(昨日のつづき)
リモートワークによって、人間の代替可能性が明らかになってきたと感じる。今、多くの人が直面しているのは
「モニターの向こうは仕事さえできたら誰でもいい」
ということだということだ。
以前勤めていた病院の事務官が
”医者の替わりなんていくらでもいるよ”
と話していたのを思い出した。それ以来、病院の事務職幹部の中にはそんな考えの人がいるのだと心に留めておくようになった。今、コロナ禍で多くの医療従事者が疲弊しているが、政治家や役人にとって末端の医療従事者などいくらでも代わりのきく存在なのだろう。少なくとも"医療を必要とすること"に直面したことがなければ、想像力に欠ける彼らには理解できない。医療に関しては私も関わっているため憤慨もするが、そのほかの仕事については、私もそう考えていることが少なからずあるはずだ。人間にとって自分以外のほとんど全ては代替可能な存在だ。

そういったことはこれまで”倫理的に”封印されてきた。目の前にいる仲間こそ、自分たちの目的を達するために必要不可欠な存在であると思い込んできたが、実はそうではないことがIT技術の発達により明らかとなってきた。リモートワークであれば、その担い手として必要なのは、直面しているタスクを処理する能力だけであってそこに人間的な素養は不要だ。気が利くか利かないかなどどうでもよくて、仕事さえこなせたらどうでもいい。人間でなくてもAIで十分だ。というか、モニター越しには”人間的な”気の利かせようもない。まだ、対面の頃の”思い出”に支配されている人が圧倒的に多いが、今後も、顔の上半分しか見ない付き合いが続けば感情的な繋がりも失われる。

そんな時代に突入し、全てをさらけ出すことができるのは肉親だけとなるが、”田舎に帰る”こともままならなくなり、モニター越しに会話するだけでは、祖父母と孫などという関係も消滅するかもしれない。少なくとも、今3歳ぐらいの子が、モニター越しにみる年寄りをほかの老人と区別して肉親と認識することは難しい。年寄りであれば、だれでも祖父母になることができる。
新型コロナウイルス感染症に対抗するには、人間の叡智の到達点の一つである電脳化技術しかない。リモートワークに代表される対処方法は有用だろう。そのことは人間の代替可能性を顕在化させることになってしまい、それにより今まで思ってもみなかったようなことに直面するかなとになるがそれは致し方のないことかもしれない。
どう生き延びるか