kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

「他の部の指導」と「自分たちでやる練習」

2020-01-23 | 陸上競技

話が前後していますが。月曜日の練習に関して。

 

この日は12月に続いて他の部活動の生徒が練習に来ました。うちがやっているトレーニングを実際に体験したいということで。前回は人数を絞って10人程度。今回は前回来ていなかった者が参加していました。こうなるとなかなか難しい部分が生まれてきますが。

 

バランス系をやってからサーキット。本当はうちの選手は1サイクルにしようと思っていましたが、「他の部だけでは無理だろうな」と感じたので急遽2サイクルに変更。これにより時間のロスが生まれるのでうちの選手はやるべき練習が全てできない状況でした。引き受けているので仕方ないかなという気持ちはあります。

 

ここからはうちの選手は練習メニュー通りにやっていく。この日はほぼうちの選手の指導はしませんでした。特別新しいことをやっているわけではないので「自分たちでやる」ことは可能だと判断したからです。

 

他の部に関しては最初の段階で言っていました。「顧問に行けと言われたから来たというのでは困る」「勤務時間外なのでボランティア」という教育者としては「不適格」と言われるような話をしていました。しかし、ここに関しては理解してもらうべきだと思います。本当に「トレーニング」について学ぼうと思えば相手もそれなりに「準備」をしてきてもらいたい。

 

「有料」で外部からトレーナーを呼んで指導を受けている部活動もあります。2時間くらいで1人当たり3000円くらいだと聞いています。それを学内で済ますからお金はかからない。だから「参加すればいいんだろう」という感覚で来てもらうのであれば「迷惑」です。練習開始時間自体がすでに17時を過ぎている。他の部活動の指導をする「義務」はありません。それでも学校の部活動の活性化を考えたときには「競技をする」という感覚で部活動をするチームが増えることが望ましい。だからやるだけです。

 

こちら自分のところの選手への指導を一切せずにほかの部活動の指導をする。この意味が本当に分かってくれるのか。多分、「トレーニング」はそれほど好きではないと思います。専門的な技術練習ができるから部活に入っているというのもあると思います。それでも「体力」の要素がなければ勝負ごとに勝つことはできない。「勝ちたい」という欲求がないのであればうちにきて練習をする必要性はない。そう思っています。

 

DM∞をやる。これを見ると「身体が使えていないな」と感じる部分がありました。見た動きができない。DMを強く投げることができない。基礎筋力と軸感覚が不足しているなと感じたのでその部分の練習をする。必須だと思っています。ある程度やってから「固定」のための練習。競技特性に合わせて少し工夫しました。着地した瞬間に横から押す。そこで軸が保てるかどうか。意味のある練習をする。

 

台とBOXを使った練習をする。この時に「音」がします。「音」を出すことが目的ではないですが。誰かが「壊してやる」というような発言をしていました。いやいや、冗談でもそんなことを言うか?!もう練習をやめようかなという気になりました。行動が遅い部分もかなり気になっていました。言われてから反応もなくやる。いや、これなら私が時間を作る必要性があるのかなと。もちろん、全員がという訳ではなく「一部」ですが。心が狭いのでこういう部分は許せません。

 

時間がかかったのでそのままDM往復走を。60mを5往復。競争形式で。そこからシャフト補強のABを両方。やったことのない種目なのでなかなか難しいだろうなと感じながら。距離は30mに設定してやりました。正確な負荷をかけることができるかどうかが重要ですが最初からそれができるとは思いません。

 

最後に15mの往復ダッシュ。トレーニングするだけではなくそれをしっかりと動きに落とし込んでいく。技術的な話ではなく「体力的な話」です。ウエイトをすれば筋力が上がるというのは簡単にイメージできます。しかし、それが競技に生かせるかどうかは別。「技術的な練習」をすれば「楽しい」と思います。サークルとして「勝負」を意識しなければそれでいいと思っています。が、競技をして勝とうと思えば「必要最低限の体力」は必要です。それは一朝一夕には身につかない。継続してやっていく必要がある。その部分の話もしました。

 

うちの練習は遠めに見ていました。そばで練習を見たことは何もない。時間がないので「シャフト補強は省略」とだけ伝えて終わり。2時間は他の部分に付きっきりでした。うちの選手は自分たちで練習をする。この意味は何か。

 

前の記事に書いた内容。「練習をするだけの人」はうちにはいないと信じています。しかし、その後の「与えられたメニューをやるだけの人」はいる。「理解してやる人」は練習の合間に色々なことをやっています。Hoはチューブ5歩の前には必ず地面に手をついて「膝締め」をする。Toは歩いて帰ってくるときに「接地の場所の確認」を常にする。こういう部分が「競技」につながっていくのかなと感じています。

 

私が見ているから「一生懸命にやる」とか「手を抜かずにやる」というのであれば「やらされている練習」でしかない。そうなると何も生み出さない。「与えられたメニューをやるだけの人」になればやっているという感じにはなりますが、「費用対効果」としては悪い。この部分もほかの部分の指導をしながら自分のチームのこととして感じました。

 

「勝負しよう」と思えばやるべきことは自然と見えてくる。そこだけは間違いないなと感じています。いろいろなことを感じる時間でした。

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「練習での取り組み」の段階について

2020-01-23 | 陸上競技

思うことを。月曜日に他の部活動の指導をしました。それによりうちの練習に関してはほぼ見ることができない。ここは申し訳ないなと思う部分もあります。しかし、本当にやるべきことは私が見ていなくてもやるというのが私は「当然」だと思っています。私にとって「当たり前」であっても一般的に「当たり前」ではない可能性がある。そこに関してはしっかりと考えていきたいと思っています。

 

思うことがあり水曜日に簡単にミーティングをしました。時間の関係で本当に最小限にする。これが分かるかどうかはもう「選手次第」なのではないかなと思っています。「技術的なことだけ教える」という部分が求められるのかもしれません。が、その前段階がきちんとしていなければ結局強くなることはない。そう思っています。まーこれも「価値観」なので他者からみれば「おかしい」という話になるのかもしれませんが。

 

事前に細かい準備をしていたわけではないので表現が微妙かもしれませんが。今の自分の取り組みに関してしっかりと考えさせたいなと思っていました。他校の指導や他の部活動の指導をする中で感じた部分を言葉にして表現して理解させる。ここも非常に重要だと思っています。言葉だけでは分からないので黒板に「文字」として書いて示す。そこから何を感じ取るのか。

 

大きく段階を分ける。「練習をする人」「練習をしない人」という大きなカテゴリーがある。部活動に所属して運動をしているので「練習をする人」というカテゴリーに分類される。当然だと思います。「やっている」か「やっていない」かで言うと「やっている」のだから。何もしないで練習に来ない者は「練習をしない人」に属する。本当は練習ができるのに「体調が悪い」「足が痛い」といって見ているだけの人は「練習をしない人」だと思う。足が痛ければ体幹補強はできる。「練習をしない」ための言い訳を作るというのはやはり違うかなと。

 

さらに「練習をする人」は「自主的に参加している人」と「参加させられている人」に分かれる。他校との合同練習や他の部活動を指導する際にはよく発生する。顧問が「行け」と言ったから来ているというパターン。「別にそこまでしてやりたくないのに」という感覚の中で来るとほとんどのことは「批判的」に感じるので練習の効果はほぼない。部活動は誰かから強制されるものではない。やりたくなければやらなければいいだけの話。「練習をする人」が「自主的に参加している人」であるという認識は常に持っている。「やらされている」という感覚を持つのであれば部活動はやるべきではないと思っている。

 

例えば「今日も部活がある。行きたくないな。」と発言する人がいる。そうであれば本来的には「行かなくていい」のだと思う。集団に所属しておく必要性もない。「やりたい時だけやる」のであれば自分で好きな時に好きな場所で身体を動かせばいい。以前、「休むのは勝手だがそれでは強くならない」という話をしたことがある。その時、「休むのは勝手と言われたから練習に行くのやめよう」という発言があってそれに引きずられてほとんどの者が練習に来なくなったことがある。酷い話だと思う。が、これは本来的に「やりたくない」から私の発言を利用して「行かなくていい」という理由付けをしたに過ぎない。どちらにしても意味はない。死ぬほど嫌な思いをしたが・・・。

 

「自主的に参加している人」も「強くなりたい人」と「練習するだけの人」に分けることができる。友達が参加するから自分も参加しているという「自主的」な部分はあるがとりあえず参加して「身体を動かしているだけ」という人も数えきれないくらいいる。そこに意味があるのかどうかは別問題だが「自主的」に「身体を動かす」ことをしている。だから筋力的にも向上しない。単純に「練習をするだけ」であればきつくなったら「そこまでやらなくていいだろう」という感覚になる。きついメニューが出てくると手を抜く。最後まで走らない。補強は適当にやる。これは間違いなく「練習するだけの人」の特徴。この辺りから「競技」をするという人の数が激減していく。

 

「強くなりたい人」は更に「理解してやる人」と「与えられたメニューをする人」に分かれる。練習計画がある。そのメニューを考えずに一生懸命にやっていたら「結果が出る」と思う人が存在する。練習には自主的に参加して「強くなりたい」という気持ちはある。が、与えられたメニューを消化することだけに意識がいく。自分で「強くなろう」というのではなく「言われたことをやっていたら強くなるだろう」という感じで練習をする。だから練習の中にある「つながり」が分からない。目の前にあるメニューをひたすらやる。やっているメニューが次のメニューのどういう部分に結びついていくのかは考えない。「メニューを消化する」ことがメインになっていて「速く走ること」「競技力を上げること」が本当に必要だという感じがなくなってしまう。

 

同じことをやっても「理解してやる人」は一つ一つを大切に取り組む。練習のつながりを意識する。練習メニューは順序だててやっている。前段階にやったことを次のメニューに結び付けていく。前段階ができていなければ次の動きの意識するポイントにつながっていかない。バランス系で身体の使い方や走りで使いたいところに刺激を入れる。その後、体幹補強をして「走りに必要な筋肉」を強化していく。さらに「固定」感覚を作ってそれを走りに落とし込んでいく。これが練習の中でどう生きてくるか。流れを分かっていなければ効果は最大限に引き出せない。

 

「理解してやる人」からさらに段階が進むと「考えてやる人」になる。私から与えられたものを最大限に利用し、そこから練習の中で「工夫」をし始める。「理解する」だけではなく「1本目は膝締めを意識してみる」「2本目は膝の引き出しをいつもよりも遠くにしてみる」など自分で「自分にあった感覚」を作っていく。常に「今のは良かった」「今のは悪かった」という評価を受けなければ感覚を作れないというのでは最後の最後に勝負はできない。

 

指導する側に「今から〇〇を意識してやってみる」と伝えて動きの確認をする。「自分としては××だと感じた」という感覚を伝えてそこから客観的な視点のフィードバックをしていく。「どうでしたか?」という他者に任せた感覚ではなく自分自身の感覚を作っていく。

 

もちろん、「他者の意見を聞き入れない」というのでは結果は出ない。高校生レベルであればやはり「自分の感覚だけ」でやっていくことはできないと思っている。そうであれば素直に話を聞きそれを自分の走りに落とし込んでいく必要がある。コーチングの部分になるかどうかだと。

 

実際、どの水準で競技をしていくか。ここは考えないといけない。「取り組み」には段階がある。「練習をする」というだけではない。自分が目指すものがあってそこに向けてどうするか。本当にそこに向けているか。この部分はしっかりと練習をする本人たちが分かる必要がある。「やれ」と言われているから「やる」というのでは最大限の結果を出すことはできない。

 

5分程度の話だったと思う。ここまで詳しくは話してはいないが。あれこれ指導をする中で「必要なこと」について考えていく必要がある。私自身の「やりたいこと」が実際にどのような形になるか。競技力を最大限に引き出すために何をするか。ここは重要だと思っている。

 

分かりにくい内容かもしれない。それでもいい。伝えなければ分からないから。考えさせられます。

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教育の意味

2020-01-23 | 陸上競技
月曜日。この日は7時間授業。6時間目に進路体験発表会、7時間目が検定勉強となっていました。進路体験発表では3年生が自分達がどのように進路実現に向けて取り組んできたかを伝える機会でした。今年は法政大学に推薦で合格している生徒もいます。私の担当の教室だったので話を聞くことができました。いや、しっかりと考えてやってきたんだなと。

7時間目に検定のための指導。前も書きましたが「質問があれば答える」という形でやっています。自分で勉強しないのであれば強制的にやっても「本来の意味での教育」ではない考えています。検定週間に入っています。7時間目と掃除が終わったら16時40分くらいか。「放課後1時間」が検定課外の時間と設定されていますが、スタート地点から勤務時間が終わる時間帯。私はやらないと生徒に宣言していました。

「他のクラスはやるのにやらないのか?」という声もありました。やりません。「面倒だからやらない」のではない。こちらにも考えがあります。本当に勉強をしたいと欲しているならまずはその前段階までにやってくればいい。やってきてわからないことを確認する時間であれば1時間もあれば十分すぎます。やらずに分からないからその都度聞くというのは「学習」ではない。家庭教師ではない。

「家ではやらないから課外をして学校でやらせる」という意見あります。それは本当に意味があるのか?部活動でも同じですが「必死にやる」「とりあえずやる」では意味が全く違います。宿題を課しても「答えを写す」という者もいます。こうなると何の意味があるのか分かりません。提出させることに本来的な意味があるわけではない。提出しなくていいというわけではないですが、答えを写すだけというのはこの世で最も無駄な時間だと思います。何一つ生み出さない。

検定はこれまで学習してきた内容の到達度を測るものだと思っています。きちんとやっていけば受かる。パターン学習に近いところもある。ある程度やっていけば受かると考えています。それを考えると「まずは自分でやる」ことに意味があります。家でやらないから強制的に学校でやらせるというのさ「教育」ではなく「検定に受かる」ことだけが目的となっている。

学校を卒業したら「自分でやる」ことしかありません。中学時代はプリント学習で「(     )」の中に当てはまる言葉を覚えていけば考査で点が取れます。理解しているというのではなく単純に当てはめるだけ。高校に入って「勉強の仕方が分からない」という話になる。「教科書の読めない子供たちvs AI」という本を読んだ時にもその手の事が書いてありました。まさに。問題集の空欄を埋めていく事が「勉強」だと思い込んでいる。分からなかったら教科書を読むというのではない。自分で調べて答えを見つけるというのではなく「答えを教えてもらう」事が当たり前になっている。これでは何も身に付かないのではないか。

私自身は「やらない」と言っているわけではない。分からないところがあったらいくらでも教えます。しかし、それは「答え」を教えることではない。やってこない者に対して「答え」を提供することで本当の意味での学習にはならない。まずは自分でやる必要があると考えています。

「検定に合格する」という目の前の結果だけを求める。それも教育なのかもしれません。しかし、本当の意味ではない。同じ質問を何度もしてく生徒が出てきます。簡単な公式に当てはまればできる問題。その都度教えるのは簡単ですが「考えずに聞く」というのが当たり前になると自分で考えることさえしなくなります。問題の中にヒントが出ていてもそのヒントを探すことをしない。

そういう意味で本当に考えさせる機会を作る必要があると思っています。教育的ではないという意見も出るかもしれません。短絡的に何かをするのではない。意味のあるものにしなければいけない。

必要があればやります。そこが大切。本来的に意味のある事をやる。正解かどうかはわかりませんが。
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