    源 頼朝が平家の滅亡を祈願したとされる旗上弁財天社は源平池右の中島にあります。 弁財天像は国宝館に安置されており、武運長久、大願成就の福神です。 

                                                    弁財天は七福神の中の紅一点。                                 もとはインドのヒンドゥー教の女神で河川の神様、水の神様でサンスクリット語ではサラスヴァティーと呼ばれていたようです。                             水の流れる音から音楽の神、弁舌(知恵)の神として信仰されました。      仏教に取り入れられた後、わが国にも伝えられ、はじめ技芸の神として崇められ、また、日本固有の神様である市杵島姫命いちきしまひめのみこと)と同一視された結果、琵琶を抱く色白の美女の姿で表されることが一般的になりました。

金龍山:宝戒寺『毘沙門天』                                           北条氏ゆかりのお寺です。 ご本尊の左手に毘沙門天が祀られています。            仏教の四天王の一人で、病魔退散、財宝富貴の福神です。

                                               この地は北条 義時が小町邸を造って以来、代々の執権が住んでいた屋敷跡だといわれています。                                  この屋敷は1333年(元弘3年)新田 義貞が鎌倉に攻め入ったとき全部焼け、同時に百年以上も続いた北条氏は滅びてしまいました。                    その後、1335年(建武2年)足利 尊氏が北条一族の霊を慰めるため、後醍醐天皇の命で寺を建て宝戒寺と名付けたそうです。

にこやかな七福神の中でただ一人、甲冑(かっちゅう)に身を包んで厳めしい表情をしているのが、毘沙門天です。                               もとはインドの財宝福徳を司り、サンスクリット語でクベーラと呼ばれる神様だったといわれています。

叡昌山:妙隆寺『寿老人』                                   「鍋かむり日親」と呼ばれた傑僧・日親上人ゆかりの妙隆寺。               欅一木造りの寿老人尊像が祀られています。                               人々の安全と健康を守り、長寿を司る福神です。

                                                    日親上人は上総の生まれで21歳の時、仏の教えを広めるためには苦しみに負けぬよう修行を積まなければと考え、この寺の池で百日間水を浴び経を唱えたそうです。     その後、京都で将軍足利 義教に「立正治国論」という意見書を出し、政治の悪いやり方を治させようとして、逆に捕らえられてしまいました。              何回も厳しい責めを受け、最後に焼けた鍋を頭にかぶせられるという苦しい罰を受け、鍋かむり日親と言われたようです。

中国の道教の長寿神。                              竜骨座という星座の中に、「カノーブス」と呼ばれる星があります。          きわめて明るい星ですが、南半球の星に属するため、日本ではほとんど知られていません。                                      中国ではかって、この星は「寿星」または「南極老人星」と呼ばれていました。    寿老人とは、この星を人格化したものだそうです。

 

東身延:本覚寺『夷尊神』                                              恵比寿は七福神の中でただ一人の日本の神様です。                 恵比寿は、古く関東では夷尊神(えびすそんじん)と書かれました。 商売繁盛、家運隆盛、縁結び、五穀豊穣の福神です。

                                                   二代目の日朝(にっちょう)上人は「日蓮上人の生まれ変わり」といわれるくらい学徳にすぐれ、40歳の若さで身延山の十一代住職となり、身延山を今の様な立派な寺に建て直しました。                                    それから本覚寺に日蓮上人の骨を分け、東身延と呼び身延山に遠い人の便利なようにしました。 この骨は今も分骨堂に祀られています。                   また、鎌倉時代の刀鍛冶(かたなかじ)として有名な五郎正宗の墓もあります。

                                        漁業と商売繁盛の神様として、今でも全国的に熱心に信仰されています。       狩衣(かりぎぬ)、指貫(さしぬきに風折烏帽子(かざおりえぼし)をかぶり、左脇に鯛を抱えて右手に釣竿を持つ姿は、誰にもなじみ深いものがあります。               (ただし、こちらの夷神像は鯛を持たない古い形の像です) 

                                                                         その釣竿は「釣りして網せず」、すなわち暴利をむさぼらない、清い心を象徴しているといわれており、そこが商売繁盛の神様として人気を集めたようです。

                                          御霊神社『福禄寿』                                            御霊神社(ごりょうじんじゃ)は九月に行われる奇祭「面掛行列」が有名です。      その十面の内の一面が福禄寿で、宝蔵庫に祀られています。 長寿、家禄永遠を司る福神です。

土地の人々は権五郎神社と呼んでいます。祭神は鎌倉権五郎景正という武士です。                 もともと土地の神としての祖先をまつる神社という意味の ようです。          このころ関東には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏の一族、五家がありました。この五家の先祖をお祀りする神社として「五霊」神社が創建され、その「五霊」がいつしか同音である「御霊」へと変わり、やがて権五郎景正だけをまつるようになったのではと考えられています。

福禄寿は中国道教の神が起源です。                             宋代以降になると、寿老人が違った姿で描かれるようになります。           それは頭が異様に長く、豊かな白髭をたくわえた背の低い老人の姿でした。         これが七福神中の福禄寿で、したがって寿老人と福禄寿は同一人物ではないかとも考えられています。                                       日本では二様に描かれた同一人物を別人として、それぞれ七福神に加えたのではないかと思われます。 境内の宝物庫に祀られています。

海光山慈照院:長谷寺『大黒天』                                   四季折々の花と由比ヶ浜を一望できる長谷寺は鎌倉有数の古刹。                  大黒堂は下境内に広がる放生池に隣接。 出世開運、商売繁盛の福神です。

                                                721年(養老5年)に徳道上人が楠から彫り上げたといわれる日本最大級(9.18m)の木彫十一面観音像を本尊としています。

大黒堂の本尊は1412年(応永19年)の作で県最古とされ、現在は宝物館に安置されています。                                      これに代わり、堂内には「出世開運授け大黒天」がまつられ、現在七福神めぐりの一つとなっているのは、こちらの大黒様です。

                                             大黒天はもともとインドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身の一つといわれています。  仏教に取り入れられてからは、お寺を守護する神様となりますが、日本へは特に「台所の神様」としてもたらされました。                                今でも住職の奥さんを「大黒さん」と呼ぶことがあるのはこのためです。

 

 

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◎師走の鎌倉、ロマンの洋館巡り◎

2015年12月16日 | 鎌倉カメラスケッチ

鎌倉と聞くと寺社仏閣巡りを思い起こされますが、今回は800年の時を刻んだ鎌倉、そこに残された上流社会の人々がハイカラな建築の別荘を建て始めた頃の大正ロマンを覗いてきました。

明治22年に横須賀線が開通したこともあり、東京で財を成した人々が休息の地(避暑・保養等)として鎌倉に殺到したとのことです。                そこで建築ラッシュが起こり近代化した洋風建築が目立つようになりました。

その頃の鎌倉は、洋風スタイルの紳士淑女が海辺を散策したり、テニスラケットを抱えた若者たちが街角で談笑したりと、古都の景観に新たな表情が加わったようです。しかし、大正12年(1923)の関東大震災により時代の波は消え、現在残る洋館は僅かのようです。

                                        車時代に合わせて設計された町ではないので、町並みは個性的でありますが平坦ではありません。                                    行き着く先の見えない路地があり、懐深い谷戸道があります。                 その歴史の町を今回《逗子ボランタリーガイド倶楽部》の皆さんに案内して頂きました。

10時10分に鎌倉駅西口を出発し、鎌倉市立御成(おなり)小学校向かいました。            昭和8年に明治天皇の御用邸跡地に建てられたことから御成尋常高等小学校という学校名になったとのことです。                             正門の門標は旧校門に掲げられていた高浜虚子の書を引き伸ばして彫ったものだそうです。

                       また、大きな宝形屋根に2つの塔屋をもつ特異な和風デザインの講堂は当時の幅広い識者の知見と鎌倉の施工業者の主力が起用された建物です。

10時40分、市指定景観重要建築物「旧安保小児科医院」                         御成通りに建つこの建物は震災前からのものであり90年以上を経た、鎌倉市の保存指定文化財であります。                                中世紀末のヨーロッパや近世初頭のイギリスではやり、白亜で清潔感あふれ病院にぴったりです。                                    緑の三角屋根をT字型に組んだ構えも力強く、梁や貫の骨組みが壁に露出してアクセントを添えています。

10時50分、旧横浜興銀由比ヶ浜出張所                                    六地蔵の三叉路で唯一時代を感じさせる建物です。                 規模は鉄筋二階建てで間口一間の小さなものですが入口に半円の破風などがあって壁面も凹型を連想させた歯形装飾が飾られていました。

11時、市指定景観重要建築物「寸松堂」(すんしょうどう)                                  笹目のバス停前に建つ鎌倉彫の老舗〈寸松堂〉です。                一階全面は明治時代に流行ったハイカラな店構えで入口はガラスの大戸とショ-ウィンドウが並び、いかにも老舗といった雰囲気です。                   店内はタイル敷きのフロアにガラスケースが並んでいます。             二階は重厚な和風建築、城を思わせる構えであります。銅板屋根を三層に重ね、各層には漆喰塗りの武者窓が並んでいます。                             屋上にそびえる相輪は寺院風で色々な面を見せてくれる建物でした。

11時05分、市指定景観重要建築物「かいひん荘」                             大正13年(1924)に個人住宅として建てられましたが、戦後増改築してホテルとなりました。                                      戦前の洋館住宅は、玄関脇に応接間や書斎を配置するのが一般的でしたが、二階建て二室に洋館を設け、それが独立棟のように見え、市の洋風保存建築物の指定を受けたのがこの部分でした。

                                        洋館の外見は一階がタイル煉瓦張り、二階は白壁、二か所に張り出しで窓が付いています。                                         張り出しで窓の一つは半円形、もう一つは半六角形と外観は変化に富んでいます。

11時15分、市指定景観重要建築物「鎌倉文学館」                            明治23年(1980)加賀百万石の大名前田家が別荘とした場所で当初は和風茅葺の建物でしたが、昭和11年(1936)に洋風に建て替えられました。                 一階は鉄筋コンクリート、三階は塩害に強いチーク材を用いた木造瓦葺切妻屋根に半六角形の張り出し出窓をあしらって変化に富んだ外観を見せています。         昭和58年(1983)十七代当主前田利建氏から三万平米の敷地と共に鎌倉市に寄贈され文学館となりました。 当日は休館日で入れず、残念。

11時半、市指定景観重要建築物「長谷子ども会館」                           明治45年(1912)に建てられたもので、大正10年(1921)山林王と呼ばれた諸戸清六氏の長男清太郎氏の所有となりました。                            バルコニーのある二階建ての木造建築は淡い緑のペンキ塗り、屋根に天然スレートを敷き玄関ドアの額縁や窓枠も手のこんだ装飾をつけて華やかです。              玄関ポーチに立つ柱頭に渦巻き飾りをつけたイオニア式円柱がギリシャ神殿を思わせます。

11時40分、「加賀谷邸」                                           典型的な洋館住宅で、急勾配の三角屋根に薄緑のペンキを塗った下見坂の壁、よろい戸付きの上げ下げ窓もハイカラです。

12時10分、市指定景観重要建築物「ハリス記念鎌倉幼稚園」「日本基督教団鎌倉教会」                                            幼稚園の建物は教会が縦の建物に対し横の感じで、形は二階建て八角形、梅鉢型園舎と呼ばれ中央に広い遊戯室があり、その回りを教室が八方向に囲んでいるとのことです。  平日にて外から見学のみ。

教会は古代ローマ建築に似たゴジック調の塔があり、大正15年(1926)に建てられ緑色の屋根とベージュ色の壁が綺麗に見えました。

                                                 訪問当日わざわざ礼拝堂を解放して下さり、主祭壇上部にあるステンドグラス「十字架と葡萄の葉」を見ることができ、とても感激しました。                  これはステンドグラス工芸家『小川 三知』氏の作品とのことです。

大町会館で昼食を済ませ、午後のコースに向かいました。                              13時40分、比企が谷幼稚園                                        日蓮宗「妙本寺」門前にある旧塔大円坊の古風な八角堂が現在幼稚園であります。   大町一丁目付近は興味を引く洋館の多い地区だそうです。

14時05分、市指定景観重要建築物「聖ミカエル教会堂」                         昭和8年(1933)に建造され、保存洋館の指定を受けた建物です。            一部は増改築されていますが、聖堂部は当時のままで見事な技巧の天井(アーチを基にした石造りや煉瓦またはコンクリート造りの曲面天井)家具・照明器具などが創建当時のまま残されているそうです。

14時15分、市指定景観重要建築物「三河屋本店」                            大正12年(1923)の関東大震災で倒壊した建物に代えて、昭和2年(1927)に建て替えられました。                                   明治33年(1900)以来この場所で酒屋を営んでいた竹内福蔵氏によるもので間口5間(9m)、奥行8間(15m)の二階建ての大規模な出桁造りで鎌倉全体の戦前商店建築を代表する建物です。

母屋の後方に蔵と平屋があり、母屋の北側からこの蔵の南口へとトロッコのレールが東西に30mほど敷かれており現在も使用されているそうです。

14時25分、市指定景観重要建築物「川合邸」                               大正11年(1922)に建てられた本格的洋館。                       車の多い県道沿いであり、歩いていても中々気づきません。              また土塁や屋敷林に囲まれ、門扉越しに玄関ポーチが見える程度でした。        ベイウィンドー、暖炉の煙突、ステンドグラスなど、典型的な戦前の洋館の意匠を保つ建物は、内部に残された棟札や煉瓦造りの基礎からも確認され、関東大震災前に建てられた大変希少な存在とのことです。

14時半、市指定景観重要建築物「石島邸」                                    この建物は映画界に多大な貢献をされた川喜多長政・かしこ夫妻の別邸として使用されたこともある建物です。

                                            外観は玄関ポーチが特徴的で、半円アーチ型の開口部の腰部に手摺子が設けられ、クラッシックな雰囲気を醸し出しています。                            戦前住宅の雰囲気を伝える門垣、広い敷地に点在する大樹、これに見え隠れする建物が鎌倉らしい小路の風景にとけ込んでいます。

15時、古我邸                                          この地はもともと曹洞宗興禅寺(江戸末期に廃寺)の跡地で背後の山も含めると三千坪に及ぶ扇ヶ谷の一つの谷戸全体を敷地とするまれにみる大規模別荘であります。                      大正4年(1915)に三菱財閥の総師岩崎小弥太に売却、翌年重役の荘清次郎がこれを購入し新たに建てたもので、震災にも倒壊することもなく、昭和初期には浜口雄幸や近衛文麿など歴代の総理大臣も別荘に利用され、その後日本で初めてのレーサーである古我氏が購入されたものだそうです。

                                               建物は一国の総裁が住むに相応しい木造二階建てで中央に暖炉の煙突が塔屋風に立ち、両側に半六角形と三角形の出窓の屋根が並びます。                  強烈な印象は外壁が焦げ茶スレートのこけら葺きであることで中世のヨーロッパの教会を思わせる建物で、窓枠の白が重過ぎる印象を軽くしているようです。

 

『逗子ボランタリーガイド倶楽部』の佐野様、三春様、色々ありがとうございました。 

 

 

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古都鎌倉『建長寺』参拝

2014年02月14日 | 鎌倉カメラスケッチ

建長寺は巨福山(こふくさん)建長興国禅寺といい、鎌倉五山の第一位、臨済宗建長寺派の大本山です。                                    このお寺は父が眠るお寺の本山であり、鎌倉訪問の際は必ず参拝しているお寺です。

今から約760年前の建長5年(1253年)に鎌倉幕府五代執権「北条時頼」(1227~1263)が建立した我が国最初の禅寺です。                         建長寺の開山(創始者)蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は、中国の高僧「無明慧性(むみょうえしょう)に学び、寛元4年(1246年)33歳で来日し、九州、京都を経た後、鎌倉に入り北条時頼に請われて建長寺に迎えられました。

蘭渓道隆は、中国宋時代の純粋で厳しい禅をそのまま導入し、建長寺を天下の禅林として多くの僧を集め、中国文化の受容、勉学の場として、一時は千人を超える修行僧を指導されたとの事です。 

                                                                                                                                                                                                                                              その後は、京都の建仁寺、甲斐の東光寺等にも移り、弘安元年(1278年)に再び建長寺へ戻り、66歳で亡くなり、後宇多天皇より大覚禅師という禅師号を賜りました。      これは日本で最初の禅師号だそうです。                                                                        尚、『建長汁(けんちんじる)は建長寺発祥の料理との事です。

創建当時の伽藍配置は、中国宋時代の禅宗寺院を模したもので、総門・三門・仏殿・法堂・方丈などの主要な建物が一直線に並び、左右に大禅堂・大食堂(だいじきどう)を有する寺院であったようです。                                                                                        その後、14、15世紀に起こった数度の火災により、その多くが焼失してしまいました。                                          江戸時代に入り、高名な沢庵和尚や金地院崇伝(こんちいんすうでん)の進言、徳川幕府の後援などによって、再建・復興し、平成15年の創建750年事業によって 現在の姿を迎えました。本山の他に塔頭12院を数えるそうです。

私たちは、13時頃に三門近くに行ったら、僧侶による辻説法が始まっており、最初は50名ほどの拝聴者であったのが、気付いたら私たちの後ろにも沢山の参拝者が耳を傾けていた。三門下が人で埋まっていました。                                                    お話はテレビなどによる道理・道徳を欠く話題ばかりであり、世の中このままではいけません。                                                                                                                              過去は反省の薬とし、不確定な未来には頼らず、今・現在を大切にしましょうと言う内容でした。  

                                                                                                 あって両親の元に生まれ、あって会社勤め・農業従事・漁業従事をし、あって結婚し親となり、あって今日ご参拝下さり、皆さんにこうしてお話が出来る。                    そのを生かし、会社で与えられた仕事に精進する。                                                        親となったら親の務めを果たす。                                それぞれに皆さんが自分に与えられた立場・仕事を全うされれば、会社も、家庭も、町も、国も良くなると言う事でした。                                                                                     全てに通ずる事であり、僧侶に合掌、一礼をしてきました。

 

 

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古都鎌倉「円覚寺」参拝

2014年02月09日 | 鎌倉カメラスケッチ

大船で乗り換え横須賀線で北鎌倉へ、右手に白鷺池が見え、間もなく進むと左手に円覚寺の総門が目に入る。                             この時期は、これと言った花も無く参拝者は少ないだろう?と思っていたが、北鎌倉駅に下車したら改札も少ないせいもあり、なかなか進まず、鎌倉の人気の高さに驚いた。

みな歩く方向は同じであり、総門から山門、仏殿、大方丈へと参拝して行く。                                               自分は拝観受付でご朱印をお願いし、多くの人の流れを外れ、夏目漱石や島崎藤村が参禅止宿したことで知られている帰源院へ向かった。

拝観はできないが、この階段を夏目漱石も島崎藤村も歩いたのかァ~と思いを馳せてみた。

夏目漱石が初めて鎌倉を訪れたのは、1894年(明治27年)、27歳の頃。            当時は結核と疑われた病、教師という職業に対する不満などの精神的苦悩がつのり、救いを求めて帰源院に参禅するためにやってきたようです。

小説『門』の主人公・宗助が参禅する場面は、12月下旬から翌年の1月7日まで滞在していた時の体験を再現したものだと言われています。                              「彼の頭の中を色々なものが流れた。(中略)断ち切ろうと思えば思うほど、滾々(こんこん)として湧いて出た。」とあるように参禅は失敗に終わるが、3年後に再訪した漱石は当時を振り返り仏性は白き桔梗にこそあらめの句を詠んだとの事です。

円覚寺は臨済宗円覚寺派の総本山で、鎌倉五山第二位の寺格を持つ大寺であります。

開基は鎌倉幕府8代執権の北条時宗、開山は無学祖元(むがくそげん)、創建は1282年(弘安5年)と言われています。

ご本尊は仏殿に安置される木造宝冠釈迦如来坐像 

                                                          境内には仏殿、方丈、仏日庵、国宝の舎利殿など18もの塔頭が点在しています。         舎利殿は非公開で見る事はできませんでした。                   1889年(明治22年)に横須賀線の開通で分断され、現在の姿になっていますが、かつては広大な寺域であったようです。

 

 

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📚 鎌倉文学館 📚

2014年02月02日 | 鎌倉カメラスケッチ

鎌倉駅から散歩がてら由比ヶ浜大通りを西に進み、高徳院手前を右折、住宅街を進み緑に囲まれた石畳の小道を緩やかに登り、小さなトンネルを抜けると左手に見えた。

旧加賀藩前田侯爵家の別邸を利用した文学館。 

                                                                                             学校の教科書で知った有名な文豪が鎌倉文士(夏目漱石、芥川龍之介、久米正雄、里見、川端康成、小林秀雄、大佛次郎、永井龍男)として沢山の方が居られた事にビックリした。

文学館の中に、文豪を紹介した展示室が設けられ、著書や当時の原稿や愛用品を見る事が出来ました。                                                                                                                          原稿からは、この方は太い万年筆で力強い字を書かれたんだ。とか、また凄く丁寧な字を書かれる方とか、色々な面から興味深く拝見させて頂きました。

そんな時、ふと感じました。                                                                                                昔の有名な文豪は原稿用紙に綴られたので、今でも私たちが目にする事が出来ます。     ところが現代の小説家は原稿用紙を使用しているのか分かりませんが、もしパソコンなどで原作を書かれているとしたら、今後原稿などを見る機会は無くなってしまいます。

それぞれの人が書いた文字と言うものは、その人が表れている様に思うのです。            それを感じられなくなる事は非常に残念で、改めて原稿用紙の素晴らしさを知る事が出来ました。

2月1日から14日まで、鎌倉ゆかりの文豪たちの愛のメッセージを集めた特別展『愛は言葉だ文豪のハートにふれるバレンタイン』が開催されており、おみくじ形式に引いた番号により、文豪の愛のメッセージが頂けるのです。                                  「愛の言葉おみくじ」

                                                                          

「一度だけ本当の恋がありまして、南天の実が知っております。」   方代 『こおろぎ』 

                                                                        

「この頃ボクは、文(ふみ)ちゃんがお菓子なら、頭から食べてしまひたい位、可愛いい気がします。」  芥川 龍之介 『婚約者塚本文への手紙より

                                                                           

「しくじつた。惚れちやつた。」   太宰 治  『斜陽』

                                                                            

「あなたはあたしに、惚れてる?惚れてる、で気に入らなけれやア、恋(ラブ)してる?愛してる?   里見 弴  『四葉のクローバー』

                                                                                         

自分の引いたおみくじは里見でしたが、芥川龍之介のメッセージの方が良く理解できました。

 

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*佐助稲荷神社*

2008年12月31日 | 鎌倉カメラスケッチ

住宅街の路地を抜けると、杉木立に囲まれて赤い幟と幾重にも重なる朱塗りの奉納鳥居をくぐると、境内は深い森の緑に包まれて隠れ里の雰囲気が漂っている。

                                               階段の途中には、お稲荷さんをあらわすキツネの像がそっと見守っており、この階段を登りきったところが社殿になります。

                                              祭神は銭洗弁財天と同じで平家討伐の挙兵を源頼朝に勧めたと伝えられる宇賀福神。

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*銭洗弁財天*

2008年12月31日 | 鎌倉カメラスケッチ

源氏山公園に隣接する谷間にあり、別名「宇賀福神社」。

                                               岩から湧き出る霊水は、源 頼朝が飢饉救済を祈願したところ、1185(文治元)年(巳年)巳月巳日巳の刻に宇賀福神からお告げを受けたといわれています。      金運、商売繁盛のご利益があるようです。

参道の一部がトンネル、そして金運にご利益のある銭洗水も、御神体を祀る洞窟の中にある。そのためか、銭洗弁財天がある佐助ガ谷一帯を、平家の隠れ里ではと推測する説があるようです。神秘的ですね。

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