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:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「新しい酒と古い皮袋」 =キリストのたとえ話= (その-5)

2008-06-24 15:28:37 | ★ 聖書のたとえ話

2008-06-24 15:28:37




  =今日の「新しい酒」は、明日の「古い酒」=

 「新しい酒と古い皮袋」を論じるとき、決定的に大事なのは、それが、時代の節目、節目で、常に同じパターンが繰り返し当てはまるということである。時代が変わっても、古典の演目は同じ。俳優は替わっても、役回り(配役)は同じなのである。
 聖霊降臨直後の使徒たち(新しい酒)と、ファリサイ人・律法学士たち(古い皮袋)との間の構図は教訓的だ。
 使徒言行録の冒頭の数章を読めば明らかなように、使徒たちは迫害を受ける。
 「大祭司とその一味は、ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえ尋問した。」
 ペトロは自分と使徒たちの名において答えて言った。「人間に従うよりも神に従うべきです」。「神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、復活させました。私達はそのことの証人です。神がご自分に従う者にお与えになった聖霊もまた、それらの証人です」。
 ガマリエルは言った、「諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、ほおって置きなさい。もし人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことは出来ないでしょう。まかりまちがうと、諸君は神を敵にまわす者となるかもしれません」。
 そこで議員たちは、使徒たちをむち打った後、イエスの名によって語ることをきびしく禁じて釈放した。使徒たちは、み名のために辱められるに値するもとされたことをよろこびながら、議会から出て行って、毎日神殿や家々において教え、イエスがメシアであることを宣べ伝えてやまなかった。ひどい不従順ですね!(笑)
 この事実を、相対的に現代に移して考えると、公会議後のカリスマ(新しい酒)とコンスタンチン体制派(古い皮袋)との間にそのまま当てはまるのである。いま、日本の教会で起こっている騒ぎは、全く同じことである。
 と言うことは、である。
 300年後、いや、今の時代の変化の早いテンポを考慮に入れれば、100年後の教会において、いま新しい酒であったカリスマが、既に古い皮袋のように動脈硬化状態に陥り、その時代に聖霊の息吹によって新たに花開くであろう新しいカリスマを前にして、必ずや「古い皮袋」として立ちはだかることになるだろう。ということにもなる。
 それは、歴史の必然、いわば人間の限界に由来する宿命のようなものである。私は今、もちろんそのことを見据えて物を言っている。
 だから、去る13日の記者会見の席でカルメン・エルナンデスは、「大切なのは『新求道共同体』ではなく『教会』である」 ことを強調し、このキリスト教的入門の道の参加者に対し、謙遜の業に励むよう招いたのである。
 彼女も、私と同様、新求道共同体が300年先、いやすでに100年先には、保守本流、自己防衛的な体制派に堕して、古い酒、古い皮袋として、新しいカリスマの前に頑迷に立ちはだかる誘惑、危険性を予知しているに違いない。
 キリストが、一方では、当時の古い酒、古い皮袋のファリサイ人・律法学者らから命を付け狙われ(そして、殺され)、他方では、したり顔のユダやペトロから、「先生、過激はいけません!」と諌められたように、私も、一方では自分の書いたブログに対し、「お前なんか、死んでしまえ!」、「高松に帰ってきたのが運の尽きだ、今に見ていろ、ただでは済まさんぞ!」という脅迫めいたコメント攻勢に合いながら(ごめんなさい、事前承認で全部削除しています)、他方では、新求道共同体の内部からは「書くな!」の牽制を受けている。しかし、「イエスは答えて、『あなたがたに言っておく。もし彼らが黙れば、石が叫ぶであろう』(ルカ19章40節)」とは、こういうときのための言葉ではないだろうか。

「その名はヨハネ」

 口のきけなくなっていたザカリアは、書き板を持って来させ、「その名はヨハネ」と書いた(ルカ1章63節)。
 私は、中学二年生のときに洗礼を受けた。今思うと、何も分かってはいなかったが、そのときの自分は、生意気にも信仰を確信して自由に望んで受けたつもりだった。そして、聖人伝を渉猟して、洗礼者聖ヨハネを自分の洗礼名として選び取った。
 大悪人ヘロデが兄弟の妻ヘロデアを自分の妻とした。そのことで、ヨハネに叱られた。叱られたヘロデはヨハネを恨んだ。ヘロデの誕生日に、妻の連れ娘のサロメが踊った。その褒美として、ヘロデはヨハネの首をはね、盆に載せてサロメに与えた(マタイ14章参照)。
 小娘の裸踊りの代価として支払われたヨハネの命。群集から、ひょっとして待望のメシアでは、との評判を博した大預言者の、いかにもバカバカしい死に様に惚れて、私はそれを自分の洗礼名を選んだ。
 イエスはヨハネについて、「あなたがたに言っておく。彼は預言者にまさる者である。」「女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし天の国のもっとも小さい者でも、ヨハネより偉大である。」「聞く耳のある者は聞きなさい」と言った(マタイ11章参照)。
 私は、聞く耳がなかったから、今までその意味が分からなかった。過去半世紀、どの神父も、どの司教も、誰もこの箇所を「なるほどそういう意味だったか!」と、胸のすくような説明をしてくれる者はいなかった。わたしは分からなかったが、皆さんはお分かりなんでしょうね? 
 それが、今、司祭になって、3年間追放生活を体験して、その孤独と苦しみの中から、ようやく何か分かったような気がして来た。
 要するに、イエスから見れば、ヨハネは所詮「古い酒」だったのだ。しかし、古い酒は古い酒なりに、最も偉大な古い酒だったのだ。目からうろこ、とはこのことである。
 なぜ「最も偉大な古い酒」なのか?
 この謎を解く鍵は、ヨハネが言った、「わたしよりも力のあるかたが、後からおいでになる。わたしは身をかがめてそのかたのはきもののひもを解く値うちさえない。」(マルコ1章7節)と言う言葉にある。
 要するに、古い酒の限界をわきまえ、新しい酒に道を譲って、自らはひっそりと消えていく。それも、小娘への褒美として命を奪われ、バカバカしいほどあっけなく、である。わたしは、ヨハネの美学に惚れこんだ。
 わたしも、多分古い酒の一部なのだと思う。現に、決して新しい酒になり切れてはいない。わたしの回心など、その程度のものだ。モーゼがヨルダン川を渡れなかったように、ヨハネが、自分の弟子はイエスに譲っても、自分自身はイエスの弟子にならなかったように、・・・・・
 ここで、「しかし天の国のもっとも小さい者でも、ヨハネより偉大である」の意味が見えてくる。
 回心して、新しい酒になれた人は、その新しい群れの中でどんなに小さくても、極上の古い酒よりは偉大なのである。徴税人も、マテオも、ザアカイも、娼婦たちも、サウロ(パウロ)も、・・・・・・・みんな。
 わたしは、不思議なご縁で、イエズス会の志願者として上智に入った最初の1年間を、同じイエズス会の志願者で一年先輩の森一弘さんと寮の同室で過ごした。そして、彼から多くを教えられた。その意味で、わたしも本質的には彼と同じ世代の同じ体質の人間なのではないかと思っている。(もちろん、優秀な彼とは月とすっぽんだが・・・・・・)
 モーゼのように、洗礼者ヨハネのように、人々に新しいカリスマは何かをはっきりと指し示し、自らは歴史の舞台から静かに消えていければ、本望である。わたしと同世代、わたしの先輩に当たる教会指導者にも、洗礼者ヨハネと同じ優美な態度を期待したい。
 古い酒、古い皮袋の生き方として、これ以上のものはない。



   Thank you for coming!  いつも読みにきて下さって有難う!


P.S. ブログをアップして、やれやれ、この「酒」シリーズをグラスワインで締めくくって、まずは一休み。
 気分を変えて一人でミサをしようと、野尻湖の山荘で小さなテーブルをしつらえて、いざスタート。集会祈願まで来て、?????
 そうか、今日は僕の霊名の祝い日ではないか。なんという奇遇!と感激すべきか?いや、司祭らしい一切の教会活動を奪い取られて3年あまり。山の中に一人引き篭もっていると、自分が如何に典礼の暦に疎くなってしまうか、とあらためて驚き嘆くべきか?
 マリア様と、御子キリストを別にすれば、教会が誕生と殉教の二回を祝うのは、この聖人以外にはいない。古い酒は、ヨハネのように、新しい酒に場所を譲って、「あなたは栄え、わたしは衰える」と言ってひっそりと消えていくべきなのだろう。

コメント
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