
照る日曇る日第928回
900ページになんなんとする古川選手畢生の「平家物語」の現代語訳である。
訳者はこの中世を代表する戦記物語を、単なる歴史物語や源平の戦記物語、宮廷政治や宗教・社会権力の闘争史ではなく、それらの諸要素のすべてを包含した革新的な全体小説と位置付け、人間の運命の総体を鳥瞰と微視の超絶的・魔術的な往還をおそるべき情熱とエネルギーを保ちつつ全速力で敢行している。
そのために訳者は叙述の主体をあるときは男性、あるときは女性、琵琶法師、笛吹き、田楽師、またあるときは運命を司る神仏におのれを擬して、その自在な文体と話法でこの広大な物語世界の美と真実をあからめようとしているのである。
「源氏物語」がモノフォニーの長大なカタリであるのに対して、「平家物語」は、武士、皇族、貴族、僧、民草のそれぞれの個個人が、あるときはソロで整然と、またあるときは男女混声で入り乱れ、複合的な多声部で想いのたけを歌うポリフォニーの一大交響楽なのである。
「平家物語」の作者は誰だか分からないが、何よりも魅力的なのはその視線が、弱きもの、躊躇逡巡するもの、最後まで生に執着し、揺れ動きながら敗北し、自滅していく人間の悲哀にぴたりと据えられていることで、まるで現代の先端的な作家がするようにその行状をあますところなく開陳された宗盛、維盛、六代、義仲も以て瞑すべしではなかろうか。
「源氏」はモノフォニー「平家」はポリフォニーで貴族と武士の興亡を歌う 蝶人