2008-06-05 13:12:18
「新しい酒と古い皮袋」 = キリストのたとえ話 =
私は新約聖書の中のたとえ話が好きです。私の本 『バンカー、そして神父』 〔ウオールストリートからバチカンへ〕のサブタイトルは、『放蕩息子の帰還』であって、いわば本全体が同じ題のイエスのたとえ話の解説のようなものです。
「一粒の麦」のたとえ話 (ヨハネ12章24-26節) はブログ (5月29日) にちょっと引用しました。
今日は、 「ぶどう酒と皮袋」 のたとえ話について黙想したいと思います。一番短い (少なくとも日本語訳では) のから入りましょう。
「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を破り、ぶどう酒も皮袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい皮袋にいれるものだ。」
(マルコ2章22節)
たった一節で完結。なんと短い話でしょう。このたとえ話は、ファリサイ人とイエスの厳しい対立の図式の中で、イエスが人々に話されたものです。 「新しいぶどう酒」 は 「イエス自身」 を指すものでしょう。 「古い皮袋」 は、 「ファリサイ主義」 を指すと思われます。
イエスとファリサイ人との間には、一致も、平和も絶対にありえないのです。ファリサイ派が回心してイエスの教えを受け入れるか、さもなくば、ファリサイ派がイエスを殺すか、二つに一つ。その中間には一ミリの妥協の余地もありません。イエスは前者の解決に人々を招いた。しかし、ファリサイ派は後者の解決を選んだ。歴史において、同じ状況は繰り返し生まれてきました。
この図式の中に、もし楽天的な善意の 「正義の味方」 が、自信満々平和と一致をスローガンに乗り込んできたとしても、彼は虚の平和、偽りの一致すらも達成することなく、ただ事態を悪化させるだけで早晩自滅するしかないのではないかと思います。
何故そう思うか?聖書には、次のような箇所もあります。
わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなた方は、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
(ルカ12章49-52節)
この分裂の話は、新しいぶどう酒と古い皮袋のテーマと深く結ばれているように思います。この火はもちろん神の霊、つまり聖霊のことでしょう。イエスは聖霊による分裂をこの世にもたらすために来たのでしょうか?彼は、本当は平和をもたらすために来たのではなかったのでしょうか?
この疑問に答えるために、同じ 「ぶどう酒と皮袋」 のたとえ話を、ニュアンスの違う別のバージョンから見ていきたいと思います。 (次回をお楽しみに)