木曜日の夜に同僚が亡くなりました。この3月で退官されるはずでしたがその日を待たずに旅立たれました。同僚が現職で亡くなられるというのは私がこの仕事について2人目です…。なんとも表現できないですね。
人の「死」に触れることで「生きる」ということについて考えさせられます。普通に生活をしている時には「当たり前」になっている事でも「死」に直面すると深く考えます。
今回亡くなられた方は数年前の健康診断でガンが発見されその治療のために入院されこの春に復職されていましたがまた体調を崩されて休職、そのまま他界されました。語弊を恐れずに書きますがガンが発見された時から生活の中に少なからず「死」を感じる部分があったと思います。必ず誰にでも来る「死」という現実を本人も家族も少しずつ受け入れていく準備期間があったのではないかと思っています。「死」を受け入れるというのは簡単な事ではありません。それでも受け入れざるを得ない状況になる事で人は「死」と向き合える。
ちょうど4年くらい前ですが、前回担任をした時に卒業式の前日に卒業生のお通夜に参列しました。野球部長の時に県大会で優勝した時のメンバーでした。卒業後、自分で働いてお金を貯めて専門学校に行き念願だった消防士の試験に合格しました。消防学校に入学するまでの間に工事現場でアルバイトをしていて、辞めて引っ越しをするという前日に転落事故でこの世を去りました。
この辛い現実を受け入れるのにどれくらいの時間が必要になるでしょうか。若くこれから先の未来が開けているというだけでなく、誰も考えていなかった突然の「死」を受け入れるというのは容易な事ではありません。多くの人が泣き崩れていたのを今でも覚えています。
「死」は誰にでも訪れます。ここは避けて通れない現実です。しかし、普通の生活をしている限り人は強く「死」を意識することはありません。どちらかというと考えないようにしているのだと思います。できれば誰もが避けたい現実ですから…。ここをどうとらえるか?生きている時にしか出来ないことだと思います。
「死」は誰にでも訪れる。「死」を認識するから「生」を大切にできると思います。ありきたりの言葉ですが…。「死」を恐れることに意味はないと思います。誰もが必ず「死」ぬのですから。「死」から逃れようとする事では「生」の時間を大切にできなくなる気がしています。生きている間に何をするかが重要になってきます。目の前にある「生」を大切にしなければ結局何も産み出さないのではないかと。
今の生徒を見ていると場当たり的な感じで、楽しければいいという感じが強くあります。周りは関係ない、自分が楽しければいい。他者の迷惑を気にせず好き勝手な行動をとる。頑張ることがカッコ悪い事で、冷やかしながら自分の好きなことだけをやるのがカッコいいと勘違いする。悲しいですがなかなか伝わらない。
クラスの生徒や部活の選手には「一生懸命になる」ことの大切さを常に話しています。この部分の大切さは「一生懸命になる」ことができる人間にしか分からないのかもしれません。だからこそ我々はその機会を与えていかなければいけない。それなりに頑張ることでは何も得られないからです。常に全力でやることで「知識」ではなく生きていくための「知恵」が身に付くと思っています。生きているからできることだと。
なんだかまとまらない文章になってしまいました。「死」に触れることで様々な事が見えてきます。もう少し頭を整理してきちんとした文章が書けたら書きたいと思います。すみません。
人の「死」に触れることで「生きる」ということについて考えさせられます。普通に生活をしている時には「当たり前」になっている事でも「死」に直面すると深く考えます。
今回亡くなられた方は数年前の健康診断でガンが発見されその治療のために入院されこの春に復職されていましたがまた体調を崩されて休職、そのまま他界されました。語弊を恐れずに書きますがガンが発見された時から生活の中に少なからず「死」を感じる部分があったと思います。必ず誰にでも来る「死」という現実を本人も家族も少しずつ受け入れていく準備期間があったのではないかと思っています。「死」を受け入れるというのは簡単な事ではありません。それでも受け入れざるを得ない状況になる事で人は「死」と向き合える。
ちょうど4年くらい前ですが、前回担任をした時に卒業式の前日に卒業生のお通夜に参列しました。野球部長の時に県大会で優勝した時のメンバーでした。卒業後、自分で働いてお金を貯めて専門学校に行き念願だった消防士の試験に合格しました。消防学校に入学するまでの間に工事現場でアルバイトをしていて、辞めて引っ越しをするという前日に転落事故でこの世を去りました。
この辛い現実を受け入れるのにどれくらいの時間が必要になるでしょうか。若くこれから先の未来が開けているというだけでなく、誰も考えていなかった突然の「死」を受け入れるというのは容易な事ではありません。多くの人が泣き崩れていたのを今でも覚えています。
「死」は誰にでも訪れます。ここは避けて通れない現実です。しかし、普通の生活をしている限り人は強く「死」を意識することはありません。どちらかというと考えないようにしているのだと思います。できれば誰もが避けたい現実ですから…。ここをどうとらえるか?生きている時にしか出来ないことだと思います。
「死」は誰にでも訪れる。「死」を認識するから「生」を大切にできると思います。ありきたりの言葉ですが…。「死」を恐れることに意味はないと思います。誰もが必ず「死」ぬのですから。「死」から逃れようとする事では「生」の時間を大切にできなくなる気がしています。生きている間に何をするかが重要になってきます。目の前にある「生」を大切にしなければ結局何も産み出さないのではないかと。
今の生徒を見ていると場当たり的な感じで、楽しければいいという感じが強くあります。周りは関係ない、自分が楽しければいい。他者の迷惑を気にせず好き勝手な行動をとる。頑張ることがカッコ悪い事で、冷やかしながら自分の好きなことだけをやるのがカッコいいと勘違いする。悲しいですがなかなか伝わらない。
クラスの生徒や部活の選手には「一生懸命になる」ことの大切さを常に話しています。この部分の大切さは「一生懸命になる」ことができる人間にしか分からないのかもしれません。だからこそ我々はその機会を与えていかなければいけない。それなりに頑張ることでは何も得られないからです。常に全力でやることで「知識」ではなく生きていくための「知恵」が身に付くと思っています。生きているからできることだと。
なんだかまとまらない文章になってしまいました。「死」に触れることで様々な事が見えてきます。もう少し頭を整理してきちんとした文章が書けたら書きたいと思います。すみません。