全3回
全3回
(昨日のつづき)
がん患者をがん細胞に対する宿主、というのは正確な言い方ではないと思う。宿主というのは寄生生物が寄生する相手の生物のことであって、がん細胞の場合はもともとというか、最後まで自分の細胞なので、寄生しているわけではない。ウイルス感染に伴うがんなどはウイルスを寄生生物と考えたらそうでもないかもしれないが、基本的にがん細胞は自分自身である。そして、がんに対する治療を何もせずに放っておいたら、最終的にはその個体、担がん者を死に至らしめてしまう。
がん細胞にとって、これでは自殺行為ではないか。何のために、そんなことをするのか。何か理由があるはずだ。がん細胞はがんになりたくてなるのか、ほんとうはなりたくなかったのか、そこがわからない。
発癌のメカニズムにあまり興味がない病理医ががんの話をするのは、おこがましいことかもしれないが、なんで、がん細胞は、あんなに醜い姿をして、ものすごい勢いで増えて、周囲臓器に浸潤していくのだろうと思うのだ。がん細胞を見ると、それぞれの細胞の叫び、というか何かを語りたがっているのではないか、という気持ちになってしまった。
国民の二人に一人はがんになるといわれる時代。その理由は社会全体の高齢化が原因だ。私の勤務先でも、以前ならば症例報告もののような、高齢者の様々な手術検体が病理診断に頻繁に出てくるのをみてたびたび驚く。90歳を越えていても、大きな手術に挑戦する人は少なくない。80歳を過ぎるようになればがんが生じても何らおかしなことはない。だから、高齢化社会が続けばがん患者がどんどん増えていく。高齢者だけでみたら、がん患者は二人に一人どころでは済まないのではないか。というか、心筋梗塞、脳出血とか感染症がなければ最後はみんながんで死ぬのではないだろうかと思う。
老化に伴ってDNAに傷がついてがんが生じる、そのメカニズムにのっとれば高齢者に癌が多いのは頷けるのだが、果たしてそれだけなのだろうか。若い人に生じるがんも、何らかの傷がDNAについて生じたのだろう。小児がんの場合は、先天的な遺伝子異常が原因となることが知られている。この場合は一般的ながんとは、発症のメカニズムがちょっと違うから、今回は取り上げない。それにタバコが原因の肺とか舌など頭頸部の扁平上皮癌とか、ウイルス感染が原因である子宮頸癌とか発症メカニズムが明らかとなっているがんについては、今回は取り上げない。
(つづく)
防ぐことのできるがんは防ぎましょう
がんの病理診断をしていたら、”がんは何のためにがんになるのか?”という疑問が頭に急に浮かんだ。
がんがなぜ発生するのか、それまで正常に振舞っていた細胞がなぜがん化するのかということに関する研究、すなわち発がん研究というのはこれまでにたくさんされてきている。がん”研究”の専門家ではない私が知らないことはやまほどあるだろうから、この先の話に不備というのであれば助言してくださる方がいると助かる。
それはさておき、がん化すなわち発がんのメカニズムがわかれば、がんを未然に防ぐことが可能となる。最近ではがん化した細胞が暴れることを抑え込む方法もわかってきた。さらには、がん細胞がどうやって体の中で生き延びているのかということもくわしくわかってきている。そういうことの積み重ねで、多くの人をがんによる死から救うことが可能となりつつある。
がんにもいろいろあるからそれぞれのがんの発症メカニズムは異なる。単純に考えたら正常の組織の、そのうちのただ1個の細胞が、遺伝子異常を獲得してがん細胞となる。1個のがん細胞は次々と分裂し、巨大化していく。巨大化すなわち増殖するうちに様々な姿をとり、やがて、がん細胞は周囲組織へ浸潤し、血管を破壊し、リンパ管を破壊し、神経を蝕んで、そののちに肺や肝臓、脳などに転移して、自分の住処である人間を殺してしまう。
私たち病理医の仕事は、このあたりの診断を行うことだ。すなわち、生検やある時は細胞診などの最初のがんの病理診断で、そのがんが癌なのか肉腫なのかを判断する(癌と肉腫の違いについては超微形態学的診断に関する総論的事項2013年07月23日 をお読みください)。そして、それが癌だとすれば、病変を手術で切って、そのがんが乳癌として合致するか、大腸癌として合致するか、肺がんとして・・・、とそれぞれの臓器のがんとして合致するかを確認し、脈管侵襲の有無、リンパ節転移の有無をチェックして診断していく。この後もフォローアップとか再発診断などが行われるし、患者さんが亡くなったら病理解剖を行うこともある。
ということで、病理医は病理診断を行なって、ほぼ毎日がんの臓器、がん細胞と顔を突き合わせている。
で、ある日、顕微鏡のレンズの向こうにいるがん細胞が何を考えてこんな姿になったのかという疑問が湧いてきたのだ。
(つづく)
君たちはそこで何をやっているの?
つい最近まで、道ゆく人、隣に座っている人、テレビの向こうの人、どの人も悩みなんて一つもなく生きているのだと思っていた。悩んでいるのは自分だけだと。
ところが先日、本屋に入ったら、生き方に関する本とか自己啓発本、悩み事に関する本、宗教関連本などがうずたかく積まれていることに気がついた。もう、出せば売れるという感じで置いてある。
あれ?こういう本がたくさんあるということは、それだけ売れているということ?
20代は漫画を随分読んでいたけれど30代になり漫画にも飽きた。その頃には職場での人間関係にあれこれ悩むようになりそういう類の本を読むようになった。それから20年間、もちろん普通の小説も読んだけど、人生読本にはじまり嫌な上司と付き合う本というようなのまで随分読んだ。100冊はくだらないのではないか。つい最近も、カーネギーの本、アドラーの本を読んで、感銘を受けた。
これまで、平積みで売られているそういう本は私のためだけにわかりやすく置かれて売られている、そんな感覚だったが、それはもちろん違うということを、先日見た本屋の風景で認識したのだ。
私がこれまで買ってきたそういう類の本というのは、私だけが買ってきたものではなかった。
私以外の何千人、何万人という人がこういう本を読んで、それぞれの悩みと対峙していた。道ゆく人、隣に座っている人、テレビの向こうの人、多くの人が悩みながら生きて、解決法を探しているのだとわかった。
あれ?自分だけじゃないんだ。
そう考えると、”悩む”ということ自体がとても不要なことに思えてしまう。種類こそ違え、誰もが悩むのに、殺さら自分が悩む必要などあるのか?
”悩む”ということは自分主体で行うことで、それならば悩まなければいいのだ。
対人関係では、相手に期待してはいけない。自分を評価するのはあくまで相手であって、自分ではない。
なにか手助けを必要としているように見える人がいたら、自分の判断で手を貸す。でも、見返りを期待してはいけない。
今日は悩みについての話ではなくて、”人間誰しも悩みを抱えて生きている、ということが最近やっとわかってきた”という話なので、悩みについては、また別の機会にすることにします。
上手に生きるのは簡単
台風一過のようなスッキリした青空に恵まれた。電車の外の景色は春うらら。富士山もくっきり見える。
時間がなくて青空の写真に収められなかったのは少し残念。その分は少し撮りためておいた庭の春の花の写真を。
花の旬が1週間程度とすれば、その週に撮った写真は1週間以内に載せなくてはもったいない。なんでも、この花は妻も植えた覚えがないということ。
花好きのお隣さんの庭からやってきたのかもしれない。
今日は少し時間があるので、溜まりに溜まっている仕事を片付けることができそう。
書き入れ時、という言葉があるけどこれは、”商売で売れ行きが良い時には、取引の数字などを帳簿に書き入れることが多くなること”に由来するそうだ(語源由来辞典より引用)。
病理医の場合は、いつも診断書を書いているから、ある意味四六時中書き入れ時だが、今日は他の仕事も含めての書き入れ時となりそう。
というところまで書いたのだけど、そんな必要はないのかと考え直し、"今日は書き入れ時"としていたタイトルを書き換えた。
頑張る必要は無いのだと、最近考え方が変わってきた。
これでいいのだ
コツコツやろう
渋谷のスクランブル交差点のど真ん中にベッドを置いて寝るという動画がユーチューブに投稿され、その行為が問題になっているという報道があった。テレビで放映されていたそれは、ミュージックビデオにでも出てきそうな動画だったけど、事情を知らない人の間で行ったらやはり迷惑だろう。乳母車を押している人とか車椅子を使っている人とか目の不自由な人とかがいたら大変な迷惑になったに違いない。
YouTubeとかそういったものに、投稿し、評判が良ければ再生されて、数万、数十万と再生される。アイディア次第で、一躍世界的な有名人になる可能性がネットの世界にはある。そうしたい人がそうすることはいいのだけど、度が過ぎたらそれは迷惑な話となる。そういうことをして自分の名前を世に知らしめようという人は、それで迷惑を被る人への想像力が欠如している。自分が白杖の身となり、目の前にベッドがあるのもわからず、それにぶつかってしまったりしたらどれほど情けない思いをするか、そんなことは全く考えられないのだろう。そんな人が人気ユーチューバーということ自体、間違っている。
そういう、自分の愉しみとか自分の評判が行為の第一義的目的であって、その行為で迷惑を被る人、そのビデオがどれほどの毀誉褒貶似合うかということは関係なく、再生回数という表層的なことのみが目的となっている人が賞賛される世の中というのは正しい社会の姿とは思はない。
その”注目を集めたい”、という気持ちは誰にでもあるものだ。虚栄心と言ってしまえばそれまでかもしれない。その虚栄心は私にもあって、ここでわかったようなことを言っていても、前の日のアクセス数を確認するのは朝の日課となっている。
私として気をつけていることは、医者という、科学者の端くれである自覚はあるので、フェイクというかあやふやなことは書かないように気をつけている。でもそうなると、医者のブログというのに、医学的専門事項がほとんど書けない。自分の専門領域の話を書き出したら、自分が誰かということが割と簡単にわかってしまう。それはそれでいいのだけど、そうすると今度はいつどこで患者さんのプライバシーにつながることが発生するとも限らない。結果として、医療関係の記事は匿名化された範囲内で行うこととしている。
医学関係の話を書けないとなるとあとは想像の範囲で書くしかなくなる。だから、”ではないか?”とか”どうなのだろう?”とかいう言葉が増えてしまう。いっそ、小説形式にして自分の思いを主人公に託してしまうという手もあるけれど、そうするとそれはあくまでもフィクションの世界となって、私の書きたいこんきも、ではなくなってしまう。
過激なユーチューバーならまだいいのかもしれない。アメリカなどでは政治家同士の足の引っ張り合いで、ありもしない動画が作られたり、フェイクニュースが流されるということは日常茶飯事のようだ。正誤含めてありとあらゆる情報が区別なく列挙提示される時代となって、私たちはより真に正しい情報から遠ざけられつつある。
テレビや新聞の力が衰えているというけれど、ある意味彼らには真実に基づいた報道を行っていくという活路があるのではなかろうか。今は、混沌とした状況だけど、そのうち、真実が注目される時代が再びやってくるに違いない。でも、時の政権に忖度しないで偏向報道とか、そういったものを排除した上でのことだけど。
私の視点、それぞれの視点
以前、息子が”フツーに・・・”というのを聞いて違和感を覚えたことがあった。『君のフツーは、ほかの人にとっての普通ではないよ』といいかけたけど、今時のワカモノの言葉なのだろうと思って、そのままにした。街角とかテレビでも、若い人が”フツー”というのをよく耳にする。これって、もしかしたら”みんな・・・”と同じような用法なのかもしれないと思う。
それはそれでいいのだけど、私がこの言い方を聞いて違和感を覚えたのは、おそらくこの用法がとても視野の狭い使い方のように聞こえたからではないだろうか。「普通」というのは広辞苑によると”ひろく一般に通ずること”という意味だ。だから、自分よりも未熟で経験のない人が、普通そうでしょ、というのを聞いてちょっとムッとしたのだろう。
若い息子よりも私の方が経験が多く、より多くのことを知っているというわけはない。むしろ、”フツー”といわれたのは、スマホだのSIMカードの使い方とか、NBAとか大リーグの話だったような気がする。そうだとすると若い人の方がそういうことの普通をよく知っていることになる。
このことからわかったのは、君のフツーが他の人の普通ではない、ということではなく、私のフツーが他の人の普通ではないということだ。普通という言葉を”常識”に置き換えてみたらどうだろう。私の常識は他の人の常識ではない、となる。
”それ、普通でしょ?”とか”それ、常識でしょ?”などという言い方をよく見かけるけど、”普通”も”常識”も疑ってかからなくてはいけない。そして、自分自身が”普通”だとか”常識”だと考えていることが果たしてそうであるのか、いつも疑ってかからなくてはいけない。社会の多様化はますます進んでいく。”普通”とか”常識”という言葉を使う時は十分注意しなくてはいけない。
世の中で真に正しいことはとても少ない
フラットコーテッドレトリバーのナイト、去年の秋脾臓の血管肉腫破裂という相当深刻な状況を乗り越え、昨日9つの誕生日を迎えることができた(ナイトの手術のこと2018年09月03日 )。
明るくなるのが早くなったということもあって、先日は駅まで歩いて送ってもらった。ずいぶん元気になったものだ。
動物病院の先生のおかげで手術も術後の化学療法も上手くいって、余命数ヶ月というのを乗り越えることができたのは私たちにとってこの上ない幸運だった。散歩の途中で立ち止まった時に尽きていたかもしれない命が半年も延びた。犬の寿命の半年は人間の4、5年ということを考えたら、神様と獣医学の進歩に感謝する(ナイトの半年と私たち人間の半年2018年09月24日 )。
今日はコロとナイトと一緒にゴロゴロ休んでいたかったのだけど、午後から都内で研究班の班会議。私にしても、忙しくてずいぶん疲れている。
そう考えるとあとどれだけの間、一緒にいることができるかはわからないけど、お互い楽しく暮らしていきたい。
段葛はスゴイ人出でした
桜もいよいよクライマックス。散りゆく桜の花びらにてをだしてしまうけど、なかなか上手にキャッチできない。
今年もブログには千鳥ヶ淵や鎌倉の段葛の桜の写真を載せたけど他にも、美しく咲いている桜を通りすがりに数多く見ることができた。日本の街は桜とともに育ってきているから、どこでもしっくりくる。
写真に撮ることができたのはごく一部だけど、それぞれを見るだけでもその時々の思いが蘇ってくる。
多くの花見客がいて、アルコールの匂いと喧騒の中でも桜は静かに咲いていた。
ショッピングモールに出入りする人の安全を見守っているよう。
桜の花と電車の後ろ姿を一つのアングルに捉えようと思ったら、離れていく電車の陰から撮り鉄出現!
都会のオアシスのちいさな公園。新緑も芽吹き始めている。
病院前の桜も満開
また来年も美しく咲いてね
あっという間に、4月が始まった。年が明けてからはずいぶん忙しかったけど、なんとかやりすごすことができた。それにしても、毎日忙しい。病理医が足りないというのが、最大の原因。中堅以上の病理医5、6人で取りかかっても、大学病院1施設を回すのはギリギリだ。
ところで、医師の残業時間の上限というのが一般労働者と同じ、年間960時間と制限されることになりそうだ。これなら、月80時間で、日に3、4時間ということで、なんとかなる。2024年からのことだからまだしばらく先のことだけど、これで一息つけるだろうかと思っているのだけど、患者が減るわけではないので仕事量は減らない。どうしたらいいのだろう。病理医はいっこうに増えていないことを考えると暗澹たる気持ちになる。
さらに心配なのは地域医療のために長時間労働が必要な場合とか、研修医など集中的に技術向上が必要な場合とかは、残業が年間1860時間まで認められるという。これだと、毎日5時間ぐらいの残業となる。
そもそも過労死ラインが月80時間で、1860時間となると、月155時間て、これ何?過労死ラインを倍近く上回っている。
若い医者は精神的に強いが、その精神的に強い時代というのはそれほど長続きしない。初期研修は1、2週ごとに科を変わるので、波があるだろうからなんとか乗り切れるだろう。私の勤務先は病理はほぼ9時5時で1週間だ。でも、後期研修以降は本格的に忙しくなる。そして、精神的にタフでいられるのは、せいぜい30歳台いっぱいではないか。40歳を過ぎても頑張ることのできる医者もいくらでもいるけれど、それはある程度まとまった人数がいる施設・部署であって、責任が分散されてなくてはいけない。”地域医療のために長時間労働が必要な医師”も1860時間が上限となるそうだけど、3、4人で回しているような小さな部門などはそういうことでやっていけるのか心配になる。
役人は医者が一人二人死んだところで、代わりはいるとでも考えているのだろうが、そんなことをしたらただ単に、時間通りに働くことのできる科に人が流れていくだけで、内科外科小児科産婦人科といったメジャー科のなり手が減るだけだ。
厚労省は医局制度を解体して、ほとんどすべての医師を支配下に置いてコントロールしようとしている。昔の医局制度が残っていたら、各施設にちょうどいい塩梅に人数配分をしていた訳だけど、今はもうそれはできない。医局制度の解体は自体はいい面もあるから、最後まで責任を取って医療改革を仕上げてもらはなくては困る。実際、大学教授の人事権は未だ絶大なものがある。
最初に書いた通り、病理医不足の解消も、喫緊の問題だ。病理医の数は増えないのに、医療の高度化とともに仕事量がどんどん増えている。以前ならわからなかったことが当たり前のようになってきて、そういった細かな診断がどんどん増えているからだ。
私の周りで話題になるのは、病理医がどこにいるかということばかりで、病理医が足りているという話はどこからも聞こえてこない。
もう、へとへと
夢の話を人にはするな、というのは私が尊敬しているかつての上司の言葉だ。この人は、精神分析などについて興味を持って一時期夢についてずいぶん勉強したことがあったそうだ。私が、夢の話をした時に、人にそういうことは言わないほうがいい、と言われたのだが、この先の人生もそう長くはないわけで、いまさら自分のキャラクターがどうであろうと知ったことではない。それにそもそも夢の話だし、よくない夢はすぐに忘れてしまう。
しばらく前に見た夢は、家族4人とコロとナイトで仲良くハイキングしているというものだった。家族仲良く一緒にいるというのは吉夢だそうで、まだ忘れていない。
ところが、昨晩少々苦しくなる夢を見た。
その夢というのは、医師国家試験の受験勉強をしている夢で、試験まであと1、2日ぐらいしかない状況。
私が苦手な疾患について詰め込もうとしているのだけど、夢を見ている本人が苦手な疾患についてだから、一体何が書いてあるのかてんでわからない。一緒に勉強をしている友人が、参考書のどこそこに書いてあるから、そこをやったらいいとアドバイスをしてくれ、慌ててそこをチェックしていたところで目が覚めた。
その苦手な疾患が何かということは置いておいて、一緒に勉強していた友人というのが仲の良い現在某大学の教授をしている医者だった。
試験の準備をする夢、というのは知識欲のあらわれでそう悪いものではないらしい。登場人物については調べてないが、おそらくはその友人への尊敬の念のあらわれなのだろう。
あせって勉強していたというのが、少々気になるが、実際その疾患の診断となるといつも緊張してしまうので、仕方あるまい。病院に着いたら、さっそく教科書で勉強しよう。あせって勉強するというのが学生時代と同じというのがちょっと残念だ。
あれも、これも
新元号は令和。美しい字といい響きですぐに気に入ったのだけど、私の周りでは、これがあまり気に入らない人もいた。「令って、命令の令ですか?」と、字を見る前に聞き返された。つい私も、「そう、号令の令」と応じてしまった。私は流されやすい人間なのだろうか。
あとは、大宝律令の令と言う人もいた。色々な受け止め方がある。
”れい”というと、3年奇面組の一堂零を思い出す。無茶苦茶な中学生だったら、あの漫画どうなったろう?起立、気をつけ、”れい”、もある。この先の日本人の生き方が、堅苦しいものにならなければいいが。ちょっと心配。出典は万葉集ということだから、おだやかものとなってほしい。
先月は、アドラー本2冊。
大切なのは、自分を大切にすること、自分は自分のために生きているということを理解し、自分を第一に考えるということだと思うが、周囲との調和をどう取っていくか、それがなかなかむずかしい。
読んだ本の数:3
読んだページ数:888
ナイス数:85
幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えIIの感想
前作、嫌われる勇気、からのアドラー心理学理解のための作品。課題の分離を基本とし、人生のタスク、信頼、そして愛。前作に比べると、インパクトは少ないけれど、そのベースの上で読み、理解はより進んだ。人間が変わるのにタイムリミットはあるけれど、それは寿命をむかえる、その前日までにある、というアドラーの言葉、人生、決して捨てたりしたらいけない。
漫画版で少し理解しておいたのが助けになった。いきなり読んだら、もっと強いインパクトがあったかもしれないが、よく理解しようと思って読んだことだから、これでよかった。なにかのコマーシャルで、人生、いつだって真剣勝負、というようなコピーがあったけど、人生が微分積分であると理解するといいのかもしれないと考えた。55歳からとなると、生きているうちに生き方、考え方を変えることは難しいかもしれないが、やらないよりはやった方がいいに違いない。一瞬一瞬を真剣に生きたら、死ぬ頃には幸せな人生をつかむことができるかもしれない。
元号は時代を映す