2月26日は85年前の昭和11年に起きた帝国陸軍の青年将校によるクーデター未遂事件の日でした。
毎年この日が来ると、亡き父親が話していた事を思い出します。
この事件は近代日本史のある意味転換点だったと思います。
この事件以降の10年間は、ある意味日本の暗黒時代です。
当時、父親一家は浦和町(現さいたま市浦和区)の駅前に逓信省に勤務する父親と家族で住んでいました。
私が未だサラリーマン現役の頃に父親一家が昭和初期に住んでいた家は高砂小学校の前にありました。
仕事で埼玉県庁に出かけるときに、何回かその家の前を通りましたが、当時にしても大きな家でした。
祖父は逓信省に勤めていた所謂東大出の官僚でしたから、ある程度はそれなりの生活をしていたと想像できますが、昭和14年に亡くなっていましたから、その後の一家離散と暗黒の10年は父親にとってはかなり苦労したと想像に難くありません。
父親は当時高砂小学校の1年生でしたが、2月26日は埼玉県内は大雪で、膝まで潜ってしまう状況だったそうです。
祖父には本省から連絡が来て、戒厳令の様な状況でしたが、父は意味も判らず当時の国鉄の浦和駅に行ったところ、軍人さんが銃を構えていて、小学生にも大変なことだと認知出来たようです。
85年の時間が流れてしまうと、「帝国陸軍青年将校によるクーデター未遂事件」も近代日本史の一つとして語り継がれるだけになるのでしょうか。
そういえば、ゾルゲ事件の顛末を何年か以前に調べていたら、ゾルゲと活動していた技師のマックス・クラウゼンも戦後の一時は浦和町の近所に居住していたようでした。
毎年この日が来ると、亡き父親が話していた事を思い出します。
この事件は近代日本史のある意味転換点だったと思います。
この事件以降の10年間は、ある意味日本の暗黒時代です。
当時、父親一家は浦和町(現さいたま市浦和区)の駅前に逓信省に勤務する父親と家族で住んでいました。
私が未だサラリーマン現役の頃に父親一家が昭和初期に住んでいた家は高砂小学校の前にありました。
仕事で埼玉県庁に出かけるときに、何回かその家の前を通りましたが、当時にしても大きな家でした。
祖父は逓信省に勤めていた所謂東大出の官僚でしたから、ある程度はそれなりの生活をしていたと想像できますが、昭和14年に亡くなっていましたから、その後の一家離散と暗黒の10年は父親にとってはかなり苦労したと想像に難くありません。
父親は当時高砂小学校の1年生でしたが、2月26日は埼玉県内は大雪で、膝まで潜ってしまう状況だったそうです。
祖父には本省から連絡が来て、戒厳令の様な状況でしたが、父は意味も判らず当時の国鉄の浦和駅に行ったところ、軍人さんが銃を構えていて、小学生にも大変なことだと認知出来たようです。
85年の時間が流れてしまうと、「帝国陸軍青年将校によるクーデター未遂事件」も近代日本史の一つとして語り継がれるだけになるのでしょうか。
そういえば、ゾルゲ事件の顛末を何年か以前に調べていたら、ゾルゲと活動していた技師のマックス・クラウゼンも戦後の一時は浦和町の近所に居住していたようでした。