
今川義元 全盛の時代 天文 18年(1549)に、徳川家康は人質として 19歳までの 12年間 駿府で暮らし、また晩年も「大御所」として 65歳から亡くなる 75歳までの 10年間を駿府で過ごされました。
その駿府城公園で、城跡天守台の発掘調査公開中とのことで見学してきました。
駿府城の歴史
現在の駿府城公園周辺には駿河国の戦国大名 今川氏の館があったと考えられています。 今川義元が当主の頃、
松平竹千代
(家康の幼名)は駿府で暮らしていました。
永禄3年(1560)義元が桶狭間の戦で織田信長に討たれると今川氏は衰退し、永禄 11年(1568)に武田信玄により駿府を追われ、翌年 今川氏は滅亡しました。
その後、武田氏が滅んだ後、5か国を領有する大名となった家康は天正 13年(1585)に駿府城築城を開始、天正 14年(1586)に浜松から駿府に移ります。 発掘調査では、金箔瓦と天守台が見つかっており、金箔瓦が葺かれた天守や石垣のある城であったと考えられています。
天正 18年(1590)家康は江戸に移り、秀吉家臣の中村一氏(かずうじ)が入城しました。 慶長 12年(1607)大御所となった家康は江戸から駿府に移り、全国の大名を動員し天下普請による大改修を開始しました。
二ノ丸までであった城の範囲を拡張し、三重の堀がめぐる輪郭式の城として整備しました。 家康の死後、天守は焼失し、設計図が残されていないため、その姿は謎に包まれています。 幕末まで幕府が直接管理していましたが、明治時代になると廃城となり、現在 本丸と二ノ丸の跡は、駿府城公園として整備されました。
駿府城の構造は、三重の堀が巡り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」・「二ノ丸」・「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとなっています。 現在 三ノ丸は、おもに公共施設が建ち並び、本丸と二ノ丸が駿府城公園となっています。
公園自体が広く大きいので入口が良く分からず、着いたところが北御門。 北御門は門を入ると石垣による枡形風の空間を通り、二ノ丸内部へと入り、本丸を囲んだ内堀は発掘調査のため堀の水はありませんでした。
家康による築城当時「小天守台」にどのような建物が有ったのかは良く分かっていませんが、絵図(駿府城御本丸御天守台跡之図)には、天守台へと登る階段や石垣などが描かれていることから、天守台を防御する機能を果たしていたと考えられています。
なお、ここから見える石は、石垣の最も下にある石(根石)で、江戸時代には地中に埋まっていた石とのことです。
過去の発掘調査から、天守台があった場所には室町~戦国時代の今川氏の本拠地であったと推定されていました。 天守台発掘調査でも、天正期(豊臣方)天守台の内部からは今川期の遺構と遺物が発見されたようです。 発見された遺構は、断面がV字状になる薬研堀と窪地状(または池状)の遺構とのことですが、広い発掘現場の外側からしか見られず、よく見えないのが残念であった。
地上に姿を現した石垣も大御所家康が慶長期に築いた石垣と、それより古い時代の天正期に築いた石垣の作り方が異なっているそうです。
慶長期の石垣は加工した石を積む「打込接(うちこみは)ぎ」という工法を使用し、石垣の勾配(傾き)は比較的急となっています。 一方、天正期の石垣は自然石を積む「野面(のづら)積み」という工法を使用し、石垣の勾配は比較的に緩やかとなっています。
打込み接(は)ぎ 石の角を叩いて割り、割り石(矢穴を開けて割る)をもちいて石垣を築く方法です。 石の隙間には間詰め石を詰めています。
切込み接(は)ぎ 切石(加工石)で石垣を築く方法です。
石垣の『刻印』
石垣に使われている石材には『刻印』と呼ばれるさまざまな文字や記号が刻み込まれています。この刻印の役割は、石垣の工事に携わった大名の家紋を刻んだものや、石を積んだ職人のサインで、作業を担当した場所を表していたとされています。
ほかにも、石材の原産地を表していたり、奉行の名を記したり、その役割は今も研究されています。 駿府公園(駿府城)で発見された刻印の数と種類は300以上あったとのことです。
最も多く見られる刻印
大御所となった家康が全国の大名に声掛けして行った天下普請であり、駿府城で発見された『刻印』の数と種類が300以上もあったということは、各大名が我先にと駿府へ馳せ参じたことが良く分かります。
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