kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

信条

2022-11-28 | 陸上競技

譲れないものがあります。ここに関しては誰に何を言われてもという感じではあります。

 

競技の指導をする。そこの根底は「本気で望むかどうか」です。「目標」を掲げ、それに向かって努力する。その過程で「指導が必要」であれば力を貸すという感じです。本人が本気で望まないのに「指導」をするのはお互いに不幸になると思っています。

 

「強くなりたい」といってもその方法が分からない。自分はやっているつもりでもそれは「必要な努力」ではない。その場合に関してはこちら側が積極的にアプローチして「修正」する必要があると思っています。選手自身は「自分はこんなにやっている」と思っているので、「足りないよ」というのをきちんと示してやるのが必要だと思っています。

 

逆に「それなりにやればいい」と思っている選手に対して「もっとやるほうがいい」というアプローチをすると「そこまで本気ではないのに」というのが反発として生じます。一律に「枠」にはめてやろうとすると100%上手くいきません。「それなりでいい」と思っている選手に「本気になる」ことを求めて伝わらないからです。間違いなく軋轢が生まれます。

 

場面や環境によって求められることは違ってくると思います。「進学校」で「部活動に必死になれ」という求め方をしてもそこに「意味」は生まれません。もちろん、「部活動」をやっていく中で「気が付くこと」はたくさんあるので「意味」はあります。が、「進学校」では「部活動で結果を出す」ことは求められていません。色々と話を聞くと県で優勝したり、中国大会に進んだとしてもほとんど反応がない学校もあるようです。結局、教員も生徒も「部活で結果を出す」ことを「最優先事項」だと考えていないからです。

 

そこに対して「それはおかしい」と異議を唱えるつもりは全くありません。間違いなく「正しい」からです。「何を求めているか」によって提供するものは異なってきます。「進学校」は勉強をして進路を決めるために選んだはずです。ここで「勉強は二の次」でとにかく陸上競技に専念しようというのは間違いです。だからといって「部活動をやる」ことを否定するものでもありません。限られた時間の中で最大限のことをやるというのは「進学校」でも同じだからです。

 

前任校に赴任した時、「競技力を上げる」というのをテーマに掲げてやりました。が、それに対して大きな反発がありました。残念ながら「競技力を上げる」ことを求められていなかったのです。全員が求めていないことをこちらが求めるというのは間違っていると思います。ある一定の水準でやることはできますが、「平均」を求めてやることで組織は安定します。「もっとやりたい」という選手もいれば「そんなにやりたくない」という選手もいる。どちらが正解なのかではなく、どちらも正解なのだと思います。だから「全くの別組織」でやるほうが全員が幸せになるのではないかと感じるようになりました。「そんなにやりたくない」と思っているグループは「指導をしてくれない」と批判はします。ここが最大だと思います。そしてそこに「現実の課題」がある。だから「クラブチーム」を作って「本当に強くなりたい」と思う選手のニーズに応えるほうがいいのではないか。そう感じるようになった理由はそこにある。「価値観」が異なる選手が集まってできる「集団」では間違いなく「軋轢」が生じるのです。

 

よくgt先生と議論をしていました。「挨拶ができるから良いチームなのか」という話。今ならもっと詰めた話ができます。答えは「NO」です。挨拶ができるために部活動をやっているわけではない。「挨拶ができる」ために競技をやっているわけではない。ここは「十分条件」なのだと思います。競技をやる中で「出来るようになったら良い」という部分。「陸上競技をやるなら挨拶ができなければいけない」というのはプラスアルファの条件でしかない。挨拶ができるから競技ができるわけではないから。もちろん、挨拶ができたりする「基本的なこと」は重要です。指導の中で「重き」を置きます。が、「基本的な生活習慣」の指導が「メイン」になっている指導では「競技力を上げる」「結果を出す」というのが「二の次」になってしまう。

 

「競技をする」という上での「絶対条件」(これが何が何でも必要)というのは何か。「部活動をする」と「競技をする」というのは現在の社会情勢の中で全く違うものだと自分の中で位置付けています。「部活動」に関しては「体を動かしたい」というレベルでも参加できると思います。放課後の余暇を過ごす一つの手段として「部活動」に所属する。少し前なら全員に「競技をする」というレベルを求めていましたが、それはもうミスマッチ以外の何物でもない。「結果を出したい」と望む選手と「みんなで余暇を過ごしたい」と望む選手が「同一の集団」でやっていくのは難しい。求められることが違うので。ここに今の「部活動の困難さ」があるのだと思います。「熱量」の違いは間違いなく存在する。

 

競技をやる上での「絶対条件」は「絶対に強くなることを目指す」「結果にこだわる」ということになるのかなと思っています。強くなるためになんでもやる、キツイことでも避けて通らないというのがあるから「競技」になるのだと思います。これは「部活動」の「絶対条件」ではない。「部活動」における「絶対条件」は今は「学校に所属しているかどうか」くらいだと思います。「やりたい」と言えばそれが「本気」か「それなり」かに関係なく「受け入れる」というのが当たり前になっていますから。

 

市民マラソンなどを考えてみると分かりやすいのかなと。ファンランのように「楽しみながら走る」という参加者もいます。もちろん「少しでも良い記録で走れたら良い」というのは誰にでもあります。しかし、普段の生活を「競技中心」にして起きている時間の大半を「競技力向上」に使えるかというと違うと思います。優勝を目指して参加している選手は間違いなく「絶対に強くなる」「絶対に結果を出す」と思って出場しています。同じ参加者であってもその「条件」は違ってきます。

 

話が難しくなっているかもしれませんが、今の私は立場的にも存在的にも「競技をする」ことをしたいと考えています。競技を通じて「陸上競技本来の楽しみ方」を知ってもらいたい、「人間的な成長をして欲しい」というのはずっとあります。しかし、「挨拶ができればそれでいい」というスタンスではありません。「競技」をやるのであれば「結果」にこだわって欲しいと思っています。今の学校であれば「結果を出す」「競技で勝ち上がる」というのが「絶対条件」だと思っています。多くの選手が「競技で結果を出したい」と望んで学校選択をしています。その「絶対条件」を満たすことができるのかどうかは大きい。選手が一番求めているのは「結果を出す」ことではないかと考えています。

 

「必要条件」として「考え方」や「行動」が出てくるのだと思っています。「結果」を出すためには「自分自身で考える」ことも「判断する」ことも必要になってきます。しかし、「考える」ことができたから「結果」が出せるのかというのは「全くの別問題」だと思っています。「やらされる練習」という言葉があるとそこに対しては間違いなく「否定的」だと思います。しかし、「結果」を出すためにはある程度の水準に達するまでは「指導者主体」でやらないと無理だと思っています。この辺りはkd先生ともよく話をします。「これくらいで十分だろう」と選手が思っていても「もっとやらないと足りない」というのが間違いなく出てきます。


上手くまとまりませんし、長くなっているので一旦この辺りで切ります。また読み直しながら書きたいことを書いていきたいと思います。存在する意味がどこにあるのか。何を求められるのか。

コメント
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