照る日曇る日 第921回
昨2016年に岩波書店から立て続けに出された3連発の最終巻で、主に鶴見俊輔、吉本隆明、水野忠夫、小高賢など著者に大きな影響を与えた故人の思想や生前の面影をしみじみと伝えている。
巻末の歌人の小高賢、本名鷲尾賢也への弔辞と1967年10月7日の第1次羽田闘争で死んだ山崎博昭への思い出が胸を打つ。
私は羽田ではこの日のデモに生まれて初めて棍棒を右手に、左手にレモンを握りしめつつ参加して、たちまち機動隊に蹴散らされたが、著者はその翌日の第2次闘争で羽田大鳥居駅まで行って機動隊にぶつかったそうだ。
すると私たちは「すれ違いの同志」ということになるのかしらん。
死者はすべて懐かしい。
親しくしていた人は、特に懐かしい。
しかし、あまり親しくしていなかった人も、なぜだか懐かしい。
生前に敵であった人も、味方であった人も、同じように懐かしい。
私にとって、死者はすべて懐かしい。
「虐殺」と「殺害」は違いますむごたらしく殺されたのか普通に殺されたのか 蝶人
照る日曇る日 第922回
酒井順子訳の「枕草子」、わが高橋源一郎選手訳の「方丈記」、内田樹訳の「徒然草」という本邦三代エッセイのそろい踏み。
「枕草子」はたしか「枕冊子」というていたはずだが、いつから草子になったのかしらん。
それはともかく清少納言ってものすごく頭が良くって教養がある女性だったんだろうけど、この時代にしては珍しくいいたいことを包み隠さず言ってしまう正直というよりも愚直な性格だったんだなと思う。言いたいこともいわずにじっと我慢してその思いのたけを源氏物語にぶつけていた紫式部なんかとは正反対である。こういう感じはほとんどモダンというてもよさそうだが、彼女はかつて属し、あっという間に没落した道昂&中宮派の短すぎた黄金時代の思い出を枕に涙しながら生き生きと華やかに再現することによってその後の灰色の晩年の孤独に耐えたのだろう。
彼女はじつは中宮派にあってただ一人、その敵である道長をかねてより「好き」と公言していた。そのことは道長も知っていたはずだから、中宮の死後、思い切って道長派に転向することもできたはずだが、すでに道長の愛人がライバルの紫式部だったから、どうしてもその1点で飛べなかった。と私は愚考する。
内田樹訳の「徒然草」を読むと、最後の243段目がすごくいい感じのオチになっていることがよくわかる。この短い文章で兼好法師の人となりと、吉田兼好の父親がいかに息子を愛していたかが分かって読む人は幸福になるのである。
源ちゃんの「方丈記」は題名が「モバイル・ハウス・ダイアリーズ」、著者名もカモノ・ナガアキラに変身していてぶっとぶ。
サローヤン原作「パパ・ユーアクレイジー」の伊丹十三訳から学んだ、「翻訳とは異文化の深淵を命懸けで超える難事業だある」、をはじめて実践してみせたというのだが、さてそのお手並みはいかに、いかんにいいい。
自民党はいたるところにビラを張る選挙ある日も選挙のない日も 蝶人