
ある晴れた日に第210回
セールスの電話ほど嫌なものはない。それもこちらが忙しい時ほど掛ってくるので迷惑だ。そいつが非通知だとなおさら頭にくる。
西暦2014年2月1日、曇天の土曜日の午後2時7分にまたしてもそんな電話がかかって来て、中年の女性の声で「御不要のものがあれば買い取りを致しますが、なにかないでしょうか?」
と尋ねるので、私は「うちの耕君をただで引き取ってくれないか」と言ってみた。
むかし原宿の木下歯科に通っていたとき、木下先生が隣に座っていた顔見知りの患者に麻酔注射をしようとしたら、彼が「先生すみません。その注射、お隣の佐々木さんに進呈してくれませんか」と冗談を言ったことを、突然思い出したからである。
すると女は驚いて、「耕君とおっしゃるのは?」と尋ねたので、得たりやおうとわたくしは
「うちの息子です。自閉症なんですが、アラフォーでも可愛いんですよ」と応じた。
「自閉症って?」
「よく間違う人がいるんですがね、これは自閉的引きこもりとは違う。また風邪やガンのような病気でもありません。生まれながらの脳の器質障がいなんです。まあ交通事故で脳味噌に傷がついたようなもんだ。その結果、周りの人とのコミュニケーションがうまく取れなかったり、強いこだわりがあったり、知的な障がいを抱えていたりしますが、天使のように無垢な心の持ち主ですよ」
「まあ! 天使のように無垢なんですか?」
「あくまでも比喩ですけどね、比喩。天使も無垢もいいけれど40年も続くとちょっと飽きちゃってね」
「でも、天使のように無垢なんて素敵ですわ!」
「そうですか。気に入って頂けましたか。ちなみに彼はいま月曜日から金曜日は大和市の施設に通って月給500円で働いて、夜は同じ市内のケアホームで寝泊まりし、金曜から土日はこの自宅に戻ってくるのですが、最近どうも落ち着きがなくて施設から1日40本も電話がかかってくることがあって、妻も私も参っているんですよ」
「でも私なんか、1日100本以上電話していますよ」
「そりゃ当り前。それがあなたの仕事なんでしょ。それでどうですかねえ、せっかくなんでも無料で引取るとわざわざ選りによってあたしんチに電話していただいたんだ。この際、おたくで丸ごと無料で引き取ってもらえないでしょうかね、うちの耕君を」
「私、いままで長いことこういうセールスをやってきたんですが、こういうケースは初めてなので即答できませんわ」
「そうでしょうね。私だってほんのちょっとした思いつきで言ってみただけですから、すぐにOKの返事が返ってくるとは思っていませんよ。ここはひとつあなたの上司ともじっくり相談してから、また電話をください。待ってますよ、いついつまでも。障がい児はいいですよ。癒されますよおお」
「は、はい、分かりました。よーく上司と相談してみます!」
今日は3月3日の節句の日だが、あれ以来返事の電話はかかってこない。
きっと彼女とその上司は、耕君をどうしようかとまだ考えこんでいるのだろう。
なにゆえに人は地獄に落ちるのかいつかは天国に這い上がれるとあかすため 蝶人