思うことを。
ニュースで「退職代行サービス」について触れられていた。長期休業後はかなり依頼があるということだった。このサービスを利用するということを考える。弁護士を通じてこのサービスを利用する人もいるとのこと。「辞めたいのに辞めさせてくれない」ことに対して利用するのかどうかは考えなければいけませんが、かなり「安易な話」だと感じました。
今すぐ辞めたいのに仕事の引き継ぎなどを理由に辞められない。それに対して第三者を入れて「辞める」と申し出る。そうなると会社は引き止めるという行為は絶対にしなくなる。当然の話だと思う。転職先が決まっていて退職するのとは違う話。
「自分で言えばいい」とblogに書くと「辞めたいというまで追い詰められている人の気持ちが分かっていない」と言われるのかもしれない。こういう考え方が「○○ハラスメント」に繋がるのか?色々な場面に当てはまるかもしれない。
全てを含めて考える。「退職代行サービス」は自分で伝えないといけないことを「他者に任せる」という行為です。自分では言えない、自分では言い難いから他の人に頼んでやってもらう。ここは賛否があって然るべきだと思います。
人は「嫌だな」と思うことはやりたくない。当然です。それでもやらないといけないことはある。勉強をしなければテストで良い点が取れない。やらないのに良い結果だけを求めるというのは不可能だと思います。
今、教育現場でも「サービス」が当たり前のように求められます。生徒側も「やってもらう」ことが当たり前のようになる。やってもらえない事があれば「なんでやってくれないんだ」という発言が出る。「○○先生はやってくれるのに」というよくな話にまでなる。お膳立てしてもらってその後に自分でやるというシステムになりつつある。それが当然のように主張される。
時代が違うと言われたらそれまでかもしれない。しかし、「自分でやる」という部分が極端に減ってはいないだろうか。練習メニューを与えられているから練習をする。それに慣れてしまえばメニューがなければ「なんで作ってくれないのか」という不満がでる。やってもらう事が当たり前なのでやってまらえなかったら「おかしい」という話しが出てくる。そうなのかもしれない。
補習をした。「質問があれば聞きにくるように」というスタンスでやる。何人かは聞きに来る。何人かは聞かずにやり続ける。下手をすると生徒と同じ机に座って一問一問解いていくのを見続ける必要性さえ出てくるのかもしれない。これは学校教育ではなく「個人塾」ではないか。つきっきりでマンツーマン指導をし続けると「手厚い指導」だと言われる。しかし、それは「負の強化」ではないか。授業でやっていなくても何かあったら「個別指導」がしてもらえる。だったら授業はある程度で良いではないか。何かあったらやってもらえるのだから。
勉強に関しては「教えない」と言っているわけではない。自分が必要だと思って聞きにくればいくらでも教えると言っているだけ。「自分から質問に行けない人間もいるんだ」と言われるかもしれない。「多様性」が謳われる現代、「分からないけど聞かない」というのも「個性」として認められるのかもしれない。本当にそうなのか?教科書に書いてある内容を暗記すればそれでやっていける勉強というのがどれだけ役立つのか。
授業で何度も何度も説明をした内容が実際にやらせてみるとできない。答えを導く道筋を示し続けておけばそのレールに乗っておけば深く考えなくても進んでいく。「理解」ではなく「言われたことだけ」をやっていたら何となく生きていけるのかもしれない。きちんと説明をしていても時間が経過したら「0」になる。また、同じような事が他の部分に繋がる事がない。「その場面だけ」で生きてくるモノはあまりにも役立たないのではないか。
知識が定着するためには「自分でやらなければいけない」ことがある。「与えられる」だけでその場をやり過ごしてもそれ以後の力にはならない。そこに関して我々は何をするのか。大人が与えすぎることが本当の意味の成長を阻害していないか。短期的な視点だけで「生徒によく思われたい」と思えば「すぐに与える」ことで対応できる。が、それ以後のことに関しては責任を放棄することになっていないかという気がする。
「与えること」の本当の意味を考えるべきである。ここは大きな部分ではないか。
まとまらない。憤りは感じる。