kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

与えること2

2020-01-10 | 陸上競技

前に書いたことの続きを。話が飛びまくります。

 

「与えること」について触れました。今、我々は「与えること」が多くなりすぎていないかという部分。それは「教育」として「考える能力」を奪っているのではないか。「生きる力」を育てられていないのではないか。待っていたら「与えられる」という状況を創り出していないか。そう考えると今の教育スタンスが本当にそれでいいのかを考えさせられる。

 

「アクティブラーニング」という言葉がはあちこちで聞こえてくる。教育の中で「アクティブラーニング」をすることで学びが深まるという感じ。ある一定の法則に従って「自分たちの中で深めていく」という感じがあるのだと思う。勘違いしやすいのは「教えない」ことで「理解が深まる」という部分。「やってみなさい」とやれば自然と考えるようになり、物事に対する取り組みが変わってくるという間違った考えがないだろうか。「考えるための材料」があって初めて「考える」ことができる。「やってみなさい」から生み出されるものは「自分たちのやりやすい感覚」だけではないか。

 

「お膳立て」してまるで「生徒がやっている」ように思わせる場面がある。知らない人が見れば「生徒が積極的に活動している」とみる。が、実はそれまでに「教員」が「お膳立て」をして「言われたとおりにやる」ことで「自分たちがやっているように見える」というもの。これも実際問題は力はつかないと思っている。指示に従ってやっているだけだから。

 

補習をする。これも一般的に行われるのかもしれない。最近強く感じていることがある。「勉強しないから補習に参加して勉強をさせる」というもの。これは一定の成果を出すかもしれない。強制的に勉強する時間を創り出すことで「表面的な力」が上がったように見せることができるから。しかし、その「強制的に作られた時間」というのはその強制力から抜け出した時に結局やらなくなる。「一時的な成果」だけで終わってしまうことが多い。

 

「補習」をすれば成績が上がる。時には個人塾以上につきっきりで勉強をさせて成績を上げていく。これは本当に「教育」なのか。その場を乗り切るだけの話になっていないか。「テストでいい成績を取る」ことが「教育」なのか。もちろん、成績が悪いよりは良いほうが好まれる。当然の話。しかし、それ以前に「取り組みの姿勢」がきちんとなっていなければ将来的な力にはならないのではないか。

 

検定週間に入る。課題考査を実施して「○点以下は強制参加」というのが一般的なのかもしれない。が、今回はそれを辞めると宣言した。「補習はしない」という話をした。なんと無責任な話なのかと言われるかもしれない。それは甘んじて受け入れる。が、「検定週間の補習の時間は1時間必ず質問に答える」という条件を付けた。私はその1時間教室で待機している。そこで質問をしたり教えて欲しいと来るのは自由。最大限の対応をする。

 

「補習をしてくれない」という意見も出るだろう。「他のクラスは補習があるのになぜ補習をしないのか」と言われれるかもしれない。が、「必要があれば必ず質問に答える」という時間と場所を設定する。それを利用するかどうかは「本人次第」ではないか。本当に勉強をして検定に受かろうと思えばそれを利用すればいい。利用する「権利」は与えている。それを行使するかどうかは自分次第。

 

合格不合格に対して教員が「全責任を負う」必要はないと思っている。本人が望むのであれば「勉強をすればいい」だけの話。サポートを一切しないというわけではない。手助けは徹底的にやるし、質問には最大限応える。しかし、「分からないのに質問をしない」ことに対してこちらが「責任を負う」必要がどれだけあるのか。結局は「自己責任」ではないか。

 

教育現場では「失敗しないためにどうするか」を先回りして教えていく。上手くいかなったら生徒が嫌な思いをするのでそれを回避するために。そうやって「先回り」することで「結局はうまくいく」という感覚を持たないか。自分でやらなくても最終的には「何とかしてもらえる」という感覚を育てるのが教育ではない。

 

「与える」ことで教員は「自分は生徒のためにやってあげている」という感覚を持つことにならないか。自分自身を追い込んで「生徒のためにこんなに時間と労力を使っている」という自己陶酔ではないか。本当に必要な場面で生徒が「自ら行動を起こす」場面を奪っていないか。「質問するのは恥ずかしい」という生徒もいるだろう。しかし、それがこれから先もずっと通用するのだろうか。将来のために「本当に必要なこと」を自らできるようになっていかなければいけないのではないか。「質問する」とか「自分に必要なものを取捨選択する」という能力は大人になったからできるようになるわけではない。自分自身で身に付けていくしかない。

 

ノルマを増やせば嫌でもやるようになる。それは本当の力なのか。パターン学習のように「~になるのだから覚えておく」という「点を取るためだけ」のやりとりになる。それは別の場面では生きてこない。そこに対して我々はもっと責任を持つべきではないか。

 

補習をやらない。責任放棄かどうか。それを宣言して生徒がどう変わるか。自分のために動けるようになればそれは成長。それでもやらないのは如何ともし難い感じがある。「その気にさせる」というのが教育なのかもしれない。もちろん、そのための努力や工夫はする。ここは練習と同じではないか。これも生徒に話をしました。喉が渇いていない人に対して「美味しい飲み物」を差し出しても飲まない。「飲みたい」と思っていないのだから。


検定に受かりたいという気持ちがないのであれば「補習をする」という機会を与えたとしてもそれは「時間を過ごすだけ」にならないか。我々の仕事は「できるようになりたい」という気持ちを伸ばすことではないか。そういう「欲求」が生まれるために何をするのか。そこを考えたいと思っています。


そのな話をして授業を始める。グループワークでやるようにしていますが「活動」ができていた。そこに意味があるのではないかと。教え合いをしながら分からなければ私を呼ぶ。そうやって自分たちで学習をしていく。それが本当の意味での「学習」ではないのか。勝手ですがそう思っています。


私自身も「生き方」を考えたいと思います。真剣に。与えることだけを求められるのは絶対に違う。そう思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

次の段階へ進む

2020-01-10 | 陸上競技

先週の合宿が終わり振り返りをする。この中で様々なことを考えました。やっていることの検討。本当にこのままでいいのか。改善点はないか。

 
人によって考え方は違うと思います。合宿などで指導をすると「指導ができる」と感じる部分が少なからずあると思います。その指導内容が正しいかどうか、本当はもっと効果の高い練習ができたのではないか。そういう部分に対する検証が必要だと考えています。
 
私自身はあちこちで指導したいという気はありません。今やっていることを突き詰めたいと思っているだけなので他の場所で指導することを自ら求めてやっているわけではない。うちの選手にとってはいつも私の指導を受けているので新鮮味もないでしょう。それは本当に良いことなのか。そこも含めて考えています。
 
私自身は必死に練習に取り組む学校も一緒にやるメリットはあります。技術的な話だけではなく「取り組みの姿勢」について学ぶことができるからです。ここ最近、常に自分で指導しなければいけない感じがあって微妙な部分があります。練習に対してひたすら考えています。他校でやっているからやるという感じではなく「必要」と感じてやるだけなので。
 
今考えていることはある意味「当たり前」の話だと思っています。それでも表現が難しく上手く伝わらないこともある。そこに対して「練習の場で示す」というのはかなりのストレスです。今私が「指導をするように」と言われるとどうしても「やりたいこと」をやることになる。それが万人に受け入れられるかどうか。
 
こうやってblogを書き続けているので「指導が好き」だと思われているかもしれません。競技のこと以外を書くと「珍しい」と言われる。まー、興味関心の大半は競技に向いているので仕方ないですが。
 
話が本筋から離れつつありますが。前回の合宿の中で今やりたいことをしました。それに対してどう感じられるか。ここに関して迷惑を顧みず客観的な意見を聞きました。特に「固定」に関しての部分。言葉として「固定」と示すと捉えられ方が異なる部分もあります。かなりやり取りをしています。あまりにもマニアックな話すぎて普通の会話でやっていたら周りは引くのではないかなと。
 
承認欲求。誰にでもある。私自身も少なからずあるでしょう。指導する内容を示したいという気はありません。が、師匠の前で指導をしてそれに対してどう感じるかというのは唯一気になる。前回の合宿後はしつこく聞きました。「固定」という考え方に対しての話。否定されることを恐れずにグイグイ聞く。
 
話をする中で「固定」という言葉の問題があるのかなという気はしました。その中でひょっとしたらうちの選手自体も「捉え方」が違うのではないかという気はしました。気になって確認をするとHoは明らかに間違っていました。「固定」というのは「接地の瞬間だけ」の話であって固定し続けるという意味ではない。
 
一生懸命に練習に取り組めば取り組むほど「理解の違い」は大きく影響していきます。「固定」という話をし続けているので走る時にずっと固定するという感覚でいたようです。ありある話だなと。実際はそんなことをしてたら走れません。「グー」と「パー」の話。「緊張」と「弛緩」の繰り返しです。常に緊張をしている状態であればガチガチの走りになります。
 
指導する中でこの辺りは気をつけないといけないかなと感じています。固定はあくまで「瞬間」の話であり、それをずっと継続するという意味ではない。接地する瞬間に一瞬「足首」と「膝」が固まることで地面からの力をもらえる。あくまでその一瞬のための「準備動作」としての「固定」でなければいけない。
 
あれこれと議論をする中で上述のように「思い違いをする選手」が出る恐れがあるなと感じました。Hoは「固定し続ける」という感じがあったので、実際に走るときに「フォローレッグが遅れる」という感覚がありました。スキップまでは問題ないのですがそれが走りになると「遅れる」のです。このことについて感覚を聞いたところ「軸足を固め続ける」という感覚でやっていたとのこと。これでは進みません。
 
「指導する」というなかで見えてくることがあります。そしてそこに対して「客観的な意見」を聞くことで「見えていなかったモノが見えてくる」のだと思います。「理論」と「実際」、「主観」と「客観」の「差」をどのように埋めていくか。前から書いていますが「言葉」というのは非常に難しい。それを「受け取る側の感覚」でその言葉の意味を捉えられてしまうからです。「○○ハラスメント」と同様。Aさんが言えば冗談だかBさんが言うとパワハラというように。
 
だからこそその部分を埋めていく作業をしていかなければいけないと思っています。「固定」という言葉が独り歩きしないようにしたい。自分の身体が「バトン」のように真っ直ぐになって固めることができるか。「体幹の固定」というのは「バトン」の中心部だけに思われがちですが「接地局面」が緩んでいればやはりそこで力が逃げるのではないか。
 
「バトン」は何もしないままで接地面が硬くなっている。走るときはそうではない。そうであればそこに対してのアプローチをしていく必要があるのではないか。接地した瞬間だけ「固定する」という部分。足が着いた瞬間に「固定」という意識をしても手遅れ。「感覚」と「実際」のズレがあるからです。接地した瞬間には次の動作に意識がなければいけない。それができなければ「動きの遅れ」が生じる。
 
だったら「準備」の段階で徹底しておくことで「意識」の「無意識化」ができるのではないか。接地した瞬間に身体が勝手に「固定」してくれるくらいの感覚。「準備」と「スプリント」での意識するポイントを分けていく必要があるのではないか。そう考えると練習の組み立てが面白くなってきます。
 
「縦の動き」「地面に大きな力を加える」「力を逃がさない」「力の方向を変える」という4つのテーマの中で練習を進めてきて1か月と少し。次の段階に進んでもいいのかなと思っています「準備」と「スプリント」についてそれぞれをどうするか。多くの人の意見を参考にしながら「練習を組み立てる」という作業をしていきたいと思っています。
 
「速く走ること」に対してアプローチする中で行っているだけのこと。そこは自分の中でも処理していきたいと思っています。
 
何の話かよく分かりませんが。とりあえず頭の中にあることを記録しておきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする