あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

ポール・オースター著「写字室の旅」を読んで

2014-03-01 13:25:23 | Weblog


照る日曇る日第659回

毎日午後5時にバアにやって来て3杯のスコッチを同時に注文する男がいた。彼には非常に仲が良い2人の兄弟がいたので、3人とも異なる土地の異なるバアで同じ時間に同じことをする約束を交わし、実行していた。

ところが何年も経ったある日、突然男が「今日からはスコッチ2杯にしてくれ」というので、不審を懐いたバーテンダーがその訳を尋ねると「今日から僕は禁酒することにしたんだ」といったそうな。

といういかにもニューヨーカーのオースターらしい逸話を除くと、いつもの彼らしい念入りなプロットも華麗なレトリックも皆無な一風変わった異色の淡彩小説である。

しかし流行作家も私どもも歳を取ればだんだん耄碌して肉体も気力も記憶も衰え、この小説の主人公のようなアルツハイマー気味の低温動物になりゆくに相違ないので、ここで彼が描き出した心も冷えてゆくような老残心境幻想小説の世界は、おそらくすべての文学老年が経験するきわめてリアルな境地のものであらう。

個室に閉じ込められた孤老が、薄れゆく記憶と戦いながら夢見るものは、過ぎし青春の日々と懐かしき女たちの思い出。「老いたる者をして静謐の裡にあらしめよ、そは彼等こころゆくまで悔いんためなり」と 中原中也が歌ったように、ポール・オースターはこの本で彼の晩年の予行演習を行ってみせたのである。



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