火曜日。この日も放課後は補習。授業の時に「本当にやる必要があるのか」という話もしました。批判の対象になるのかもしれませんが。きちんとやる生徒にとっては今学習している内容はそれほど難しくありません。言い方は悪いですが「パターン学習」的なところがあるので、ある程度回数をやっていけば間違いなくできるようになります。「理解する」かどうかは別の問題として。しかし、そこに至っていない生徒がいるのが現状です。課題は出さない、間違えてもやり直さない。これでは・・・。
競技に関しても同じことを書いていますが。お腹が空いていない人の前に美味しい料理を提供しても「別に食べたくない」という理由で口にしないと思います。「食べたい」と思っていないのですから。検定学習に関しても「検定に合格したい」という気持ちがなければ課題を準備してもやらない。だからこの時間はほとんど意味のないものになります。少しその手の話をしました。やるのは誰なのか。
私自身は「詰め込む」ことをメインにしたいとは思っていません。学習活動を通じて「取り組み方」や「考え方」を身に付ける。そこができなければ意味はないと思っています。資格だけ取ればいいんでしょう?というのは違うのかなと。「資格」や「検定」に関しては取得することも大切ですが、そのプロセスで様々なことを身に付けることができると思っています。「資格」「検定」が評価を受けるのは「きちんとした努力ができる」ことに対してではないかと。暖簾に腕押しみたいなところもありますが。
放課後は頼まれて他の学年の補習を。そのための準備を1時間くらいかけてやりました。通常であれば5~6時間かけて丁寧にやるところですが、時間がない。週末の検定に向けてという感じですから。こちらは「学習したい」けどそれができていないという生徒なので準備と指導はしっかりとしたいと思っています。本当に基礎的なことをやらないといけないので絶対的な時間が足りません。申し訳ないなという感じがあります。できることは最大限に。
1時間くらいしてから練習へ。前半部分の練習が終わったところでした。そこから補強に入る。女子はウエイト代替種目が入っています。男子がウエイトをやるのでそれに合わせてセット数を3セットにしています。が、やはり男子のウエイトが40分程度かかるので時間が余ります。3セットのまま種目を増やすか、4セットにするか。この日は独断で4セットに増加。かなりしんどいとは思います。筋力的に。それでも「身体づくり」はし続けたい。肥大させずに出力を上げる。この部分に関しては色々なことを考えて導入しています。任せてもらえる部分もあるので責任をもって。特に故障して走れていない選手もいるのでその間に「負荷を増やす」必要があります。走っている選手と同じレベルのことをしていたら離されるだけ。「強くなった自分」をイメージしながらやっておく必要があります。
本来は選手が意識してやっていければいいのでしょうが。より正確性を高めるために声掛けをし続けています。これは良いことなのかどうか分かりませんが。やはり疲れてくると正確にできなくなります。そこでポイントを指摘しながらやっていく。「しっかりとやらせる」ための声掛けです。ある程度はきちんとできると思いますがこういう性格ですから、徹底的にやるというのは必要かなと思っています。
選手が声を出せるようになってきました。私自身も盛り上げながらやっていきたいと考えています。選手と一緒にとまではいきませんが、声をかけて前向きにしっかりと取り組ませる。きつくなったところで乗り越えていけるようにする。叱咤だけではなく「乗せる」ことも必要だと感じています。アメとムチではないですが。それなりにこちらのことも理解してくれていると思っています。声掛けに関してもしっかりとしています。なぜそのようなことを言うのか。理解してくれれば捉え方も変わるでしょうし。もちろん、「いやだな」と感じる選手もいるでしょう。「誰のための言葉か」が分かれば素直に入るのですが、そうでなければ「また言われた」と感じるでしょうし。今の状況からすれば「変化の兆し」を本物にできるのかなという感覚はあります。
記録しておきます。また書きます。
なかなか練習についての更新ができませんでした。個人的に思うこともあって。部活に対してではないですが。そういう年齢だと思っていただければとは思います。
月曜日の放課後は1時間程度補習をすることに。授業中にテストを行って採点、その結果に合わせての補習です。3級程度なのできちんと勉強をすれば合格圏内に届きます。できる生徒にとってはかなりしんどい時間になると思います。時間を持て余すことになるので。逆に得点が取れない生徒は「課題」そのものをやらない。家で勉強をしないのだから得点も上がってきません。理不尽というかなんというか。
学生時代、練習で「サーキット」をやることがありました。とにかくきちんと負荷をかけたいと思って運動は最大負荷、移動時間はできるだけ早くジョグで移動する。休憩しないで負荷をかける。これは私にとっては当然でした。が、中にはのんびりやる選手もいました。だから待ち時間がかなり生まれる。当時まだ若かったで「なんでこの人たちに合わせて待たないといけないのか」という憤りがありました。目的意識が違うのであればわざわざ待つ必要があるのか。
今回のことはまた話が違うのかもしれませんが、「勉強しない生徒に合わせる」ことがどれだけの意味があるのか。教育活動ですからそれは必要なのかもしれません。授業の一環で検定に向けての学習をする部分もあります。これが普通校ならまた違ってくるのかもしれないなと。専門学科を有する高校では一般的に「検定のための補習」を行います。「勉強時間の確保」のためといってもいいと思います。これは本当に意味があるのか。やる気になれば自分で勉強することができます。それをやらないのに「補習」で勉強を教えるのか。その時間だけやってできるようになるのか。正直、3級の内容ですから間違いなくできます。
初任校、検定の前日までに2級の得点が40点台。前日にかなり遅くまで付きっ切りで勉強しました。この子は部活の生徒だったので練習後にかなりやりました。結果、翌日の検定は95点くらいで合格。70点で合格ですからかなりの余裕があると思います。が、この子が卒業するときに「簿記って結局何だったんですか?」と言っていました(笑)。もうこうなると「検定を取るだけ」になっているというのが明らかです。コツコツ努力することを身に付けるとか、目標に向かって計画的に取り組むとかの「目には見えない力」を養えればとは思っています。今の現状を考えると「時代に合っていない」のかもしれないですね。「勉強しないから残してやる」というのは本末転倒というか。「やらないならそれでいい」という社会の仕組みがあります。それにより最終的に損をするのは自分自身。格差社会とも言われますが、「学校」という守られた世界の中で許されることであっても外に出ると許されない。その時に気づくのかもしれませんが。
話がそれまくり(笑)。練習。1時間程度遅れての参加となりました。私が練習にたどり着いた時には専門練習の時間になっていました。この日はハードルということだったので5歩ハードルと歩数の切り替えの部分の練習。練習を続けているのでそれなりにハードリングはうまくなっています。一人は故障のためハードル練習できず。これはもう仕方ないかなと。前日にkd先生にお願いして治療をしてもらいましたが走るまでにはたどり着かなかった様子。他の選手は5歩ハードルを繰り返して最後に歩数の切り替えの部分も。
1月になったらより専門的な練習をしようと考えていました。ヨンパのための練習。その中で必要な要素は「歩数の切り替え」です。ほとんどの選手がレースの途中で歩数の切り替えを要します。レースの大きな部分を占めるのですがそこに対しての練習というのはほとんど行われません。ぶっつけ本番みたいな。「合わなくなったら切り替える」というのもありますが、高校生でそれほど器用な選手はいません。基本はレースパターンを事前に決めておいてそこの局面で切り替えていく。練習では5歩から6歩に切り替えることでストライドの調整をすることができます。大切。
1時間程度の専門練習だったので最後の20分くらいは切り替えの部分をやりました。ヨンパの切り替えの練習をするためにはある程度のスピードである程度の距離を走らないといけません。実際の35mでやると数本やって終わってしまいます。そこに対応するための練習計画を立てています。距離設定が必要になってくるというのはこういう部分です。まだまだですが時間をかけて準備をしていきたいなと思っています。それでもハードリング自体はそれなりに上手くなりました。走るのが遅いとそれが生かされないのでまずは走れないとだめなのですが。
この辺りのバランスを考えながらやっていきたいと思っています。タイトルに「少しの変化」と書いているのに内容が全くそこに触れていない(笑)。先週顧問が全員で言い続けた影響もあって声がある程度出るようになりました。まだまだですが、兆しが出ています。変わるときには一気に変わりたい。それができるかどうか。声が出るだけで雰囲気も変わっていきます。自分自身がど個を目指すのか。行動で示してくれるといいなと思います。変化あり。
また書きます。
思うことを。
時間を有効に使う。「有効」というのがどういう意味合いを持つのか分かりませんが。何かに向けてやろうと思えば「最大限のことをする」というのは当然だと思っています。が、それは私にとっての「当然」であって、それ以外の人にとっては「特別なこと」なのかもしれません。ここは非常に難しい。
例えば「課題」がある。それを提出しない。別に構わないと思います。提出はするが答えを写して提出する。これも結局は「自分自身」の問題です。しかし、そこに意味があるのかどうか。徹底的に課題を出さない。それはそれで自分の考え方だと思うのでいいのかなと。しかし、「評価」としては厳しくなります。社会に出たときに「与えられた仕事をやらない」とか「期限を守らない」というのは許される行為ではありません。学生時代は「忘れていた」ということで済むかもしれませんが。
次年度から高校での評価が変わってきます。中学校の時に近づくのかなという感じです。我々としてはかなり煩雑になるのでメリットはありません。生徒にもわかりにくくなると思います。それでも偉い人が「意味がある」と思って導入するのだからやらざるを得ない。その中で「知識」を問う部分の割合が小さくなります。共通テストでもそれを受けて出題形式が大きく変わっています。得点が過去最低になるくらいの変化です。偉い人がそれをやるので受験生はかなりの被害にあっていると思います。
とはいえ、それを導入せざるを得ない。そうなると「評価」は物事に対する姿勢も大きく影響してきます。上述のように「時間を有効に使えない」生徒に関しては間違いなく評価が下がります。「課題」をやる時間は確保できないが「スマホ」でゲームをする時間は確保できる。それが自分にとってどのような意味があるのかが分からないのです。それはそれで「選択」なのでいいのかなと。
「転ばぬ先の杖」だと思って「きちんとやる」ほうがいいと話します。が、それは転ばない間は分からない。転んだ時に気づく。そうであれば普段からは一般的なことだけ、業務だけを遂行するほうが圧倒的に楽になります。結局、「課題をやる」ことを伝えてもやらないのだから。仕事として「授業をする」のは当然のことです。プラスアルファで「資格取得」に対しての援助をする。しかし、「その気」がなければ課題もやりませんし、検定取得しようともしません。そうであれば別に「協力」する必要はないのかなという気もします。
以前は「教員なんだから自分自身を犠牲にして生徒のためにやる」ことが「当然」と言われていました。多分、今でもその感覚を持っている人は多いと思います。が、「やりがい」があるのだから「生徒のために」やるのが当たり前という風潮は如何なものか。もちろん、「一生懸命にやりたい」と思っている生徒に対してはサポートする必要があります。目標に向かって進んでいくことに対しての協力は当然かなと。が、それは「強制」されるものではない。自分自身の「意思」で行動するべきだと思っています。
「課題」を提出しない。ここに関しては「記録」していく。「評価」が低い時に抗議されたら「根拠」を示して説明する。好き嫌いでやるわけではありません。きちんとやっている人間に対して正当な評価をする必要があるからです。こうやって考えることが自分自身にとって「時間」を有効に使うことになるのかどうか分かりませんが。
いつもいつも気楽に考えているわけではありません。きちんと「考え方」をもってやっています。そこに対して不満を感じる人もいるのかもしれません。が、実際問題「正当な評価」なんかはこの世には存在しません。社会に出たときには「不当な評価」のほうが多くあります。まーやるべきことをやらないで「権利」だけを主張するのも違いますから。「主観」ではなく「客観的指標」が必要になるのでしょう。陸上競技の「記録」は「客観的指標」になる。「努力」をしたからといって「記録」が伸びない選手だっている。これは「不当」なのかもしれません。「努力」をすれば「夢」は叶うという「幻想」だけではよくないなと思います。
時間をどのように使うか。何のために使うか。重要なことだと思います。限られている時間です。その部分は人それぞれ。長い目で見たときに後悔するかもしれませんし、しないかもしれない。その時になってみないと分からない。それはそれでいいのかなと。人生の長い時間の中で何が失敗なのか分かりませんから。
まとまりのない文章になっていますが。記録しておきます。