前に書いたことの続きを。話が飛びまくります。
「与えること」について触れました。今、我々は「与えること」が多くなりすぎていないかという部分。それは「教育」として「考える能力」を奪っているのではないか。「生きる力」を育てられていないのではないか。待っていたら「与えられる」という状況を創り出していないか。そう考えると今の教育スタンスが本当にそれでいいのかを考えさせられる。
「アクティブラーニング」という言葉がはあちこちで聞こえてくる。教育の中で「アクティブラーニング」をすることで学びが深まるという感じ。ある一定の法則に従って「自分たちの中で深めていく」という感じがあるのだと思う。勘違いしやすいのは「教えない」ことで「理解が深まる」という部分。「やってみなさい」とやれば自然と考えるようになり、物事に対する取り組みが変わってくるという間違った考えがないだろうか。「考えるための材料」があって初めて「考える」ことができる。「やってみなさい」から生み出されるものは「自分たちのやりやすい感覚」だけではないか。
「お膳立て」してまるで「生徒がやっている」ように思わせる場面がある。知らない人が見れば「生徒が積極的に活動している」とみる。が、実はそれまでに「教員」が「お膳立て」をして「言われたとおりにやる」ことで「自分たちがやっているように見える」というもの。これも実際問題は力はつかないと思っている。指示に従ってやっているだけだから。
補習をする。これも一般的に行われるのかもしれない。最近強く感じていることがある。「勉強しないから補習に参加して勉強をさせる」というもの。これは一定の成果を出すかもしれない。強制的に勉強する時間を創り出すことで「表面的な力」が上がったように見せることができるから。しかし、その「強制的に作られた時間」というのはその強制力から抜け出した時に結局やらなくなる。「一時的な成果」だけで終わってしまうことが多い。
「補習」をすれば成績が上がる。時には個人塾以上につきっきりで勉強をさせて成績を上げていく。これは本当に「教育」なのか。その場を乗り切るだけの話になっていないか。「テストでいい成績を取る」ことが「教育」なのか。もちろん、成績が悪いよりは良いほうが好まれる。当然の話。しかし、それ以前に「取り組みの姿勢」がきちんとなっていなければ将来的な力にはならないのではないか。
検定週間に入る。課題考査を実施して「○点以下は強制参加」というのが一般的なのかもしれない。が、今回はそれを辞めると宣言した。「補習はしない」という話をした。なんと無責任な話なのかと言われるかもしれない。それは甘んじて受け入れる。が、「検定週間の補習の時間は1時間必ず質問に答える」という条件を付けた。私はその1時間教室で待機している。そこで質問をしたり教えて欲しいと来るのは自由。最大限の対応をする。
「補習をしてくれない」という意見も出るだろう。「他のクラスは補習があるのになぜ補習をしないのか」と言われれるかもしれない。が、「必要があれば必ず質問に答える」という時間と場所を設定する。それを利用するかどうかは「本人次第」ではないか。本当に勉強をして検定に受かろうと思えばそれを利用すればいい。利用する「権利」は与えている。それを行使するかどうかは自分次第。
合格不合格に対して教員が「全責任を負う」必要はないと思っている。本人が望むのであれば「勉強をすればいい」だけの話。サポートを一切しないというわけではない。手助けは徹底的にやるし、質問には最大限応える。しかし、「分からないのに質問をしない」ことに対してこちらが「責任を負う」必要がどれだけあるのか。結局は「自己責任」ではないか。
教育現場では「失敗しないためにどうするか」を先回りして教えていく。上手くいかなったら生徒が嫌な思いをするのでそれを回避するために。そうやって「先回り」することで「結局はうまくいく」という感覚を持たないか。自分でやらなくても最終的には「何とかしてもらえる」という感覚を育てるのが教育ではない。
「与える」ことで教員は「自分は生徒のためにやってあげている」という感覚を持つことにならないか。自分自身を追い込んで「生徒のためにこんなに時間と労力を使っている」という自己陶酔ではないか。本当に必要な場面で生徒が「自ら行動を起こす」場面を奪っていないか。「質問するのは恥ずかしい」という生徒もいるだろう。しかし、それがこれから先もずっと通用するのだろうか。将来のために「本当に必要なこと」を自らできるようになっていかなければいけないのではないか。「質問する」とか「自分に必要なものを取捨選択する」という能力は大人になったからできるようになるわけではない。自分自身で身に付けていくしかない。
ノルマを増やせば嫌でもやるようになる。それは本当の力なのか。パターン学習のように「~になるのだから覚えておく」という「点を取るためだけ」のやりとりになる。それは別の場面では生きてこない。そこに対して我々はもっと責任を持つべきではないか。
補習をやらない。責任放棄かどうか。それを宣言して生徒がどう変わるか。自分のために動けるようになればそれは成長。それでもやらないのは如何ともし難い感じがある。「その気にさせる」というのが教育なのかもしれない。もちろん、そのための努力や工夫はする。ここは練習と同じではないか。これも生徒に話をしました。喉が渇いていない人に対して「美味しい飲み物」を差し出しても飲まない。「飲みたい」と思っていないのだから。
検定に受かりたいという気持ちがないのであれば「補習をする」という機会を与えたとしてもそれは「時間を過ごすだけ」にならないか。我々の仕事は「できるようになりたい」という気持ちを伸ばすことではないか。そういう「欲求」が生まれるために何をするのか。そこを考えたいと思っています。
そのな話をして授業を始める。グループワークでやるようにしていますが「活動」ができていた。そこに意味があるのではないかと。教え合いをしながら分からなければ私を呼ぶ。そうやって自分たちで学習をしていく。それが本当の意味での「学習」ではないのか。勝手ですがそう思っています。
私自身も「生き方」を考えたいと思います。真剣に。与えることだけを求められるのは絶対に違う。そう思います。