あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

辻和人著「息の真似事」を読んで

2017-01-19 11:52:06 | Weblog


照る日曇る日第927回

私のように古稀になってから詩を書こうと思い立ったおく手の人間にとって、どういう詩をどうやって書けばいいのかというのはじつに難しい問題で、それから2年経った現在も頭を悩ませられる難問です。
しかしこの詩人のこの詩集を手にとって読んでみると、詩ってどんなことをどう書いてもいいんだな、という妙に楽な気持ちになれるから不思議です。

たとえば作者は「ダンスの話」でトイレの話を書いています。職場で猛烈な腹痛に襲われ、激痛に耐え、冷汗を流しながらながら便器に座っていると突然2人のあまり好きでもない同僚がトイレに入って来て、小便をしながら人物の月旦をしている。

便器に腰かけながら作者は、隙間から覗く揺れる薄い影と扉越しに響いてくるちょぼちょぼいう軽い音を聞いているうちに、「音と光のダンスの輪」に入っていうような軽い酩酊感に捉えられて、「死んだ後の世界がこんなだったら どんなにいいだろうな」と思ってしまうという詩です。

私自身は経験したことはないが、作者の語りを聞いているうちに、さもありなん、という気持ちになってくる。

「忘れない」は山手線に乗っていた作者が、原宿駅から乗り込んできたタケノコ族の若者たちと遭遇して、彼らを微細に観察しながら、全身で青春を謳歌表現している彼らに感動する。「山手線を走る電車が原宿を通過する限りぼくは君たちを忘れない」と固く決意する詩です。

つまり作者は日常生活で遭遇するほんの些細な出来事を対象として、それを何気なく観察しながら言葉に置き換えていくのですが、その過程でどこかから新しい光が差し込んできて、ゆくりなくも作者の明日への歩みを照らし出すのです。

しかし作者は、眼前のどんな素材でも、鼻歌交じりに勝手気ままに詩にしているのではありません。

この2篇を読んだ私は、なぜだかラ・フォンテーヌの「寓話」を思い出しましたが、それは上に挙げた2作品に限らず、この詩集の作品の基本的な構造が、「対象化→観察→省察→箴言抽出」というフォンテーヌ流の哲学的なシェーマによってひそかに支えられているからです。

そこで私は作者のことを「平成のムッシュウ・ラ・フォンテーヌ」と呼ぶことにしたのですが、どなたか面白がって頂ける方はいらっしゃるでしょうか。


   家電製品は国産に限る海外メーカーはサービス修理が劣る 蝶人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする