![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/e7/ad7917f779e75ef704df60c767ef8546.jpg?1675427151)
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記録として。
陸上競技と向き合う。何が正しくて何が間違っているか。何が必要で何が不要か。「陸上競技を通じて成長する」という部分も自分の中で大きな柱でした。が、それも本当に意味があるのかどうか疑問に感じています。「人間的に成長すれば競技力が伸びるのか」という部分。それが「真」なのか。競技力を向上させるためには「物事に取り組む姿勢」が重要になるのは確かだと思います。が、「そこがメイン」ではない。「考えて物事に取り組む」というのが必要かもしれませんが、それは「発展」ではないのか。
算数でいえば「九九」ができる。これを暗記して即座に答えが出せるようにする。これは「繰り返し」やるしかないと思います。「何故九九をするのか」という問いがあったとしても、「必要だからやるんだ」という感じでしょうか。しかし、九九ができなければ他の問題が解ける日は来ません。あくまで「物事をスムーズに進めていくための道具」としての「九九」だと思います。難しい数式があったとしてそれを覚えても、根底にある「ベースの部分」がしっかりとしない限り問題解決はしない。
競技において「考える力」は必要だと思います。しかし、その前に「ベースになる部分」を身に付けないと結局「付け焼刃」にしかならない。もっといえば「その気になるかどうか」だと思います。「本気」になりさえすれば「行動」が変わります。無理やりではなく「自分が必要だと思う」からやる。そこに至るかどうか。「強くなりたい」と言っていても補強や走練習で少し手を抜く。気が付くとウエイトオーバーになっていて走れなくなる。ここに関しては「本気」になれば自然にできることだと思っています。「記録を出したい」と思えばそれに付随する「必要なこと」は見えてきます。「結果だけ求める」というのは無理ですから。
同時に「結果を出させる」ということも重要ではないか。モチベーションを上げていくためには「強くなっている」という実感が必要です。それがなければ「何のためにやっているのか」が分からなくなるから。選手が本気であればあるほど「結果」を出させる。もちろん、単純な話ではありません。それでも「やったから走れるようになった」という「事実」は必要。練習メニュー云々ではなく「取り組む姿勢」がそこには大きく現れていくと思っています。
結局は「一部分だけ」をやっても意味がないのだと思います。すべてが複合的に絡み合う。教育も同じだと思いますが。元々、スポーツ指導に関して「教育的側面」が大きい。とはいえ、強いスポーツ選手が倫理的に正しいかどうかは別問題です。見ていて「本当に強くなりたいのか」と感じる場面は色々なところにあります。色々な場面で指導させてもらって「本気度」がこちらに伝わってくるかどうかは大きい。それが自分自身のモチベーションを上げる要因になるからです。「強い選手の指導をするからモチベーションが上がる」というのでもないと思っています。「本気」になっているかどうかは大きい。
これもgt先生と話をするのですが「本気」というのは人によって違います。「好き」という表現と同じことだと思っています。ある人にとっては「好き」は「好ましい」くらいのレベルかもしれません。またある人にとっては「狂おしいほど恋しい」という「好き」かもしれない。同じ「す」と「き」の羅列であっても「発する人」の「思いの強さ」によって全く違うのです。「本気」といっても人によって違う。私の「本気」と他の人の「本気」は根本的に「基準」が違う。だから、「本気」でやろうとすると自分自身が苦しくなる。他者とのギャップがあってそれを埋めるということができないからです。
以前、「朝練」について書きました。普段の練習時間では足りなくなるので「基本的な練習」を朝練で自分でやる。ある程度やることを示していてそれを本人がどのようにやるか。やるかやらないかも自由だと思っています。「本気」でやりたいならやる必要がある。それだけの話です。その話をしてから1か月近くが経過しています。気が付くと「技術的な向上」が見られる選手が複数います。別に私が付きっ切りで何かを教えているわけではありません。本人が「必要だ」と感じているからそれをやるだけの話です。「できるからやらない」ではなく「よりよくするためにやる」という感覚です。それができるようになれば勝手に強くなると思います。最後の修正は必要になると思いますが。場当たり的な話ではなく長期的展望の中で話ができるようになる。これを私は「面白い」と感じます。それ以上でもなくそれ以下でもない。
今の自分自身が何を求めているか。すべての人に当てはまるのではないか。「常識」という言葉。これも「人によって異なる」のです。私のとっての「常識」は他の人にとっての「非常識」だと思います。が、それを「非常識」と感じる人の「価値観」はどこから生まれているのか。何をもって「正しい」と言えるのか。自分自身に問いかけながら立ちたい。そう思っています。
全くまとまりませんが。記しておきます。
またも読書の話。
図書室で「柚月裕子」さんの作品を読もうかなと思って探していると、図書担当の先生に「これは面白いよ」と言われて薦められたのが「両手にトカレフ」でした。
どんな話かも全く分からない薦められたので読んでみました。これはなかなか(笑)。考えさせられる話でした。
初任の学校で修学旅行で沖縄に行ったことがあります。その時はクラスの全員が女子。「ひめゆりの塔」で戦争の話を聞きました。「事実」として知っている部分はありましたが、きちんと「現実」を知るというのはありませんでした。そこに対して「教育として何ができるか」を強く感じた部分があります。2年生の生徒に対して「大切なことは何か」を残りの時間で伝えていきたいなと。当時は「なんとかしないといけない」という気持ちが強くあったのだけは確かです。
今回は「イギリス」と「大正時代」の話がシンクロしながら進んでいく話でした。ネグレクト、ヤングケアラー、人種差別etc. 内容的にかなり重い部分がありました。ブレイディみかこさん自身が実際にイギリスで身をもって経験したこと、感じたことが記されている。そして「金子文子」という方の自伝も同時並行で記されている。大正自体の話。当時の日本の状況とイギリスの現状がシンクロする。自分たちが感じている「今」は「過去」とは違う。しかし、広い世界では「今」も同じ状況がある。経済格差、教育格差、性差。これを埋めることが必要だと声高に叫ばれていますが、実際はどうか。
「持つ者」と「持たざる者」の差を埋めることはできるのか。日本は「階級社会」ではないが、実際には「富める者」と「富まざる者」の格差が生まれる。スマホを利用するのが当たり前だと思う者もいれば日々の生活に困窮する者もいる。自分たちの「わがまま」が通るのが「当たり前」だと思う人が増える。それは「経験」しないからなのかもしれない。「リアル」ではないから。
「面白ければいい」「楽しければいい」という状況がある。コロナ禍で「休むのが当たり前」「やらなくても許される」という風潮がある。今の学生はその感覚が大きい。が、実社会に出るとどうなのか。それが許される状況はない。でも、現場でそれをどれだけ伝えても「リアル」ではないから感じ取れない。「ファンタジー」として捉えられるのかもしれないなと。
考えさせられるなと思います。本当に。色々な価値観、現実をとらえながら。「理想論」を話すつもりはありません。「現実」は「目の前」にあります。そこから目を背けることのないように。背けないから「もう難しいな」と感じているというのもあります。しんどい中でどうもがくか。