思うことを。
あまり前向きな記事にはなっていません。
考えながら以前書いた記事を思い出しました。
2008年。10年以上前に書いた内容です。自分を指す、
このことに対しての想いが強くあります。人は何かがあれば「周りが悪い」と思います。自分は一生懸命にやりたいのに周りが悪いからできない。自分はきちんとやっているのに周りがやらないから自分まで指摘される。客観的に見れば「いや、あなたもやってないよ」と思われていても「自分は悪くない」という視点から考えるので「絶対的に正しい」という考えから脱することができない。
その話を聞いた人は「そんなにやっているのにきちんとできないのは可哀想」と判断をする。ある一方の話だけを聞いてそれを評価するので偏った意見だけで判断をすることになる。決していいことではない。「悪いのは自分ではない」という部分からスタートしているのでこれから先もその視点からは抜け出せない。
こうやってblogを書く。これは私の一方的な視点からの内容でしかない。本当に正しいかどうかは常に分からない。自分に都合のいいように書けば味方をしてくれる人が増えるかもしれない。基本的に「孤独」だと思っているので味方を増やそうとは思っていない。私の取り組みが「正義」だとは思っていない。自分自身の視点から取り組んでいるのでそこに大きな偏りが存在するのは昔から分かっている。私の考え方を理解してくれる人はきっとこの世には存在しない
だからこそこうやって無駄かもしれないblogを書き続けている。何の意味があるのか全く分からない。それでも書き続けるという事に少なからず価値があると考えている。なんの取り柄もない人間がこうやって日々の生活の中で苦悩しながら細々と生きている。全てが前向きで楽しい生活を送っているという方が見ていて楽しいのかもしれない。blogなどはその方がいいのかなとは思う。
が、現実はそんなに簡単なものではない。大半の人は面白くない生活を送っている。毎日がハッピーで楽しくて仕方ないという人はほぼ存在しない。私は生き難いタイプだと思っている。生活の中で「キツいな」と思う事が多すぎるので。きっと他の人が「どうでもいい」と思う事であっても私は「なんだ?!」と感じてしまう。その問題点をなんとか解決したいと思ってしまう。それにより自分自身も生き難いし、周りも「そこまでやらなくても」と感じる。結局誰も幸せにはならないのかもしれないなと思う。
教育とは何か。そこに関しては考えさせられる。自分自身が周囲から認めてもらうために生徒を利用するつもりは全くない。それぞれの力を伸ばすために必要な事はする。が、最終的には「必要と思ってやるかどうか」でしかない。同じことを言い続けていても本人たちが「自分には関係ない」とか「もう分かっている」と感じられるのであれば何をやっても互いに苦痛にしかならない。
「楽しく適当にやりたい」と言われる。大半の人はそうなのかもしれない。「陸上競技の練習」をやりたいのであって集団行動や周囲に気を使うことをやりたいわけではない。やりたい練習はやるがやりたくない練習を嫌々やりたくない。そう思っている人に私が何を伝える事ができるのか。基本的に「自分は正しい」と思っているので何を言っても伝わらない。それは互いにとって不幸なのかもしれない。
歳を重ねてきたからそう感じるのかもしれない。きちんとした事をしていかなければ今後の世の中はどうなっていくのだろうか。そういう懸念を持っている。しかし、こんなにちっぽけな人間が何を思っても世の中は変わらない。何言ってるの??という感じで終わってしまうのだと思う。
無力で無価値な存在。どれだけ立派なことをblogに書いたとしても現状は何も変わっていない。改善どころか改悪なのではないか。そう感じる部分が数え切れないくらいある。考えずにその場をしのぐ活動を続けていればそれはそれで成り立つのかもしれない。教育として良いか悪いかは別にして現実はそんな環境の中で活動をしている。
きっと悪いのは私だろうなと感じている。自分を指す。環境に適応できない自分の存在が悪いのかなと。人の痛みがわかる人間を育てたいなと感じてやってきた。しかし、結果的にはその真逆に近い状況になる。これはどうなのか。何を変えればより良いモノができるのか。見えてこない。
考えさせられる。