こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

注目を集めたいと思う気持ち

2019年04月09日 | 電脳化社会

渋谷のスクランブル交差点のど真ん中にベッドを置いて寝るという動画がユーチューブに投稿され、その行為が問題になっているという報道があった。テレビで放映されていたそれは、ミュージックビデオにでも出てきそうな動画だったけど、事情を知らない人の間で行ったらやはり迷惑だろう。乳母車を押している人とか車椅子を使っている人とか目の不自由な人とかがいたら大変な迷惑になったに違いない。

YouTubeとかそういったものに、投稿し、評判が良ければ再生されて、数万、数十万と再生される。アイディア次第で、一躍世界的な有名人になる可能性がネットの世界にはある。そうしたい人がそうすることはいいのだけど、度が過ぎたらそれは迷惑な話となる。そういうことをして自分の名前を世に知らしめようという人は、それで迷惑を被る人への想像力が欠如している。自分が白杖の身となり、目の前にベッドがあるのもわからず、それにぶつかってしまったりしたらどれほど情けない思いをするか、そんなことは全く考えられないのだろう。そんな人が人気ユーチューバーということ自体、間違っている。

そういう、自分の愉しみとか自分の評判が行為の第一義的目的であって、その行為で迷惑を被る人、そのビデオがどれほどの毀誉褒貶似合うかということは関係なく、再生回数という表層的なことのみが目的となっている人が賞賛される世の中というのは正しい社会の姿とは思はない。

その”注目を集めたい”、という気持ちは誰にでもあるものだ。虚栄心と言ってしまえばそれまでかもしれない。その虚栄心は私にもあって、ここでわかったようなことを言っていても、前の日のアクセス数を確認するのは朝の日課となっている。

私として気をつけていることは、医者という、科学者の端くれである自覚はあるので、フェイクというかあやふやなことは書かないように気をつけている。でもそうなると、医者のブログというのに、医学的専門事項がほとんど書けない。自分の専門領域の話を書き出したら、自分が誰かということが割と簡単にわかってしまう。それはそれでいいのだけど、そうすると今度はいつどこで患者さんのプライバシーにつながることが発生するとも限らない。結果として、医療関係の記事は匿名化された範囲内で行うこととしている。

医学関係の話を書けないとなるとあとは想像の範囲で書くしかなくなる。だから、”ではないか?”とか”どうなのだろう?”とかいう言葉が増えてしまう。いっそ、小説形式にして自分の思いを主人公に託してしまうという手もあるけれど、そうするとそれはあくまでもフィクションの世界となって、私の書きたいこんきも、ではなくなってしまう。

過激なユーチューバーならまだいいのかもしれない。アメリカなどでは政治家同士の足の引っ張り合いで、ありもしない動画が作られたり、フェイクニュースが流されるということは日常茶飯事のようだ。正誤含めてありとあらゆる情報が区別なく列挙提示される時代となって、私たちはより真に正しい情報から遠ざけられつつある。

テレビや新聞の力が衰えているというけれど、ある意味彼らには真実に基づいた報道を行っていくという活路があるのではなかろうか。今は、混沌とした状況だけど、そのうち、真実が注目される時代が再びやってくるに違いない。でも、時の政権に忖度しないで偏向報道とか、そういったものを排除した上でのことだけど。

私の視点、それぞれの視点

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