照る日曇る日 第923回
げんざい「浜風文庫」を主宰する著者が、若かった(今でも相当若々しいが)1989年に刊行した詩集を読んで、得るところが大きかった。表題作の冒頭は、
二十本の煙草を喫いました。
日中、二十本の煙草を喫う男がワタシです。
で始まるのですが、その次からワタシの対象は女体であり、固く閉じた女の両腿を強引に両手で押し開き、舌舐めずりしながら秘所に向かって下から上へと肉薄する若者の心の臓のおののきが、この単刀直入な欲望詩篇のビートとビミョウにシンクロしています。青春の煮えたぎる欲望の構造が見事に言語化されている。
若さである。
命である。
爆発である。
「キャタピラ」、「ヒタチ赤外線ホームコタツ“ダンラン”」などでもこの主題は執拗に追及されていて、私はなぜか志賀直哉の「暗夜行路」で時任謙作が女の乳房を「豊作だあ!豊作だあ!」と叫びながらもみしだく光景を思い出しました。
人生である。
女である。
豊作である。
人生のこのいっときでなければもう二度と書けない、異性への欲情にまみれた新鮮な光線君が散乱炸裂していて、まことに羨ましい限り。私などは恐らくこの頃一日五十本の両切りのピースを喫うていながら、詩の一行すら書けなかったのですから。
おしまいのほうに置かれた「おひさま」では、一転して子供の視線から一挙に全世界を取り戻すという裏技を披露し、「緑子」では、うわばみがうわばみを喰らい尽くす体の循環詩法がさりげなく展開されている。「あとがき」も非常に読み応えがあります。
それらはとりもなおさず、あえて平凡を装うこの詩人の早熟ぶりを雄弁に物語っていますが、詩人が、二行の連続でおもいのたけを自在にものがたる現在の詩境に至るまでには、きっと私たちの知らない幾多の氷壁への登攀が必要だったに違いありません。
ということで、もうお時間が参りました。
末尾ながら、2014年に無明舎出版から「はなとゆめ」を世に贈った私の大好きな詩人の、新年度の躍進と大漁をせつに願ってやみません。
強風に逆らいながら舞っているよくも出会った雌雄のキチョウ 蝶人