並木浩一・奥泉光著「旧約聖書がわかる本」を読んで
照る日曇る日 第1892回
まだ2回しか通読していない「旧約聖書」だが、本書を読んで、自分はいったい何を読んでいたのだろう、どの個所の何を面白いと思っていたのだろうと、それこそ眼から鱗が落ちる思いで驚愕した一冊であった。
私は「旧約聖書」というのは、いちイスラエルあるいはユダヤの歴史的、宗教的、思想的、社会的ないきいきした民族史だと思いこみ、もっぱらその文学的、物語的、寓話的な側面を愛好してきたのだが、本書を読んで、これはそういうレベルにとどまらない、深遠で普遍的かつ現代思想的な意義をもつ書物であることを痛感させられたのであった。
「旧約聖書」こそ、一地方、民族、宗教の枠を超えた、汎地球、宇宙的と言ってもよい広いパースペクテイブの中心に位置する人類史の原典、ではなかろうか。
と思わず書いてしまったが、そういう一種特別ないでたちの書物だと改めて思わされた。
これまで私は、旧約のカミは、イスラエルないしユダヤ民族単一の神に過ぎない、と思っていたが、どうもそれは一面的な解釈で、ほんとうはイスラエルないしユダヤを含みつつも、その傘の上空に君臨し、諸国、諸民族の全体を統べる全知全能のカミとして位置づけられていたのであった。
だから旧約のカミは、新約のカミよりも、もっと普遍的、人類全体的な存在として定位しているのではなかろうか。
旧約というてもその中身は「創世記」から「出エジプト記」などの歴史書、「サムエル記」「列王記」「イザヤ書」などの預言者の物語、「雅歌」「詩編」などの文学書など、多種多様にまたがるが、画期的、革命的なドキュメントは、「ヨブ記」だろう。
なんせ自分は悪いことなど何ひとつしていない(はずの)ヨブ選手が、ある日突然カミによって財産を剥奪され、家族を殺され、村八分に遭い、疥癬を患い、生きながら地獄の責苦に苛まれるのである。
他の預言者なら黙って耐え忍ぶところだが、ヨブは怒りに燃え、決死の覚悟て立ち上がり、被創造物である己を生み出した全世界の創造者、支配者に対して、「対等の立場に立って」ああ堂々の論陣を張る姿は、それこそ前代未聞の光景である。
ヒトとカミとが全存在を賭けて直接に対峙、対決するモノガタリを平然と載せる「旧約聖書」こそ古今東西唯一無二、空前絶後の書物と称すべきであろう。
神仏を信じている訳ではないけれど困った時は祈るほかない 蝶人