2008-06-11 07:13:18
懐かしの三本松教会のマリアさま
話はちょっと横道に逸れますが、高松の神学校は必ず復活します。それも、キリストのように一旦死んで三日目に、などというものではではないと思います。
マリア様は、眠りに就かれたが、その瞬間、彼女の魂も肉体も、直ちに天に引き上げられた、と言うのが、2000年のあいだ変わることのないキリスト教の信仰でした。高松の神学校の名前は奇しくも「レデンプトーリス・マーテル」です。つまり、「贖い主のみ母」マリア様に因んだものです。だから、この神学校が高松の現司教の手を離れるときは、直ちにバチカンの腕の中に抱き入れられる時に違いないと信じています。
いずれにしても、6月30日付けをもって閉鎖という司教の決定は撤回され、緊迫した事態は取り敢えず白紙にもどったのは確かです。朝令暮改とはまさにこのことです。後のことは、ベネディクト16世にお任せすればいいことです。お声がかかれば、私はその移行作業のために微力を尽くして働きたいと思っています。
さて、話を元に戻しましょう。前回の「新しい酒と古い皮袋」のたとえ話は、マルコによる福音をベースに黙想しました。そして、その理解を助けるためにルカの福音書の別の話を挿入しました。それは:
わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなた方は、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。
(ルカ12章49-51節)
でした。
この分裂の話は、新しいぶどう酒と古い皮袋のテーマと深く結ばれているように思います。
前回の「イエスのたとえ話」のブログは、「イエスは聖霊による分裂をこの世にもたらすために来たのでしょうか?彼は、本当は平和をもたらすために来たのではなかったのでしょうか?」という設問で終わっています。
答えを先取りすれば、イエスは「分裂」と「平和」の両方をもたらすために来たのだと思います。
この答えが正解かどうかを確かめるために、もう暫らく同じ「ぶどう酒と皮袋」のたとえ話を、ニュアンスの違う別のバージョンから見ていきたいと思います。
新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、皮袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、皮袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。(マタイ9章17節)
前に見たマルコのたとえになかったのは、最後の「そうすれば、両方とも長持ちする」です。なんだ、ここにイエスはちゃんと両方とも長もちする方法を提示しているではありませんか。考えてみれば、極めて当たり前のこと、つまり「平和共存」の道だったのです。 ルカの聖霊の火の剣による分裂は、新しい酒と古い酒の境い目を鋭く切り裂いて分裂させ、それぞれを新しい皮袋と古い皮袋に分けた上、平和に共存させようと言うものではないでしょうか。ちょうど、現代世界において、ユダヤ教とキリスト教が、同じアブラハム、イザーク、ヤコブの神を信じながら、それぞれの皮袋におさまって、少なくとも表面上は平和に共存しているように。
例の善意の「正義の味方」がスローガンの「平和と一致」を本気で達成しようと思ったのなら、彼も、平和共存を模索すべきはずでした。
アプリオーリに、皮袋は一つだけしか認められない。その唯一の皮袋は「古い皮袋」でなければならない、という硬直した排他的な思考からは、真の平和は生まれません。卑近な例としては、パレスチナ問題がまさにそれです。
問題は、古い皮袋が、もし新しい酒が入ってきたら、自分は裂け、今までの古い酒も新しい酒とともに流れて滅んでしまうのを本能的に察知して怯えているということです。そのことを予感した古い酒は、自分と古い皮袋を守るためには、新しい酒を拒み、殺してでも、何がなんでもそれを地に捨ててしまおうと固く決意してるところに問題があります。
繰り返しになりますが、キリストがこのたとえ話を語ったときは、古い酒と古い皮袋はファリサイ派と律法主義でした。新しい酒と新しい皮袋は、もちろんナザレのイエスとその教えです。それを今の時代に置き換えるとどうなるでしょうか。
前に、このブログで「コンスタンチン体制とインカルチュレーション(宗教の文化への受肉)」のテーマを取り上げました(これもまだ途中までで未完結のままです、ごめんなさい必ずその問題にもどります)が、そこで言うコンスタンチン体制こそが、今日の教会にとっては、まさに古い酒と古い皮袋だということが出来ます。
それに対して、1965年に幕を閉じた第二バチカン公会議とその精神を生きる新しいカリスマが、新しい酒と新しい皮袋であると言えましょう。
キリストを新しい酒とし、ファリサイ人たちを古い酒とする厳しい対立の構図は、平行移動的にコンスタンチン体制にしがみつく人たちと、ポスト公会議の精神に生きようとする人たちの対立にそのまま当てはまります。ただし、ここで誤解のないようにあえて申し添えますが、ここで言うファリサイ人達とは、イエスの時代にも、現代においても、同時代人からは、正しい、立派なひと、社会から尊敬されている模範的な上流階級のひとたちのことを指し、彼らは正当な手続きを経て指導者の地位に着き、大勢の人たちに一目置かれ、かしずかれているのです。彼らにとって、それは当然のことであり、イエスのような物の言い方をするものは、その声を聴くに値しない非礼なやから以外のなに者でもありません。
ファリサイ派=コンスタンチン体制=旧い教会指導者=伝統的神学校
対
キリスト=第二バチカン公会議=新しい共同体=新しい神学校
これが、わたしたちが今直面している対立の構図です。どちらが古い酒と古い皮袋で、どちらが新しい酒と新しい皮袋かは、今までの考察から明らかでしょう。新しい酒が古い皮袋に入ったら、古い皮袋が裂けてしまうのは、新しい酒の所為でしょうか。そうではありません。古い皮袋が年月を経る中で劣化し、弾力性を失い、脆くなっているからに他なりません。古い皮袋が新しい酒を忌避するのは、生き残りをかけた自己防衛本能で、それ自体、別に咎められるべきことでもありません。
いけないのは、古い酒が古い皮袋だけが唯一の皮袋であるべきで、新しい酒が新しい皮袋に入って栄えるのはプライドにかけても絶対に許せないとするところにあります。プライドという輸入日本語には、語源的に傲慢と言う意味があります。次の聖書のことばは、そのような人に向けられたものではないでしょうか。
そうだ、言っておくが、今の時代のものたちはその責任を問われる。あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。(ルカ11章51b-52節)
今日の「新しい酒」のたとえ話のマテオバージョンは、この断罪を避ける為の救済の助言と受け止められます。新しい酒は新しい皮袋に、古い酒は古い皮袋に、そしてどちらも相手の存在を認めて平和に共存するように、と。
ボジョレー・ヌーボーのように、味のまろやかさはまだ今一つでも、生き生きと力強い活力に満ちた「新しい酒」と、古いラベルとヴィンテージだけが自慢の、酢に変わりかけた「古い酒」、どちらもそれぞれに「新しい皮袋」と「古い皮袋」に上手に棲み分けてこそ、イエスのみことば通り「両方とも長もちする」ことが出来るのではないでしょうか。
わたしは、日本の教会の指導者の中に、使徒言行録5章に出てくるガマリエルのような人は一人もいないのか、と問いたい。
これを聞いた者達は激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルと言う人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから議員たちにこういった。「イスラエルの人たち。あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉いもののように言って立ち上がり、その数四百人ぐらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、したがっていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、付き従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。
(使徒言行録5章33-42節)
今の日本の教会の中には、ガマリエルのような気骨のある指導者は一人もいないのか。かれは、ファリサイ派に属するあの時代の「古い酒」の一員ではなかったか。
この「酒と皮袋」シリーズには(その-3)を予定しています。明快に、ばっちりと決めたいと思います。請う、ご期待!
(写真は、わたしが3年間の教区外追放生活を強いられ、孤立無援の状態にに追いやられるまで、主任司祭をしていた三本松教会の庭の花とルルドの聖母像)