あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

五味文彦編現代語訳「吾妻鏡14得宗時頼」を読んで

2014-03-23 10:16:34 | Weblog


照る日曇る日第665回&鎌倉ちょっと不思議な物語第314回


中世鎌倉は確かに当初は源氏の武家政治の拠点であったが、頼朝、頼家、実朝亡きあとは忽ち北条氏の天下となってしまった。彼らが深謀遠慮で源家を乗っ取り、頼朝の有力な御家人を剥き出しのゲバルトで圧殺してきたことを忘れてはならない。

鎌倉は死都である。げんざい観光客がうろついている有名な寺社仏閣や町の辻々、はたまた海水浴場こそは、悪辣非道な彼奴等の讐敵殺戮の現場であり、それは例えば由比ヶ浜の砂を1メートルも掘ってみれば、不本意な戦に斃れた畠山一族の若き侍が残念無念と噛みしめた大臼歯が、時折相模湾の朝日に恨みをこめてキラリと輝いていることからも伺い知れよう。

私は、ここで伊豆の地方豪族の血が源氏直系の高貴の血にDNA的に劣るなどという愚かなことを言いたいのではないが、いくら彼らが建立した鎌倉五山などの寺社仏閣が立派で、彼らが実質的に本邦初の武家文化を担い、あまつさえかの蒙古来襲を2度に亘って撃退した国家的功労者であったとしても、主君を出しぬいて覇権をかすめ取った家臣の下劣な振る舞いは、けっして許されるものではない、とあえて主張したいのである。

そしてそんな彼らの正史であるこの「吾妻鏡」という胡散臭い書物を眉に唾しつつ紐解く陰微な愉しみは、彼らがいたるところでうまくオブラートにくるんで歴史的事実を捏造したつもりの特定秘密箇所を鵜の目鷹の目の直観リサーチで探り当てることくらいだろう。




    なにゆえに北条は鎌倉を制覇したか宿敵をあの手この手で屠りしゆえ 蝶人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする