読者の投稿 雪の思い出 =戦前編=
投稿募集「雪の思い出」には、戦争中の出来事が多く寄せられました。「雪と戦争」に関する投稿を紹介します。
峠で動けず誰か誰か…
青年は妹おぶって
大阪府吹田市 小阪陽出子 86歳
金沢駅から七尾線に乗り換え、穴水駅に着いたのは午後も薄暗くなりかけた5時ごろであっただろうか。北陸の冬はどんよりと暗く、小雪がちらついていた。
私と妹弟の3人は終バスに乗り遅れ、これから日本海の海沿いの村まで27~28キロはあるだろう疎開していた叔母の家まで、歩いて行くことになった。もう70年も前のこと。日ごろの栄養不足を解消すべく食糧調達のためである。
朝まで降っていた雪が道の両側に積もっている。人家が途絶えると山道だ。長い峠道を越えなければ目的の村にたどり着けない。私たちの足は疲労のため動きが鈍くなってきた。
突然、妹がフラフラと雪道に座り込んでしまった。私は必死で抱きかかえ、引きずり、声をかけながらしばらく歩くが、また動けなくなる。峠の山中である。誰か、誰か…と心は動転するばかりである。
と、そこへ雪明かりの中から一人の青年が歩いてくるのが見えた。助かった!この時ほど安心と同時に涙が流れたことはない。彼は妹をおぶって峠を越えてくれた。
小雪の降る寒い日には、あの飢餓時代の苦しい思い出と共に、助けてもらった青年を思い出す。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/10/490b00b0b29eaf45a9105ec1f8fccb79.jpg)
2・26事件銃声きいた
雪かき中に恐怖が
東京都小平市 古賀牧人 87歳
銃声が響いてきた。1936年2月26日は大雪だった。23日の40弛ン近くの積雪に26日朝からの新雪が降り積もった。当時7歳だった。
小石川植物園近くに住んでいて、早朝から仲間と雪かきをしていた。そこへ「反乱軍が大蔵大臣、教育総監を殺害、戒厳令が敷かれた」と伝えられ、恐怖に襲われた。
勤めに出かけた近所の銀行員や大学教授、官吏が朝9時ごろ戻ってきた。「軍隊の出動で、市電は都心に入れない」と話しているのを聞き、やっぱり銃声だったと思った。
翌年から日中戦争、アジア太平洋戦争へと惨苦の8年間が続き、事件の内容が明らかになったのは戦後になってからであった。大雪が降ると、2・26事件を思い出すのである。
いま再び戦争への暴走が始まっている。だが当時との決定的違いは平和憲法をもっていることである。ファシズムを繰り返してはならない。
疎開先で体験した初雪
シャツー枚に驚く
埼玉県川口市 小出錦一郎 80歳
1944年11月29日と思いますが、東京・神田錦町に住んでいたところ、夜の11時ごろ、周りが騒がしいので目を覚まして窓の外を見ると、自宅前の道路から向こうの家々がなくなっていました。
焼夷弾によって昼間のように明るく、目の前の橋本製本や正面の床屋さんも焼けていました。
急きょ田舎への疎開の話が持ち上がり、父の兄が直江津市(今の上越市)に住んでいたことから、祖父、母と子ども5人で疎開することになり、12月初旬に移りました。
引っ越した翌日、大雪となり、2階の窓から出入りすることになりましたが、これが私の雪との初めての出合いでした。
私が小学生2年でしたが、今一つの驚きは、転校した時、講堂で遊んでいた同じくらいの生徒が、シャツー枚で跳びはねていたことです。
「戦争終わるといいね」
先生の言葉が今も
東京都足立区 荻野昌江 80歳
小学校1年生の時、母が入院していたので、三つ上の姉と2人で東京から父の郷里の富山県に疎開した。
その年は有数の豪雪だった。家のまわりは雪におおわれ、玄関から雪の階段を上がり、上級生がわらぐつで雪を踏んで作った道を一列になって2キロの道を歩いて学校に行った。
いつもの道は、はるか下にあり、ふだんは手の届かない木の枝にさわることができたほどの積雪だった。
そんな中、いつになっても忘れられない雪の日の思い出は、親と離れている私たち姉妹に、薪をくべながらストーブのそばで「早く戦争が終わって、お父さん、お母さんと一緒に暮らせるといいね」と言いながら、ひびやしもやけに薬をつけてくださった担任の先生のことだ。
何十年たっても、雪を見ると、私はそのことを思い出す。
「父戦死」知らせに号泣
懸命に働き生きた
神戸市須磨区 越路京子 77歳
72年前のことを、きのうのように鮮明に思い出す。
その日、父が戦死の知らせが来て、母も姉も弟も家にいない部屋で泣いて泣いて、その涙で障子に穴をいくつもあけて外を見ると、大きなぼたん雪が降っていた。積もる様子を泣きながら見続けたこと、その後も一人の時によく泣いていた6歳でした。
母を助けて田畑での手伝いをよくしたものです。みんな一生懸命に働いて生きてきた。季節の行事のおはぎ、ひし餅、かしわ餅、おかきなど、いつも手作りでおいしいものでした。
今、母は102歳です。宅老所でお世話になっています。父の分まで生きてくれて、本当にうれしくて私は幸せです。
こうして元気でいられるのも、母さんのおかげと感謝の気持ちでいっぱいです。お母さんありがとう。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年2月6日付掲載
戦時中に疎開先で、「早く戦争が終わって、お父さん、お母さんと一緒に暮らせるといいね」言ってくれる先生。
なかなか良い先生だったんですね。
投稿募集「雪の思い出」には、戦争中の出来事が多く寄せられました。「雪と戦争」に関する投稿を紹介します。
峠で動けず誰か誰か…
青年は妹おぶって
大阪府吹田市 小阪陽出子 86歳
金沢駅から七尾線に乗り換え、穴水駅に着いたのは午後も薄暗くなりかけた5時ごろであっただろうか。北陸の冬はどんよりと暗く、小雪がちらついていた。
私と妹弟の3人は終バスに乗り遅れ、これから日本海の海沿いの村まで27~28キロはあるだろう疎開していた叔母の家まで、歩いて行くことになった。もう70年も前のこと。日ごろの栄養不足を解消すべく食糧調達のためである。
朝まで降っていた雪が道の両側に積もっている。人家が途絶えると山道だ。長い峠道を越えなければ目的の村にたどり着けない。私たちの足は疲労のため動きが鈍くなってきた。
突然、妹がフラフラと雪道に座り込んでしまった。私は必死で抱きかかえ、引きずり、声をかけながらしばらく歩くが、また動けなくなる。峠の山中である。誰か、誰か…と心は動転するばかりである。
と、そこへ雪明かりの中から一人の青年が歩いてくるのが見えた。助かった!この時ほど安心と同時に涙が流れたことはない。彼は妹をおぶって峠を越えてくれた。
小雪の降る寒い日には、あの飢餓時代の苦しい思い出と共に、助けてもらった青年を思い出す。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/10/490b00b0b29eaf45a9105ec1f8fccb79.jpg)
2・26事件銃声きいた
雪かき中に恐怖が
東京都小平市 古賀牧人 87歳
銃声が響いてきた。1936年2月26日は大雪だった。23日の40弛ン近くの積雪に26日朝からの新雪が降り積もった。当時7歳だった。
小石川植物園近くに住んでいて、早朝から仲間と雪かきをしていた。そこへ「反乱軍が大蔵大臣、教育総監を殺害、戒厳令が敷かれた」と伝えられ、恐怖に襲われた。
勤めに出かけた近所の銀行員や大学教授、官吏が朝9時ごろ戻ってきた。「軍隊の出動で、市電は都心に入れない」と話しているのを聞き、やっぱり銃声だったと思った。
翌年から日中戦争、アジア太平洋戦争へと惨苦の8年間が続き、事件の内容が明らかになったのは戦後になってからであった。大雪が降ると、2・26事件を思い出すのである。
いま再び戦争への暴走が始まっている。だが当時との決定的違いは平和憲法をもっていることである。ファシズムを繰り返してはならない。
疎開先で体験した初雪
シャツー枚に驚く
埼玉県川口市 小出錦一郎 80歳
1944年11月29日と思いますが、東京・神田錦町に住んでいたところ、夜の11時ごろ、周りが騒がしいので目を覚まして窓の外を見ると、自宅前の道路から向こうの家々がなくなっていました。
焼夷弾によって昼間のように明るく、目の前の橋本製本や正面の床屋さんも焼けていました。
急きょ田舎への疎開の話が持ち上がり、父の兄が直江津市(今の上越市)に住んでいたことから、祖父、母と子ども5人で疎開することになり、12月初旬に移りました。
引っ越した翌日、大雪となり、2階の窓から出入りすることになりましたが、これが私の雪との初めての出合いでした。
私が小学生2年でしたが、今一つの驚きは、転校した時、講堂で遊んでいた同じくらいの生徒が、シャツー枚で跳びはねていたことです。
「戦争終わるといいね」
先生の言葉が今も
東京都足立区 荻野昌江 80歳
小学校1年生の時、母が入院していたので、三つ上の姉と2人で東京から父の郷里の富山県に疎開した。
その年は有数の豪雪だった。家のまわりは雪におおわれ、玄関から雪の階段を上がり、上級生がわらぐつで雪を踏んで作った道を一列になって2キロの道を歩いて学校に行った。
いつもの道は、はるか下にあり、ふだんは手の届かない木の枝にさわることができたほどの積雪だった。
そんな中、いつになっても忘れられない雪の日の思い出は、親と離れている私たち姉妹に、薪をくべながらストーブのそばで「早く戦争が終わって、お父さん、お母さんと一緒に暮らせるといいね」と言いながら、ひびやしもやけに薬をつけてくださった担任の先生のことだ。
何十年たっても、雪を見ると、私はそのことを思い出す。
「父戦死」知らせに号泣
懸命に働き生きた
神戸市須磨区 越路京子 77歳
72年前のことを、きのうのように鮮明に思い出す。
その日、父が戦死の知らせが来て、母も姉も弟も家にいない部屋で泣いて泣いて、その涙で障子に穴をいくつもあけて外を見ると、大きなぼたん雪が降っていた。積もる様子を泣きながら見続けたこと、その後も一人の時によく泣いていた6歳でした。
母を助けて田畑での手伝いをよくしたものです。みんな一生懸命に働いて生きてきた。季節の行事のおはぎ、ひし餅、かしわ餅、おかきなど、いつも手作りでおいしいものでした。
今、母は102歳です。宅老所でお世話になっています。父の分まで生きてくれて、本当にうれしくて私は幸せです。
こうして元気でいられるのも、母さんのおかげと感謝の気持ちでいっぱいです。お母さんありがとう。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年2月6日付掲載
戦時中に疎開先で、「早く戦争が終わって、お父さん、お母さんと一緒に暮らせるといいね」言ってくれる先生。
なかなか良い先生だったんですね。