今回は
東海道ウォークガイドの会
主催の月例会に参加させて頂きました。
横浜の開港前は戸数 101戸の半農半漁の横浜村が一躍時代の脚光を浴びたのは、安政5年(1858)に結ばれた日米修好通商条約で神奈川の開港が決まってからとのことです。
『横浜開港当時の神奈川宿』や開港場への道『横浜道』という古い道はアップダウンが多く歩き甲斐のある所をガイドさんと共に歩いて
来ました。 ガイドさんの話では横浜の平地は海を埋め立てた所だけですとのことでした。
JR 東神奈川駅を9時半、出発。
ガイドをして下さった、お元気な中野さん。 


東海道五十三次の日本橋より数えて三番目が
神奈川宿
であります。 宿内は 18町 29間で江戸よりの神奈川町と京よりの青木町の2町で構成され、規模は江戸後期で人口 5,793人、家数 1,341、本陣 2、旅籠は 58軒だったそうです。

日米修好通商条約上の開港は神奈川でしたが、幕府は神奈川に居留地を置けば、東海道の通行に支障が起こるとし、対岸の横浜村に長崎の出島と同様の外国人を囲い込む居留地づくりを進めたそうです。
それに対し、アメリカをはじめ条約を結んだ各国は、これに抗議し条約通り神奈川宿の寺院に領事館を置き神奈川の開港を迫りました。
アメリカ領事館:本覚寺 オランダ領事館:長延寺 イギリス領事館:浄龍寺 フランス領事官:慶運寺
開港は決まったものの、当時は東海道筋から横浜村への交通は不便を極めていた。
開港場の建設と共に重要な課題は、東海道と横浜開港場を結ぶ新道の開設でしたが、開港の直前、安政6年(1859)に工期3ヶ月の突貫工事で横浜道が完成しました。
当時の慌しい中に建設された『横浜道』を歩きながら、残されたものを見て来ました。
今年 2024年は、横浜開港 165年になるとのことです。
まず最初に正覚山法雨院「成仏寺」を訪ねました。

嘉永7年(1854)横浜で行われた日米和親条約交渉の応接掛(特命全権大使)林大学頭の宿舎になり、日本開国の最前線基地のお寺でした。

横浜開港の3ヶ月後、アメリカの宣教医ヘボン博士は寺の本堂を、宣教師ブラウンは庫裡を宿舎としたそうです。 ヘボン博士は日本で最初の和英辞典を編纂、それによりヘボン式ローマ字を広めたことや、青少年の教育などに尽力されています。
【男子は後の明治学院、女子は後のフェリス女学院】
当時はまだ「キリスト教禁止令」が解除されていませんでしたが、日本で初めて日曜礼拝も行われ領事館員、商館員、水兵、船員らが参加して、この寺から
讃美歌
が聞こえてきたそうです。
開塔山 宗興寺 


ヘボン博士は医療宣教師で医師でもありました。

この宗興寺を施療所として6ヶ月間で約 3,500人の患者を無償で診療しました。
奉行所は最初この診療を黙認していましたが、やがて患者が評判を聞きつけ殺到し、驚いた幕府は開所半年後に閉鎖を命じたとのことです。
青木山延命院「本覚寺」へ


開港当時、アメリカ公使ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、更には湾内を見通すことが出来る本覚寺をアメリカ領事館に決めたそうです。
生麦事件の際にはヘボン博士が負傷者の治療に当たりました。

神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場町です。現在の台町辺りは、かつて神奈川湊を見おろす景勝地でした。
神奈川宿がにぎわった当時から続く唯一の料亭が、文久三年(1863)創業の田中屋です。

田中屋の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれた由緒正しき店名です。高杉晋作やハリスなども訪れたそうです。
また、坂本龍馬の妻「おりょう」が田中屋で働き始めたのは明治7年、勝海舟の紹介で働いていたと伝えられています。
英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていました。
神奈川台関門跡
安政5年(1858)9月に始まった「安政の大獄」により開国に反対する浪士の行動が日毎に不穏となっていき、ついに横浜でロシア人士官と水兵、フランス領事館の清国人が殺傷される事件が起こりました。
イギリス総領事オールコックから浪士取り締まりのため関門設置の要求があり、これを受けて幕府は神奈川台などに関門7ヶ所、見張り番所 10ヶ所を設置しました。
関門には木戸門・面番所があり、同心、足軽を配置して警戒に当たらせていたといいます。

神奈川宿の東西にも関門が造られ、そのうちの西側の関門が神奈川台の関門だそうです。
横浜道入口

開国に踏み切った幕府は神奈川(横浜)の開港を定めたが、東海道筋から横浜へ至る道が無く、東街道筋の芝生(しぼう)村(現:浅間町)から横浜(関内)に至る『よこはま道』と呼ばれる新たな道路を開いた。
11時 10分、横浜市西地区センターに到着。 15分、の
休憩。

二代目横浜駅遺構 明治5年(1872)、新橋~横浜間で日本初の
鉄道が開業しますが、横浜の駅は
海運との接続を考慮し、港に近い現在の桜木町駅の位置に設置されました。(初代横浜駅) その後、国府津駅まで路線が延伸され線路配置はスイッチバック構造になり、横浜駅には貨物が滞留し短絡線を設置するも解決に至らず、
横浜駅を移転させました。(二代目横浜駅) その際に初代横浜駅は
「桜木町」駅
と改称されました。

二代目横浜駅は東京駅の様な煉瓦造りの駅舎で、大正4年(1915)に建設されました。が、8年後の大正 12年(1923)の関東大震災により焼失してしまいました。
短命だったため
『幻の横浜駅』
と呼ばれました。

東海道線の運行が今の様になり、現在の「横浜駅」(三代目:開業 1928年)に移転しました。
井伊掃部頭(いいかもんのかみ)ゆかりの地 江戸時代まで、この辺りは「不動山」と呼ばれる
海に面した
高台であったようです。 明治初期には、日本初の鉄道
開通に携わった外国人技師の官舎が建てられ鉄道事業の拠点となり、鉄道開業後も、この山の地下水が鉄道用水に使われたことなどから「鉄道山」と呼ばれるようになりました。

明治 17年(1884)、旧彦根藩士(滋賀県)らが一帯を買い取り庭園化し、井伊家に寄贈したことから、井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)にちなみ「掃部山」となりました。
明治 42年(1909)、横浜開港 50周年を記念し井伊直弼の銅像が建立され、同時に井伊直弼の子息:直安によって水泉も設置されました。

大正3年(1914)には井伊家より、この地は横浜市に寄付され、植樹、設備を整え、掃部山(かもんやま)公園として開園しました。 
神奈川奉行所跡 横浜開港に備え、開港場の建設と運営管理のために設置されたのが神奈川奉行所です。

この地にあって内政事務を執り行う「戸部役所」、開港場の中心部に置かれ外交・関税事務を執り行う「運上所」、神奈川湊の渡船場付近で人馬の管理事務を行う「会所」の3ヶ所に分かれていました。 慶応4年/明治元年3月 19日、神奈川奉行所は廃止され、横浜裁判所が置かれました。 運上所は後に横浜税関になりました。
野毛の切通し 元は細々とした江戸時代の保土ヶ谷道が通っていましたが、横浜開港が決まると東海道と開港場を結ぶ横浜道として丘陵が大々的に開削され、野毛の切通しが設けられました。
更に関東大震災からの復興時など順次、切り下げ拡幅されました。 昭和 40年代までは市電が走っていました。

開港場である関内を挟んで、東の山の手は外国人居留地に、西の野毛山は日本人豪商の居留地となりました。 野毛山の動物園一帯には、かつて当時の横浜を代表する実業家である茂木惣兵衛の和風建築が連なる大邸宅が、他方 動物園に隣接する散策地区には、原 善三郎(原三渓の様祖父)の豪奢な洋館の邸宅が、切通し沿いには生糸取引や金融で財を成した平沼専蔵の別邸がありました。 一帯 の施設はみな関東大震災により崩壊しましたが、唯一の 遺構が旧平沼専蔵邸の石積み(亀甲積み)擁壁でした。


震災後、防災の観点から公園緑地が見直され、跡地は野毛山公園などになりました。

吉田橋関門跡 横浜道が完成すると同時に、開港場の入口と吉田新田の入口の間に橋が架けられ「吉田橋」と呼ばれました。

吉田橋が設置されると、ここが交通の中心地となり治安維持のため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。
関内、関外という呼び名は この時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、関内の内側一帯は現在でも『関内』と呼ばれています。