素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

西湖 いやしの里 ❝根場❞ 2021

2021年12月07日 | 史跡・名勝探訪

秋の根場〈ねんば〉いやしの里を歩く。

世界文化遺産 ❝富士山❞ の麓に広がる富士五湖の一つ、西湖。                         湖畔の北西、富士山を正面に望む扇状地には、かつて『日本一美しい』と称された集落が広がっていました。

その集落は武田信玄の時代に、既に形成されていたとされる根場(ねんば)集落。            そこには約 40軒の兜造りと呼ばれる茅葺屋根の民家が棟を突き合わせるように建っていました。

日照に恵まれ積雪も少ない陽だまりの里で、人々は林業、炭焼き、養蚕、酪農などに勤しみ、力を合わせて独自の文化を形成しながら、平和で豊かな暮らしを営んできました。

村人総出で茅葺屋根の葺き替えを行ったり、昔ながらの茅葺の民家を存続する一方で、より良い暮らしを求めて村をあげて取り組むなど、先進的な村づくりをしていました。

1966(昭和 41)年9月、西湖周辺では秋雨前線と台風 24号によって大雨が続いていました。

 

そこへ台風 26号による記録的豪雨が追い打ちをかけ、ついに耐えきれなくなった山腹が崩壊。「山津波」と呼ばれていた土石流が一気に沢を下り、根場集落を直撃しました。

                                                             9月 25日、未明であったとのことです。

これにより、当時 41棟あった茅葺民家のうち、37棟が全半壊、平和な暮らしは一瞬にして奪われ、集落は消滅してしまいました。

その災害から 40年を経た 2006年、台風災害で失われた美しい茅葺集落の原風景を復活させ、地域の歴史や文化、この地ならではの自然環境を生かした新たな観光交流拠点を創出することを目指して、20棟の茅葺家屋を中心とした『西湖いやしの里 根場』が誕生しました。

 

 

古材を用いて当時のままの兜造りの茅葺屋根を再建すると共に、炭焼き小屋や蚕を育てる養蚕室なども再現されています。

長い時間をかけ蘇った茅葺集落で四季折々の美しい風景を楽しむことができます。

西湖いやしの里 根場では『ふるさとの四季』をテーマにした年中行事を開催しています。

抹茶、お団子、季節の甘味、時には いやしの里産の野菜を使用した食事もご用意しております。

ノンビリと是非お立ち寄りください。

  

 

  ※ ご覧頂き、ありがとうございます。

 

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🐾 秋の忍野 🐾

2018年10月19日 | 史跡・名勝探訪

忍野村は山梨県の南東部で富士山 の麓にあり、南都留郡に含まれています。              南に富士山、東に石割山(1413m)といった山々に囲まれた、標高 936mの所にあります。   霊峰富士の雪が伏流となり、ここ忍野村忍草(しぼくさ)で八つの湧水となり、古くから富士山信仰の霊泉となってきた「忍野八海」

今回は、あいにくの曇りで富士の顔は見ることができませんでした。                    そのため付近の茅葺き古民家 を回りながら秋らしい所を見て回りました。

その第三番霊場「底抜池」を抱く大きな林を背に約九千坪(29.700㎡)の旧豪族敷地内にゆったりたたずむのが榛の木林民族資料館であります。

間口九間半、奥行五間半の母屋は十八世紀の建造物と推定され、富士山北麓一帯では、最古の民家の一つとされています。

また、間口五間、奥行二間半の隠居屋は特に風格を醸し出しています。中央の建物

「榛の木林民俗資料館」とは、地名の忍野村大字忍草小字榛の木林から、つけられたとのことです。                                             まだ、この付近には幾つかの古民家が残され有料ですが見学させて頂けます。

場所が忍野八海という、綺麗な水の豊富な所であり、優雅に泳ぐ鯉などの姿を見ていると心癒されます。

この様な茅葺きの古民家は茅不足から段々減りつつあるようですが、富山の五箇山岐阜の白川郷京都の美山の様に保存されることを願たいですね。

 

 

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🌸 伊豆の踊子 🌸

2018年05月25日 | 史跡・名勝探訪

伊豆の踊子

                                            道がつづら折になって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。・・・・・

川端康成の文章は黙読よりも、ラジオから 流れてくる静かな朗読で味わうのが一番心に染み入る。

 

1926年(大正15年)発表の短編小説。                                        伊豆の自然を背景に、旧制高校生と旅芸人の幼い踊り子との淡い交情を描いた出世作。

一高生の「私」は伊豆の旅で旅芸人の一行と道連れになった。

                                                   14歳の踊子の素直な好意に、孤児である私の いじけた気持ちも伸び伸びと解きほぐされるが、しかしやがて悲しい別れがくる。

                                            大人と子供の境目の少女 の可憐な姿態がくっきりと定着され、青春のときめきと悲哀とがみずみずしく表現されている。

1918年(大正 7年)一高時代の川端は伊豆の旅をしたが、これはその時の体験に基づいた作品とのことです。

 

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▲ヒメサユリ咲く❝粟ヶ岳❞登山▲

2017年06月17日 | 史跡・名勝探訪

5月はブナ林の新緑が美しく、6月はヒメサユリの咲く、越後 川内(かわち)山塊の最高峰『粟ヶ岳』(あわがたけ:1292.7m)に行って来ました。

                                            関越自動車道の小出ICを 6時 40分に降り、三条市《旧下田(しただ)村》北五百川(きたいもがわ)の登山口に向かい、途中の左手、五十嵐川の先に❝八木ヶ鼻❞という岩壁が迫って見えた。

                                            また、田植えの終わった綺麗な棚田を見ているとふるさと唱歌を口ずさみたくなる様な風景でした。  登山口に 8時 10分に到着。

途中の道の駅で登山準備は済ませておいたので、8時 20分に出発した。                           こちらの登山口である駐車場がスタートの一合目となっている。                                    最初は林道歩きで湿気も多く山ビル に注意しながら前進。

林道を1Kmほど進むと右側の岩壁から滝の様に流れ落ちる水を除け、間も無く進むと二合目の表示を 8時 32分に通過、赤さびた鉄橋を渡り徐々に高度を上げて行く。

登山道は樹林帯の中であり、ヒンヤリとした空気が漂っていた。                                    小休止を入れながら登る。

8時 57分、三合目の八汐尾根を通過。  ここは尾根といっても登りの途中であった。

四合目、9時 16分通過。                                                                                                 ここ4合目は粟石跡とも称し、大岩があったようですが昭和 39年の新潟地震で沢に落ちてしまったとのことです。                                                                                   粟薬師の水場、9時 30分通過。 キツイ登りが続く。

粟薬師奥ノ院と避難小屋のある五合目通過、9時 45分。   樹林帯の中の平地であった。

六合目の天狗の水場、10時10分通過。                                                                              目的の花❝ヒメサユリ❞が姿を見せはじめ、皆さんに元気が出てきた。

10時 47分、七合目通過。 森林限界を抜け出たようである。

八合目である「午の背(うまのせ)」に 11時 15分着。                                                              岩稜の細尾根で非常に左右の景観が良かった。5分の立ち休憩し前進。

振り返ると今登って来た登山道が遠望できた。  あと二合で山頂だ 頑張ろう。

でもヒメサユリがお出迎えしてくれるので、中々進まない  

九合目、11時 38分通過。                                                                                                  ここは粟ヶ岳の肩で山頂まで約 400m、最後の登りに汗を流す。

バンザ~イ    11時 55分全員無事登頂しました。30分の休憩と昼食

                                            山頂にいる時は、風は無かったが空全体を雲が覆い遠望が利かなかったことが残念だった。

12時 26分、下山開始。                                                                                                  川内山塊のこれから歩く山並みが見渡せ、空は明るくなってきた。

登山道は右側が切れ落ちて安全対策のロープが張られていたが、不思議と危ない所に綺麗なヒメサユリが見られ、冷や冷やしながらも皆さんで写真を撮った。

下りは早いもので、20分ほど下ったら粟ヶ岳山頂が一山向うになってしまった。        手前のガスの掛かる山姿は北峰(1246m)である。 寂しい

下山方向に目をやれば、これから向かう赤い屋根の粟ヶ岳ヒュッテ(避難小屋)が確認できた。

下山道は急斜面であり気が抜けない。先ほど見えた赤い屋根の「粟ヶ岳ヒュッテ」に 13時 22分着。10分の休憩を取った。

ここからの下りはガレ場、ハシゴ、やせ尾根を行く。

                                                                                                                                                  やせ尾根は両脇にヤマツツジ等 新緑の灌木があり危機感無く歩いていると事故につながり易いので、皆さんで声掛け合って注意喚起した。

大栃平着、14時 25分。5分休憩。                                                                                                                                                      ここからは標高 1537mの袴岳を主峰とする「守門岳」が遠望できた。                           守門岳は袴岳、晴雲岳、大岳、中津又岳の名峰からなっています。

№3の第一ベンチ着、14時 50分。5分休憩。

ここからは中央登山道ハイキングコースを第二ダムに向けて下るが、赤土の滑り易い急斜面で気の抜けない下りに皆さん緊張しきりでした。                               疲れが出てくると下りが異常に長く感じるが、ようやくダムが見えてホッとした。

第二ダムを渡り、中央登山口に全員無事下山、15時 30分。

お疲れ様でした。

 

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◎ 佐渡漫遊 ◎

2017年05月15日 | 史跡・名勝探訪

昨日は雨の中、大佐渡山地のドンデン高原から佐渡の最高峰である金北山(1172m)を全員が縦走し、大満足の 1日でした。                                           ただ、金北山山頂付近では雨脚が強まり、長い雪渓を直登したりと大変でしたが、皆さんのパワーには驚きました。 まだまだ行けます。                                           今日は最後の日になってしまいましたが、昨日が嘘のような好天となり皆さんパワー全開。                                                                                            宿の 7時の朝食前に 6時から近くを歩こうと決めていたら、何と 5時頃から海岸線を散歩されていました。6階に居て声が聞こえるのだから、凄いです。

まず、相川北沢町にある「北沢浮遊選鉱場」に向かいました。                             佐渡が初めての私は、佐渡って島もそうだが見るもの全てがビッグであると感じました。

周囲 281.7Km、面積 855.1K㎡で伊豆大島の約 10倍、東京 23区・淡路島の約 1.4倍、沖縄本島の 3分の2という大きさです。

日本で最初に金銀鉱石の浮遊選鉱法を採用し、昭和 11年に工場建設に着手、その後大増産計画に伴って設計を変更し完成しました。                                                                   施設完成後の鉱石処理鉱量は 5万トン以上に達し、この設備規模は「東洋一」とうたわれています。

佐渡の相川金銀山は、江戸時代から1989年の操業停止まで、国内最大の金銀山として 78トンの金と 2,330トンの銀を産出したとのことです。                               江戸時代には徳川幕府の管理下で、採掘から小判製造に至る一連の作業が行われ、明治維新以降は、西洋から最新技術が導入され、日本の近代化に大きく貢献しました。                      平成 22年には「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」という名称で、世界遺産暫定リストに記載され、世界遺産登録を目指しています。

この近くは、徳川幕府を支えた天領のまちで歴史情緒の見所満載でした。

                                                 次に京町通りへ、金銀山が盛んだった頃の繁華街で、佐渡金銀山と佐渡奉行所を結んだ当時のメインストリート。

                                                 そこに昭和 29年に開設され、昭和 47年まで使用されていた旧相川拘置支所あり、

                                                     支所前の住いの方が管理され運良く開けて下さり、事務所棟、炊事・倉庫棟、独居房棟の 3棟を見学して来ました。                                                                                                   金の盗人が収容されたようです。3畳ほどの部屋でした。

京町通りを海に向かって下り、佐渡奉行所跡へ。                                 江戸時代、相川に金銀の大鉱脈が発見されると、徳川幕府は佐渡を直轄地(天領)とし、相川に奉行所を置きました。

                                                   各地から移り住んだ人であふれた鉱山町「相川」は 栄華 を極め、佐渡で産出された金銀は幕府の財政を支えたとのことです。

宿に戻り、朝食を済ませ 8時10分に出発。                                                                           県道 45号線を北に進み、変化に富んだ海岸の景観が楽しめる「尖閣湾揚島遊園」に向かい、高さ 30mにも及ぶ絶壁と、海面に屹立する岩の造形は絶景でした。

   

また、大崎灯台に掛かる遊仙橋は「君の名は」の舞台となった所から「真知子橋」の別名がありました。

再び県道 45号線を戻り、相川市街から大佐渡スカイラインを登り、ユネスコ世界文化遺産候補である史跡「佐渡金山」に立ち寄りました。

                                               江戸時代初期に、その頂部が人の手で掘り進められた露頭堀跡で、山を斧で割ったように見え、佐渡金銀山の象徴となっており「道遊の割戸」と呼ばれております。                              ここで鋳造された小判は、主に北国街道を通り 400キロの道のりを経て江戸まで運ばれた。 これを「金の道」とよぶ。                                          相川のとなりは、江戸だったのかもしれない。

佐渡スカイラインを登り詰め、白雲台交流センターに 10時到着。

                                               昨日と違い、雨の中必死で歩いた金北山が遠望できた。 あんな遠くから良く歩けたと、皆さん感動しきり、自信を増されたのではないでしょうか                             直ぐ近くに山頂が見えますが、望遠で撮影したためです。

10時 20分、コンクリで打たれた急な防衛省管理道路を下り、国道 350号線に入り両津港向けに移動。                                                                                                                折角の佐渡であり、特別天然記念物であるトキを見ようと「トキの森公園」に向かいました。

                                               トキの学名は「ニッポニア・ニッポン」、ペリカン目:トキ科の中の一属一種に分類される鳥だそうです。                                                                                                                   かつては日本中に生息していた鳥だが、20世紀前半に激減し、佐渡は日本産最後のトキが生息していた島とのことです。  11時半出発。

追伸 ⇒ 平成 29年 5月30日の読売新聞 朝刊に「トキ保護センター」でトキのヒナが誕生したとの記事を読みました。 ワ~ィ おめでとう ございま~す。                           

カーフェリー「おけさ丸」出港が 12時 40分であり乗船場で待機。                                       お世話になったホテルと金北山。

                                                    沢山の思い出を胸に山行・観光が終了しました。 お疲れ様でした。

 

 

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🌸 雪割草と西能登巡り 🌸

2017年03月27日 | 史跡・名勝探訪

宿の部屋から波のやさしい日本海が雄大に広がっていました。 朝気分が良いことは最高です。

                                               宿を 8時10分に出発。歩いても直ぐの輪島朝市に、次の行程を考慮して車で移動。    8時15分到着。

朝市通りをブラブラ、約 1時間散策。                                                                                  農民と漁民の物々交換から始まり、一千年以上の歴史ある朝市。 色々な物が並んでいました。

                                               野菜などは周辺農家のおばちゃんが、生きのいい魚介や海藻などは漁師町の女衆が売っています。                                 輪島の女性達は働き者で、朝市では売るのも買うのも主役は女性、「亭主の一人や二人養うのが女の甲斐性」といわれるほどだそうです。

                                               私には分かりませんでしたが 、同行の奥様方は「お魚が安い」と皆さんが話されていました。9時10分出発。

次は今回の旅の目的である能登雪割草を見に向かいました。                                         娑婆捨峠駐車場到着、9時 50分。

日本有数の雪割草群生地といわれる『のと猿山雪割草のみち』を娑婆捨峠から深見まで、南北に伸びる約 4Kmの自然遊歩道を歩いて来ました。

雪割草と一口に言っても、同じ名前で異なる種類があるとのことです。                   一つは高山に生えて雪解け直後に開花する「サクラソウ科」で、もう一つは比較的低山や丘陵の落葉樹の下で3~4月に開花する「キンポウゲ科」のもの。

「キンポウゲ科」は更に、葉の先端が鋭いミスミソウ(三角草)と、丸っこいスハマソウ(州浜草)とに大別され、更にその中間型も見られるというからややこしい花のようです。                                                                                   一見花のように見えるのは、実はガク片で、これが普通 6~8枚あるようです。               白や薄紅、紫のほか、黄やボカシなど花色・花形は変化に富むとのことです。                               猿山一帯の雪割草はオオスミソウに分類され、その群生は日本一と言われています。

10時 25分、第九管区七尾海上保安部の管理される猿山岬灯台に到着。

                                                  運良く今日3月26日(日)1日のみ一般開放ということで、普段なかなか見られない灯台の中を見学させて頂きました。                                                                                          各所で待機する海上保安部の職員の方が色々と説明をして下さいました。

                                                         8秒ごとにピカッと1回光り、光の届く距離は 20海里(約 37km)とのことです。   10時45分出発。

灯台を過ぎて間もなく、雪割草の群生地に足を踏み入れたようで、段々皆さん興奮気味

                                                       狭い散策路にしゃがみ込み、写真撮影に夢中でした。

北から南に向かって歩き、

                                               下山口に近い深見地区の尾根上には、これまた雪割草の色違いや大きな株となったものが沢山見られ、

                                               皆さん大満足のハイキングでした。

                                                 車の待つ深見地区に14時 50分、全員無事下山。

休憩と荷物の整理後、13時 10分出発。    總持寺祖院へ向かいました。

總持寺祖院着、13時20分。

                                                曹洞宗大本山祖院。                                                                                                                  1321年に開創され、1898年の大火で本山は横浜の鶴見に移り、こちらの總持寺は祖院となったとのことです。

                                               丁度、總持寺の門前で「そばの市」が開催され特設ステージでは歌謡ショーで、とても賑やかでした。

昨日、宿のテレビで總持寺の山門修理のため山門全体を移動させるというのを見て、今日その現場を見て来ました。   14時出発。

西能登の国道 249号線を南下しながら志賀(しか)町の伝説に残る断崖入り江「義経の舟 隠し」を見学したり、

                                                 松本清張の名作「ゼロの焦点」の舞台地となった「ヤセの断崖」も見学しました。

また、1989年ギネスブックに掲載された世界一長いベンチ(460.9m)にも寄ってきました。

                                                       海岸でピンクのサクラ貝を探しながら、さざ波の唄を聞く。 歌手「二葉百合子」さんの歌われた岩壁の母の歌碑がありました。

                                                お国のために大事な息子さんを戦地に送り、この岩壁で息子の帰りを待つ「端野いせ」様がおられたとのことです。  15時半、出発。

無料の能越自動車道に乗り、一路金沢駅を目指しました。金沢駅到着、16時 45分。   お疲れ様でした。                                                                                                        北陸新幹線、金沢発 17時 40分。東京着、20時 20分。

 

 

 

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▲ 冬季高見山登山 ▲

2017年02月11日 | 史跡・名勝探訪

冬季は霧氷が美しいと言われる、関西で有名な『高見山』(1248.4m)に登ってきました。                                                                                                         この山は、奈良県吉野郡東吉野村と三重県松阪市との境界線上に存在する台高山脈の北端に位置する山である。                                                     奈良県側の紀ノ川支流である高見川と三重県側の櫛田川の源頭に当たり、この山付近を中央構造線が通っているとのことであります。                                                               関西では霧氷や樹氷を見ることのできる登山先として有名であります。 

宿を 8時に出発。                                                                                                                 昨日まで何でもなかったところ、一夜にして辺りは白銀化していた。

                                               高見登山口に 9時 15分 到着。

                                               登山口が標高 510mであり冷え込みが強く、皆さん防寒対策とロングスパッツにアイゼンを装着し登山開始。

奈良交通の登山専用バス「霧氷号」が増発しており、土曜日でもあることから登山口も登山路も大渋滞でありました。

滅多に味わえない何の汚れもない白銀の世界に飛び込み、皆さん感動しきり。                     少し腰に痛みがあるという方も、お喋りしながら皆さんに遅れず、順調に高度を稼がれていた。

                                                 登山道が伊勢南街道と呼ばれる旧道で紀州・大和・伊勢を結ぶ塩の道、米の道、魚の道の交易路であり、かつては伊勢参宮の道であり、また紀州 徳川家が江戸参勤交代に、この街道を利用したとのことであります。                                                   そのせいでか登山道の結構 長い距離が石畳となっており、皆さんがアイゼンを付けて、その上を歩くので石と擦れキイキイと嫌な音がして大変でした。

古市跡 着、10時 05分。 5分 休憩。

枯れ木の枝ぶりも霧氷が付くと、何でも芸術的に見えてしまう。

小峠 着、 10時 45分。

ここは旧伊勢南街道を横切る場所で、林道のように広く多くの登山者が立ち休憩をされ混雑していた。                                                                                                                   少し立っていると、自分の汗が冷えて寒い。                                                                      でも次の区間が急登であり 5分 休憩。

距離は短いが急登である、杉谷平野分岐に向かう。                                                   無積雪期であればマップタイム 20分であるが、登山者が多く良く踏まれていたので 25分で分岐に到着。                                                                                                                皆さんの元気さにビックリ   11時 10分着。

杉谷平野分岐から先は高見山の尾根を山頂に向けて詰めて行く。                           分岐から少し下り、再び急坂が待ち構え、左側に続いていた植林もいつしか自然林に変わると、神武天皇が大和へ入る際に立ち止まって大和を眺めたと伝えられる「国見岩」や「揺岩」を道脇に見送る。

最初のうちは耐えられたが、標高を上げてくると突風が雪煙を巻き上げ、顔にピシピシと当たり凍傷になるのではと感じた。                                                                                  また突風でバランスを崩さぬように踏ん張りながらアイゼンを効かせ、焦らず一歩一歩高度を稼いだ。

                                                  鼻や頬が痛いのでネックウォーマーで鼻や頬を隠したら、メガネが曇り、それが凍り付き視界不良のうえ指先の感覚も消え、自由に動かず危険を感じました。

笛吹岩からわずかで高角神社を祀る高見山の山頂に全員が立った。12時 20分。

避難小屋は登山者であふれ入れない人は小屋陰で風をしのいだ。                            ノンビリ昼食もできず、簡単な補助食品でお腹をふさぎ 12時半下山を開始した。

                                                  外気温はマイナス3度であったが、風が強く体感温度は更に低かった。        腰に付けていた飲み物はシャーベット状になった。                          このような厳しい条件下であっても女性陣の適応能力は素晴らしいものでした。

杉谷平野分岐を 13時 05分通過。                                                                                      急傾斜の下山路は危険であり、ここからは緩やかな尾根歩きで「たかすみ温泉」登山口への下山路を選択し、全員無事下山しました。14時半着。                                     中々、経験できない激寒の中の登山、本当にお疲れ様でした。

 

 

 

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◎京都鉄道博物館◎

2016年10月17日 | 史跡・名勝探訪

以前の梅小路蒸気機関車館の時には何度か見学に寄ってみましたが、今年の平成 28年 4月 29日に鉄道の歴史を通して日本の近代化の歩みを体感できるとして新たにオープンした「京都鉄道博物館」を訪問しました。

歴史と伝統を重んじながらも常に革新を続ける京都の地に開業されていることが素晴らしいと思います。

博物館の基本コンセプトは「地域と歩む鉄道文化拠点」ということだそうです。                  「鉄道を基軸とした事業活動を通じた地域の活性化に貢献する。」という基本ミッションを掲げ地域との共生を目指し、また 学校教育、周辺施設など、地域との連携を図り、地域の活性化に寄与するとともに、広く皆様に受け入れられる「憩いの場」となると共に、「見る、さわる、体験する」ことで誰もが楽しむことができる「学びの場」となることも目指しています。

 

大人から子供まで多くの方々が楽しめる施設として、特に好奇心旺盛な子供たちも車両の構造や動力の仕組みを装置に触れながら学ぶことができ、あれもこれもと広い館内を走り回っていました。

大人でも昭和3~40年頃であろうか  駅の改札や   

                                                                                                                                                客車内の雰囲気が再現され、自分の歳を感じさせられました。

また、丸いブラウン管テレビ、赤い公衆電話、店外で見られたアイスクリームの冷凍庫、

                                                                                                                                        それにダイハツの三輪ミゼットが展示されているのには感激というか 、とても懐かしく感じました。興奮です。

職員の方が付いて下さり、足で自転車の様にして乗り、線路の点検作業の体験もできました。

ジオラマで昼と夜の鉄道の動きを見学したり

車両の運転席に座り、運転手さんの雰囲気を味わったり、鉄道の大切なダイヤグラム(列車運行表)の簡単な作成体験など興味津々取り組んでいました。

大きく広い館内には駅のプラットホームを模したスペースに、C 62形蒸気機関車や 80系電車、0系新幹線電車など所狭しと、蒸気機関車から新幹線まで本物車両の貴重な 53両と鉄道施設、工夫を凝らした展示の数々。

                                                  扇形車庫には 20両のSLが勢ぞろいしています。

そして本物の蒸気機関車が牽引する客車に乗車することができます。                これは梅小路蒸気機関車館の頃から大人気でSLスチーム号が往復 1Kmを約 10分間で走ってくれ、束の間の蒸気機関車での旅気分が味わえました。

 

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🏞 六義園(りくぎえん)🏞

2016年06月16日 | 史跡・名勝探訪

今日は東京都立文化財9庭園浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園、小石川後楽園、六義園、旧岩崎邸庭園、向島百花園、清澄庭園、旧古河庭園、殿ヶ谷戸庭園)のうち文京区本駒込にある『六義園』に行って来ました。

 

六義園は五代将軍「徳川 綱吉」の信任が厚かった川越藩主:柳沢 吉保が元禄15(1702)年に自ら設計指揮して完成した回遊式築山泉水(かいゆうしきつきやませんすい)の大名庭園です。

池を囲むように園路が作られ、一歩園内に足を踏み込むと都内であることを忘れて、移り変わる景色を楽しめる繊細で温和な日本庭園です。

江戸時代の大名庭園の中でも代表的なもので、明治時代に入って、三菱の創業者である「岩崎 彌太郎」の別邸となりました。                                        その後、昭和13(1938)年に岩崎家より東京市(都)に寄付され、昭和28(1953)年に国の特別名勝として文化財保護法により指定されております。

年間を通して季節ごとの花を楽しめ、先月はツツジ類で今月はアジサイ類が目を楽しませてくれました。

園名の由来                                                     六義園の名は、中国の詩の分類法(歌の六義)にならった古今集の序にある和歌の分類の六体(そえ歌、かぞえ歌、なぞらえ歌、たとえ歌、ただごと歌、いわい歌)に由来したものだそうです。

柳沢 吉保自身の撰した「六義園記」では、日本風に「むくさのその」と呼んでいたそうですが、現在では漢音読みで「六義」を「りくぎ」と読む習わしから、「りくぎえん」と読んでいるようです。

都内でありながら都内を感じさせない庭園めぐり、九つある庭園を年内に歩いてみようと思っています。

 

 

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🏯 ぶらり越前大野 🏯

2016年05月22日 | 史跡・名勝探訪

昨日(5月20日)の17時半に宿に到着。                                                                                   部屋から越前大野城が望め最高の景色に恵まれた。                              夕食後、部屋に戻り明日の登山の準備をしたり、テレビを見たりとノンビリし、21時ころ何気なく外を見たら大野城がライトアップされておりビックリ。

                                               三脚はないが、急いでカメラを持ち出し窓から狙ってみた。   何回か取り直し、               やっとこの程度のものが撮れました。

今日は朝食前に城下町を散策しようと宿の前に全員6時集合し、朝の清々しい空気の中、ブラブラしました。                                                                                                 大野は古くから、越前・美濃両国を結ぶ交通の要所として栄えてきたとのことです。

越前大野城は、大野盆地の西側に位置する標高約250mの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城です。                                                                                                                  織田 信長の武将「金森 長近(かなもりながちか)により天正年間(1573~1593)の前半に築城されました。

越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣は、加工しない自然石をそのまま積み上げた野面積み(のづらづみ)という大変堅固な工法で作られ、天守を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい形式の城だそうです。                   金森家の家紋「裏梅鉢」が見えます。

現在の天守は、昭和43年(1968)に絵図や同時代の城を参考に再建されたもので、内部には歴代城主の金森氏・土井 利忠氏などの遺品が数多く展示されています。

金森 長近は越前大野城の築城と並行し、京都に似た碁盤目状の城下町の建設に着手。 大野が「北陸の小京都」と呼ばれる所以となります。                    これが現市街地の起源となり、以後約430年間、大野は奥越前の中心地として栄えてきました。

 

大野市には名水百選「御清水」おしょうず)平成の名水百選「本願清水」などの湧水地が多く点在します。                                 また水の郷百選にも選ばれるなど、古くから豊かな水に恵まれた場所です。

まちなかの観光拠点である 越前おおの結(ゆい)ステーションから見た越前大野城。

400年以上も続く大野の名物「七間朝市」が開催される七間通り。          江戸時代、越前と美濃を結ぶ「美濃街道」にあたり、多くの店が軒を連ねていました。 現在も往時を偲ばせる老舗が立ち並びます。

散歩していて観光客だと分かっても、大野市の皆さんは「おはようございます。」と挨拶して下さり、とても気持ちの良い旅の思い出になりました。              道路も広く歴史ある街を感じさせない、とても綺麗な街です。

 

 

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