脳梗塞とか脳出血で倒れたら、ほとんどの人が病院で治療を受けることになるだろう。その後の検査で、心臓とか大きな血管にこれらの障害の原因となる病変がみつかったらそれに対する治療も加わる。いずれも高額な治療費がかかるが、その大部分は健康保険に負担してもらうことになる。
誰しもピンピンコロリを望んでいるものの、なかなか思うようにはいかない。
その結果が40兆円。日本の税収が55兆円足らず、国の予算が100兆円足らずということを考えると空前の額だ。
それぞ れの人の健康、命はかけがえのないもので、人に差をつけることはできない。すべての人が健康な生活をする権利があることは憲法第25条にもうたわれている。
そこで、40兆円をどう考え、どうするかを考えなくてはならなくなる。
医療費亡国論を擁護する気はないが、この40兆円に上る医療費が国家を圧迫しているのは火を見るより明らかだ。
今、国が考えているのは未病社会を目指すこと。防ぐことのできる病気を予防しながら生きる。そして消え入るように死んでいく。多くの人がそうやって生きていけたらいいと思うのだが、病気というものいろいろある。そして、誰しもその病気にかかるリスクはある。大きな病気を抱えていない今、考えないといけないのだが、なかなか妙案は思いつかない。
金のかからない医療とは
国民医療費、初の40兆円超え=13年度、最高を更新—厚労省
時事通信 10月7日(水)15時31分配信
厚生労働省は7日、2013年度に病気やけがの治療で医療機関に支払われた国民医療費(確定値)が、前年度比2.2%増の40兆610億円だったと発表した。
年間の医療費が40兆円を突破するのは初めて。1人当たりでは2.3%増の31万4700円となり、医療費全体、1人当たりとも7年連続で過去最高を更新した。
高齢化の進展や医療技術の高度化などが増加の主な要因。労災や全額自己負担の分を除く14年度の概算医療費(速報値)は39兆9556億円だったが、実際には13年度の段階で40兆円を超えていたことになる。
65歳以上の高齢者の国民医療費は23兆1112億円となり、全体に占める割合は57.7%(前年度56.3%)に拡大した。1人当たりでは72万4500円。これに対し65歳未満は17万7700円にとどまっており、約4倍の開きがある。
お花が無くなってしまって家の中がさびしいので、近所のスーパーマーケットに買い物に行くついで買って来てと、妻に頼まれた。
家の花はすべて妻が生けている。私が切り花を買うのは、せいぜい妻の誕生日、母の日と墓参の仏花ぐらいのもので、普段使いの花など買った記憶はほとんど無い。
たいていのスーパーの入り口にお花が置いてあるのは知っている。あれから、いくつか見繕って買ってくればいいのだろうと、出かけた。
スーパーの入り口で見ると、小さな花束がたくさん置いてある。もちろん、ここまでは知っていたが、色とりどりであったとは気がつかないでいた。
ぼんやりと花の山があるようにしか思っていなかった。
どれもそれほど高そうではない花ばかりだが、よく見るとどれもかわいらしい。
お花、一束258円。これが高いのか安いのかはわからないが、大昔デートでプレゼントしたバラ一輪よりはるかに安いのはわかる。2~4本づつラップにつつまれた花たちが、いたいけに感じられる。
選び始めるとどれもかわいらしく、どれにしようかと悩む。
結局、バラの花束とヒマワリの花束の二つを買った。レジのおじさんが「お花の袋どこでしたっけ?」と、花に”お”をつけてベテランのパートのオバさんに尋ねているのを聞いて、何だか嬉しくなった。
家に帰って妻に渡したら、バラの花束を二つにわけ、ヒマワリの花束とで花瓶3つに生けていた。
あっという間に家の中が明るくなって、嬉しい気持ちになった。
たまには花束を買って帰ろう
年をとるということを考える。
30代頃までは、四捨五入ならまだ30歳だ、もう40歳だなどといっていたけれど、50歳を過ぎるようになると、年齢という概念自体あまり感じなくなるようだ。ここ数年の私にとって、年齢は単なる通過点を示す目印であって、定年までの時間や、死ぬまでのおおよその時間を知らせてくれるようなものに過ぎなくなってきつつある。
そして、不思議なことに時間経過自体だんだんと偏って感じるようになる。たとえば、戦後の時間経過。私が生まれた1960年代というのは、戦後わずか20年であり、戦後70年となった今、終戦直後も私が生まれた1960年代もたいして差を感じない。
今年99歳で亡くなった私の祖母など、関東大震災、太平洋戦争そして東日本大震災はどのような時系列で捉えていたのだろう。
長生きはしてみるものだというが、長生きしている人にとってみれば、“長生き”というような感覚は薄れていくのではないかと思う。
子供の頃、夕焼けを見て、自分の人生に寿命などというものはなく、永遠の時間だけがあると感じていた。人の死に接するようになって、人間には寿命というものがあることを知るようになって、今の私は、ちょうど死を意識しながら日々送るようになっている。
もしかすると、この先生き続けると、これまでの人生の蓄積一つ一つが永遠の記憶の中に凝縮されていき、自分の過去は永遠だったような気になっていくのかもしれない。
いつ死ぬのかはわからないけど
今日は朝からいい天気。体育の日、近所の小学校のグランドでは地区運動会が開かれている。号砲やら歓声やら聞こえてくる。
フラットコーテッドレトリバーのナイトを連れて海に行った。行った先は逗子海岸。浜辺からは江ノ島と富士山がよく見える。
富士山で昨日初冠雪が観測されたというニュースがあった。富士山の初冠雪は去年より5日早く、平年より11日遅いとのこと。
海に来たのは8月以来。多くの人が三々五々、浜辺や海で遊んでいる。
海が大好きな犬。ロングリードに付け替えた途端、一目散に海に入って行った。
私たちも持って来ていたボールやおもちゃで2、30分ほど遊んだ。
いい天気で、ずいぶん楽しんでくれたようにみえる。散歩と違った意味で、いい運動になったのではなかろうか。
さしずめナイトにとっての体育の日。種目はもちろん、水泳。
毒親という言葉があるのを最近知った。
どんな親かというと、自分中心で、価値観を子供に押し付け、子どもの人格を否定する、常識がなく、周囲を傷つける言動を繰り返すような人のことをいうらしい。
自分がそんな子育てをしてこなかったかというと不安だが、息子も娘も大きくなってしまったのでいまさらどうしようもない。
先日、半年ほど前に子供が生まれた知り合いの家に、その赤ちゃんをみせてもらいに、お祝いを持って遊びにいった。
その赤ちゃん、すくすくと丸々と玉のように育っていた。まずはなによりだ。お宅にお邪魔して思ったが、子育てというのはずいぶん大変なことなのだということをあらためて目の当たりにした。
というのも、子供というのは赤ちゃんの頃から親をみて育っているのだと気がついたから。当たり前のことだが、親は子の鏡、親となると、子供の視線があるということをいつも自覚していなくてはならない。
そこで毒親。親に毒をつけるというのもどうかと思うが、たしかに常識がなく、周囲を平気で傷つけるような人が親にいたら、子供はそれを当たり前だと思う。それだけでも子供にとっては毒だ。
放っておいても子は育つなどというがとんでもない。子からの視線というものがいつもあるということを考えていなくてはならない。子を持つ親はそういう自覚が必要だ。
となると、今の若い人はそれは結構面倒なことでわざわざ子供を持つ必要があるのかと思ってしまうのかもしれない。
こう考えてしまうのは年のせいだろうが、どうせなら若いうちに身構えずに子供を持ってしまうのがいいのだろう。と、ここまで考えて、将来いやな舅にだけはならないようにと決意するのだ。
SNSのうち、私はFacebook、Twitter、LINE、読書メーターを使っている。このブログもSNSに近いものとすると、5種類になる。これは、2年半前(「わが家のSNS事情」2013年3月31日)とあまり変わっていない。
それぞれに特徴があって好き嫌いもある。それぞれ対象とする人数も違うので内容には差を付けなくてはいけないのだが、うっかり区別を間違えてしまうことがある。
一番使っているのはLINEで、私の場合9割以上家族間だ。もっぱら、昔あった”カエルこーる”の代わりにLINEで帰宅を知らせるのがほとんどだが。LINEの場合、誤って他の人にトークしてしまって、恥ずかしい思いをすることがある。誰かを望んでもいないグループに入れてしまった時の気まずさというのもある。私が使い慣れていないのがいけないのだろうが、当たり前のように使っている若い人たちはよく間違えないものだと内心思っている。
Twitterは”炎上”がおっかなくて、ツイートはした記憶が無い。いや、はじめた頃に一度か二度したことがあるかもしれないが、ずいぶん昔のことでもう忘れた。私のような発言力の無い人間のツイートが炎上を招くようなことはまず無いと思うのだが、もともと口が軽い人間であり、いつおかしなことを書いてしまうかわからない。やめてしまえばいいのだろうが、面倒なので、そのままにしている。とはいえ、このブログのTwitterとの連携は使っているので、ブログをアップすると自動的に私のツイートになるようだ。Twitterはブログと同じようなものだと認識して利用している。
これに対してFacebookへの自動投稿はしていない。最近、Facebookが”いいね”を無理矢理押させようとしているように感じられるようになり、違和感を感じてしまうのと、一応は顔見知りの”友達”に日々のあれこれを無理矢理読ませるのもどうかと思うからだ。それなりにいい文章が書けたときには読んでいただこうと、Facebookに投稿する。Facebookを読んでいて、華々しく活躍している人が、投稿しているのを読むとなんとなく淋しい思いがしてしまう。羨望というか、嫉妬というか、そういう感情を自分が持ってしまうのが嫌なので、以前ほどは投稿しなくなっている。複雑なものだ。
親しい知り合いには、ブログをやっている、ブログを読んで、などといっているので、このブログの匿名性は低い。それでも、いろいろ気を使いながらほかのSNSと使い分けている。こうしてみると、われながらずいぶんとせせこましいことに気を使っているものだと思えて、少々可笑しい。
今生きていて、私は幸せか。
なにをもって幸せとするか、その定義づけは難しいが、少なくともこれまでの五十年あまり平和な日本で育って来ることができたというだけでも、相当な幸せだ。これに、今朝何事もなく目が覚め、仕事に出掛ける前に犬の散歩に行くことができる。これ以上の幸せがあるだろうか。こんな幸せを日々、大事にし、しみじみと感じながら生きていけば、いろいろと面倒なことがあったとしても、それほど気にする必要はない。
当然のことであるが、この先生きていけば、いろいろな別れがやってきて、遅かれ早かれ今ある幸せは否応なしに失われてしまう。けれども、それを埋めてくれる別のものが必ずでてくるだろうし、たとえそれが目に見えないものであっても、希望は残る。
生きていると、思いどおりいかないことばかりのような気がする。それは身の回りの小さなことから社会全体の大きなことまでなんでもそうだ。
だが、どれもたいした違いはない。そういうことはたいてい、人間関係に基づくもので、すべては生きているかぎり逃れるすべは無い。
どれも、『隣の芝生は・・・』のようなもので、うらやましく思ったりすることからはじまる。
思いどおりにいかないことから逃れようがない、などと考えることも意味があまりない。結局のところそれは、他人への嫉妬だったり、自分が勝手に妄想する他人からの視線だったりするのだから、自分でそんなこと考えるのは止めたらいい。
それでも、そのように考えてしまう局面はある。そして人間たるもの、命ある限りその局面局面を、あれこれ考えて乗り切って生きていかなくてはいけない。
思いどおりにいかないことに出会ってしまったときは、「ものごともともとこんなものなのだから」と一晩考え、朝起きたら別の道を考える。
一晩寝たら、嫉妬も妄想もだいぶ薄れる。
そんなふうにしたらいいのだと思うのだけど、どうだろう。
二日続きのノーベル賞受賞の報は日本の科学的水準の高さを改めて実感させられることとなった。
テレビに映っていたスーパーカミオカンデの美しさは息をのむほどで、あのような素晴らしい装置を作った研究者とそれを支援した行政の努力は相当なものであったに違いない。優れた科学者の努力なくしてはなしえなかった偉業とはいえ、あの装置があったからこそのノーベル賞と思うと、国でもらったとも思えて、日本国民として誇らしい気持ちになる。
今朝のラジオで、キャスターが今回のノーベル物理学賞の受賞した梶田隆章教授の東大宇宙線研究所の”宇宙線を宇宙船、すなわちUFOの研究所だと勘違いしていたという笑い話があった。
宇宙線にしても、宇宙船にしてもわれわれ門外漢からしてみれば大して変わらない。仮に、「地球外生命体の研究」で、何かの賞を誰かがとったとしても、それはそれで受け入れるだろう。それはさておき、このような素晴らしい研究者が同じ国にいて、素晴らしい研究成果を挙げ、ほんのさわりだけでも、その研究の一端に触れることができるというのは、科学文化の発展のためこの上ない環境であり、決して絶やしてはいけないものだ。
TPP(環太平洋経済連携協定)交渉が日本時間の昨日大筋合意に達した。太平洋を囲む12の国々が参加する世界最大規模の経済圏で、世界経済の40パーセントを占めるとのことだ。まずは、われわれ日本もその一員としていることを喜ばしく思うべきだろう。
なによりも環太平洋という地域、地球上のとても広い部分を占めている。いろいろな意味で圧倒的な存在となるし、参加国はそのために必死の交渉を繰り返してきたに違いない。この地域の国々は温暖な気候にも支えられてか、比較的穏やかな国が多いように思う。政治的にも比較的安定している国がほとんどで、持続可能性は高いだろう。
今年のノーベル医学生理学賞が北里大学の大村智さんに贈られるという朗報も同じく昨日発表された。人のフィラリアの治療薬を開発して数億の人の健康を守ったとのことだ。テレビではある解説者が、とるとしたら平和賞だと思っていた、というほどの国際貢献だ。
人類にとってきわめて有益なことをされたというのは、ご本人の思いと一致していて素晴らしい。
TPPも経済圏の創出にとどまらず、世界平和に貢献してもらうようになってくれたらこの上ない喜びとなるだろう。
平年並みのようだが、朝の気温がぐっと下がってきた。本格的な秋だ。犬の散歩には行くことができたが、ほんの15分ほどだからと見くびって薄着ででかけたのは失敗だった。明日からは短パンはやめることにした。
この時期、通勤の服装が悩ましい。わたしの場合、駅から病院まで35分歩き、歩いているうちに汗ばむほどとなるので、少し薄手にしておきたい。通勤電車も、混雑すると結構暑い。重ね着をして調節を、といわれても脱いだ上着を手で持って歩くのは思いのほかうっとうしいものだ。
今朝も、仕事に出掛けるときは長袖シャツだけでいいと思っていたのだが、妻にセーターを着るように言われた。散歩の時のことを思い出して、少々余計だと思ったが、忠告に従った。今シーズン、初セーター。
厚着で通勤電車は車内温度とちょうどよい按配だった。見渡せばサラリーマンのほとんどは背広姿で、私のような者もジャケットを着ている。みなさんちゃんと衣替えしている。乗り換えで、混む電車に乗ったらいつも以上の混雑、着ぶくれも始まってしまったようだ。学生が多い路線で、みんな上着を着ている。そんなところ、非常停止ボタンが押されたとかで、電車が止まってしまった。ちょっとあわててしまったが、じきに動き出してことなきを得た。
4分遅れで、次の乗換駅に到着した。これって、多分すごいことだと思う。
駅を下りてからは、ちょっと冷たい風に打たれながら歩いて出勤。病院手前の坂をあがったところで汗ばんで来て、セーターを脱いだら少々寒かった。
しばらくは、こんな上がったり下がったりの日が続くのだろう。
マルチーズのコロの散歩嫌いについてはこれまでにも何度か触れている。これは今でも変わらない。
今朝、フラットコーテッドレトリバーのナイトの散歩に出かけようとしたら、コロが玄関のところまでやって来た。なんだか、いつもと様子が違う。
「コロ、散歩に行く?」と聞くとそこにいる。いつもは、脱兎のごとくどこかに行ってしまうのだけど、今日はそこにいる。これは散歩に行きたいに違いないと思い、すぐにコロの首にリードをかけた。
いったん歩き出せば、ナイトの半分ほどのコンパスを猛烈にまわして歩いていく。
美しい紅葉が有名なお寺の山門で記念写真。
道ですれ違う顔見知りの犬の飼い主さんが、驚いたようにコロのことをみる。
「白いワンちゃんもいたのですか?」「ええ、もう9歳で、散歩嫌いなんで、なかなか出てこないんですが、今日は散歩日和だったんでしょうかね」と妻が説明している。
コロが病気がちになって、心配していたが、今日の様子ならまだまだ大丈夫そうだと安心した。
真っ白な犬なので、散歩から帰ると足がずいぶん汚れてしまうのがちょっと困るが、よく拭いてから家に入れる。
写真、変えようか
源氏物語、ついに『幻』まで読み終えた。光源氏、52歳。奇しくも私と同じ年。感慨深いものがある。
ところで、先日、福山雅治さんが吹石一恵さんという女優さんと結婚すると発表してたいへんなニュースになっている。私でも、福山さんのいい男ぶりにはうなずける。人なつこそうな笑顔は素敵で、世の女性達の心を鷲掴みにしているのはよくわかる。歌手としてもそれなりのもので、桜坂は好きな曲だ。写真家としても活動しているそうだ。で、思ったのは、そのような多才な福山さんは歌舞音曲も一流であった光源氏に通じる男だということ。
福山さんと吹石さん二人の年はそれぞれ46 歳と33歳、一回り以上の年の差だ。14年前にはすでに知り合っていたといい、その頃から惹かれていたのだろう。一回り以上も年下の女性をずっと見守り続けてきた上で、結婚するとはまさしく、紫上のようなあつかいだ。源氏が紫上を見いだしたのが18歳のときで、紫上は9歳。契りを結んだのはその5年後だった。見初めた女性としっかりと愛を育んでいたというところまで、光源氏に通じるものがある。
幸せな家庭を築いてほしい。
2015年9月の読書メーター
読んだ本の数:4冊
読んだページ数:992ページ
ナイス数:164ナイス
謹訳 源氏物語 七の感想
光源氏の一代記はここまで。柏木、夕霧は伝説的いい男のそれぞれの両親(頭中将、光源氏)にあやかれなかった哀しいジュニア。生真面目で不器用な男たちの話は、このあとどうつながるのか。宇治十帖が楽しみ。紫上の女性の生き方の難しさへの感慨は当時も今も変わらない。紫式部がこうして指摘していたのに驚く。女性の生き方、いかなるものが理想か。そして、源氏。後悔先に立たず。紫上をもっともっと大事に慈しんでいたら良かったのに。ベタだけど、男女の仲、結局互いの信頼で、そのことで相手に不安を与えないことが大切だと感じる。
読了日:9月30日 著者:林望
謹訳 源氏物語 六の感想
若菜。ついにここまで読み進めてきた。平安セレブリティ物語もクライマックス。この物語、源氏による女性の定点観測のように読んでいたが、左大将、衛門の督の描写は若かりし頃の源氏と頭中将のうつし絵、男性心理の描写が細かくされている。紫式部が女性の心理を上手く描写するのはよくわかるが、男性の心理もこれほど細かく描いたとは。明石の入道、朱雀院の物語もしみじみとする。 朧月夜との関係は、今も昔も変わらない不倫話。ずるずるといつまでも引きずられ、最後は女性の決心でしか終止符がうたれないということも同じ。
読了日:9月25日 著者:林望
スクラップ・アンド・ビルドの感想
火花とあわせて文春で。芥川賞作品は大抵そうしている。西村賢太はあとで買ったが、あの人今、どうしているのだろう?やっぱり、リア充で駄目になってしまったか。それはさておきこの作品、ありがちな、読んでいてつまらなくなるだけの人の日々の営み。人生のベテランの祖父は名実ともに老獪で、まだまだ若い孫はまんまとその術中にはまる。羽田圭吾さんというのは器用な作家さんだなあと感じられた。字数制限でもあったのだろうか、せっかくいくつもの伏線を張ったのだから、もう一つか二つ、盛り上がりがあってもよかったのでは?
読了日:9月14日 著者:羽田圭介
火花の感想
花火に始まり花火に終わる。未だにタイトルが火花か花火なんだかわからない。展開は陳腐だったが、引退舞台は泣き笑い、それなりに楽しめた。言葉遣いは丁寧で、難読語も少々。つなぎも完璧、勃起描写もあり、芥川賞としては完璧。太宰にコツを教えてあげていたら、みっともない手紙を書かずにすんだろうに。著者が芸人さんということが邪魔して、徳永の様子が制限されたのは少し残念だった。なぜ、花火ではなくて火花ではなくてはならなかったのかは最後までわからなかった。タイトルはどうでもよかったのではないか。高樹のぶ子の選評に一票。
読了日:9月12日 著者:又吉直樹
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