こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

まとめ・・・なにが書いてあるのか、誰が書いたものか(4)

2013年10月04日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
私たち病理医は、病理に関連した知識を、すぐれた教科書(項目数が多く、正しく書かれている)やすぐれた参考書(理解し易く書かれていて、実践的)から得る。
だが、今日、一日に生産される情報量、知識量はきわめて膨大で、これは病理学の世界も例外ではない。

これらの書物をひも解くよりもGoogleでキーワードをググる方が便利なことが多くなってきた。単語そのものをピンポイントで解説してくれるという点で、書物の索引はかなわなくなってきた。
辞書は電子辞書、知らない疾患については、PubMedとなる。
さて、こうなってくると、書物の存在意義そのものが怪しくなってくる。
もう、書物は不要かということだが、私はそうは思っていない。
紙の媒体である書籍は、紙であるがゆえに内容の如何に関わらず存在意義はある。

私が紙の媒体に慣れ親しんでいたから愛着があってこういうのではない。書籍には書籍のいいところがある。
燃やさなければ残るし、それは外から見える。Black boxであるハードディスクはいくら頑張っても外からはわからない。ネットでは解説や画像だって希望のものが必ず出てくるわけではない。

というわけで、出版社さんには踏ん張ってもらって教科書、参考書といった書籍を発行してもらいたい。
ただ、あの、”自炊”?とかいう行為はまずいんじゃないか。あれが、野放図に行われるようなのは、出版業界が気の毒だ。
インターネット上のデータは多くが断片化している。教科書はそれらを編集、統合しているわけで、そういう”人間にしかできない作業”には価値がある。何とかならないだろうか。


とりとめのない話になってきてしまったので、まとめ、という本題に戻る。
教科書にしても、参考書にしても、何が書いてあるかということは大事で、これらは目次、索引に相当する。
だが、どんな立派な項目立てでも、用途に応じていなくては意味がない。誰が書いたかが最後にはものをいう。
学生向けなら、勉強好きで論文を書くのがすきな医者が書いた教科書がいいだろう。だが、日々の診断業務に追われる病理医向けなら、勉強好きだが論文は少ないが、豊富な経験を有する医者が書いた教科書がいいだろう。

いずれにせよ、勉強をよくしている医者であることは前提となる。
この先の医者人生、それほど長くはないが、なにか残せるものが書けるといいと思っている。
その時には、是非ご一読いただきたい。