指導を続けていく中で感じること・・・。これを少しずつ記しておきたいと思います。興味がない方は読み飛ばしておいてください。というか、そこまで私が気を使う必要があるのかどうかというのもblogを更新するうえで非常に疑問を感じる部分ですが。まー書いておきます。
人は多様な価値観を持って生きています。ある人にとっては「正しい」と思う事でもある人にとっては「正しくない」と判断される。当然起こり得ることです。世の中で争い事が起きる一番の原因は「価値観の違い」や「考えの違い」だと思います。ある人にとっては「当たり前」でもある人にとっては「当たり前ではない」ということがストレスの原因となってトラブルとなる。ここは現状では避けて通れないことだと思います。全員が「考え方が同じ」というのは恐ろしいですからね。
部活動の指導や学校生活の指導は「ある一定の方向性」で進まないといけないと思っています。各自がそれぞれの基準で物事を進めていったら話はかみ合いません。集団ですからなかなか「一定の方向性」に進むというのは難しい。高校生の「基準」に合わせていたら大変な事になります。人によっては「別に良いじゃないか」と思うこともある。しかし、ある人は許してある人は許さないというのを「同一集団」で行っていたらこれはかなり混乱を招きます。ある一定の水準で集団をまとめていくことが必要になります。
中学生や高校生は「子供」です。これまで家庭である程度の指導は受けていると思いますが、「自分が中心」で進んできていますから「何がいけないの」という観点から抜け出せない部分があります。言われている内容の理解というのが非常に難しい。「自分は悪くない」という視点からスタートしていますからどれだけ話しても先には進みません。結局、根負けして話が終わる。それの繰り返しです。しかし、それで本当に良いのでしょうか。
私自身非常に未熟な部分があると思っています。それでも多く人を動かすという経験を積んでいますからそれなりに視野は広がっていると思っています。自分のことになるとまだまだできていないなということもあります。「他者にだけ求めて自分はできていないではないか」と言われるとその通りかもしれません。「聖人君主」のようにすべての面で清く正しく美しく「完璧」であることは不可能です。「出来ていないことを教えるな」と言われることもあるでしょう。「指導をする」というのは「完璧にできたこと」を指導する訳ではないと思っています。
競技を例に挙げれば簡単です。世界記録を持つ選手を指導する。「自分にできないことを指導するな」と言われたらこの時点で誰も指導はできません。世界で一番の記録を持っているのだからそれ以上の記録を持って指導をすることはできないのです。それでも物事に対しての指導をする。指導者と同じように選手自身も完璧ではないからです。50歳になったら100mを10秒台で走るのはかなり厳しい。そうなると50歳になった指導者は指導することはできないのか?これは違うと思います。
様々な場面で指導することがあります。多分他の人よりも多いのではないかと自負しています。大抵の場合「自分はやっているのに」という感覚を相手は感じています。しかし、本当はできていない。それを指摘されるのは非常に嫌なものです。自己肯定感が強い人間に関しては特にその部分が大きくなると思います。「注意を受ける=否定される」と感じる部分があるのでしょう。この状態では話は先に進めません。「違うんだ」と伝えていくためには尋常ではないエネルギーを使います。
相手に好かれようと思えば言わないのが一番。生徒に好かれようと思ってその生徒に迎合するというのは簡単です。私にはできませんが。見て見ない振り、気が付かない振りをすればそれで終了。お互いに「適度な距離感」を取っておけば人から嫌われることはないのですから。それが本当に「教育的な行為」なのでしょうか。保護者によってはその部分を全く求めていないという人もいるのではないでしょうか。「学校に行けば良い」という感覚の人も少なくない。その子供たちの将来のことまで考えて指導をするというのは非常に困難なことなのです。
一方的に価値観を押し付ける。それは良いことではない。私自身も分かっています。しかし、ある一定の価値観の中で指導をしていかなければ話は一向に進みません。「価値観の押し付け」ではなく「価値観の共有」でなければいけない。繰り返しになりますが「価値観の違い」というのはこれまで育ってきた環境や接してきた人間の影響が強い。一瞬で変わるようなことはないと思います。それ故、地道な指導が必要となる。時間も労力もかかります。しかし、誰かがやらねばそれは一生変わることはないと思っています。これは私の「私見」なので社会一般的に見ると全く異なると言われるのかもしれませんが。
「自分はこんなにやっているのに何故注意を受けるのか」と言う。当然ですね。自分の「価値観」の中で生きているのですから。しかし、少し違う視点から見たときに「ちょっと違うんじゃない?」と指摘されることは必要だと思います。注意を受けたら「自分は正しい」と正当化するだけでは成長はないと思います。私自身不十分な点があれば自分を見直さなければいけない。「指導する側」が毎回正しいというわけではない。相手側の言い分もあるでしょう。その部分にも耳を傾けていかなければいけなくなる時代は間違いなく来ています。生徒に迎合する気はありませんが。
長くなりました。その上意味が分かりにくい文章ですね。読み飛ばしてください。
人は多様な価値観を持って生きています。ある人にとっては「正しい」と思う事でもある人にとっては「正しくない」と判断される。当然起こり得ることです。世の中で争い事が起きる一番の原因は「価値観の違い」や「考えの違い」だと思います。ある人にとっては「当たり前」でもある人にとっては「当たり前ではない」ということがストレスの原因となってトラブルとなる。ここは現状では避けて通れないことだと思います。全員が「考え方が同じ」というのは恐ろしいですからね。
部活動の指導や学校生活の指導は「ある一定の方向性」で進まないといけないと思っています。各自がそれぞれの基準で物事を進めていったら話はかみ合いません。集団ですからなかなか「一定の方向性」に進むというのは難しい。高校生の「基準」に合わせていたら大変な事になります。人によっては「別に良いじゃないか」と思うこともある。しかし、ある人は許してある人は許さないというのを「同一集団」で行っていたらこれはかなり混乱を招きます。ある一定の水準で集団をまとめていくことが必要になります。
中学生や高校生は「子供」です。これまで家庭である程度の指導は受けていると思いますが、「自分が中心」で進んできていますから「何がいけないの」という観点から抜け出せない部分があります。言われている内容の理解というのが非常に難しい。「自分は悪くない」という視点からスタートしていますからどれだけ話しても先には進みません。結局、根負けして話が終わる。それの繰り返しです。しかし、それで本当に良いのでしょうか。
私自身非常に未熟な部分があると思っています。それでも多く人を動かすという経験を積んでいますからそれなりに視野は広がっていると思っています。自分のことになるとまだまだできていないなということもあります。「他者にだけ求めて自分はできていないではないか」と言われるとその通りかもしれません。「聖人君主」のようにすべての面で清く正しく美しく「完璧」であることは不可能です。「出来ていないことを教えるな」と言われることもあるでしょう。「指導をする」というのは「完璧にできたこと」を指導する訳ではないと思っています。
競技を例に挙げれば簡単です。世界記録を持つ選手を指導する。「自分にできないことを指導するな」と言われたらこの時点で誰も指導はできません。世界で一番の記録を持っているのだからそれ以上の記録を持って指導をすることはできないのです。それでも物事に対しての指導をする。指導者と同じように選手自身も完璧ではないからです。50歳になったら100mを10秒台で走るのはかなり厳しい。そうなると50歳になった指導者は指導することはできないのか?これは違うと思います。
様々な場面で指導することがあります。多分他の人よりも多いのではないかと自負しています。大抵の場合「自分はやっているのに」という感覚を相手は感じています。しかし、本当はできていない。それを指摘されるのは非常に嫌なものです。自己肯定感が強い人間に関しては特にその部分が大きくなると思います。「注意を受ける=否定される」と感じる部分があるのでしょう。この状態では話は先に進めません。「違うんだ」と伝えていくためには尋常ではないエネルギーを使います。
相手に好かれようと思えば言わないのが一番。生徒に好かれようと思ってその生徒に迎合するというのは簡単です。私にはできませんが。見て見ない振り、気が付かない振りをすればそれで終了。お互いに「適度な距離感」を取っておけば人から嫌われることはないのですから。それが本当に「教育的な行為」なのでしょうか。保護者によってはその部分を全く求めていないという人もいるのではないでしょうか。「学校に行けば良い」という感覚の人も少なくない。その子供たちの将来のことまで考えて指導をするというのは非常に困難なことなのです。
一方的に価値観を押し付ける。それは良いことではない。私自身も分かっています。しかし、ある一定の価値観の中で指導をしていかなければ話は一向に進みません。「価値観の押し付け」ではなく「価値観の共有」でなければいけない。繰り返しになりますが「価値観の違い」というのはこれまで育ってきた環境や接してきた人間の影響が強い。一瞬で変わるようなことはないと思います。それ故、地道な指導が必要となる。時間も労力もかかります。しかし、誰かがやらねばそれは一生変わることはないと思っています。これは私の「私見」なので社会一般的に見ると全く異なると言われるのかもしれませんが。
「自分はこんなにやっているのに何故注意を受けるのか」と言う。当然ですね。自分の「価値観」の中で生きているのですから。しかし、少し違う視点から見たときに「ちょっと違うんじゃない?」と指摘されることは必要だと思います。注意を受けたら「自分は正しい」と正当化するだけでは成長はないと思います。私自身不十分な点があれば自分を見直さなければいけない。「指導する側」が毎回正しいというわけではない。相手側の言い分もあるでしょう。その部分にも耳を傾けていかなければいけなくなる時代は間違いなく来ています。生徒に迎合する気はありませんが。
長くなりました。その上意味が分かりにくい文章ですね。読み飛ばしてください。