統制された文化 写真編 “最良の顧客”選び 時代に伴走
白山 眞理(しらやま・まり)
1958年生まれ。写真評論家。日本カメラ財団調査研究部長。著書『〈報道写真〉と戦争』ほか
2020年のオリンピック東京大会を前に、日本をアピールするさまざまな情報がインターネットで発信されている。幻となった1940年東京大会直前の30年代も、日本イメージの発信が盛んだった。カメラ機材や印刷技術の進歩により、総合雑誌にようやくグラフページができた頃で、当時の先端メディアは視覚に訴えるグラフ誌であった。
ドイツのグラフ誌で『ルポルタージュ・フォト』(美学者の伊奈信男が〈報道写真〉と訳した)に携わっていた名取洋之助は、33年に帰国し、組み写真と短い文章による写真記事の制作を目指して、銀座に日本工房を創設した。
社会とともにある写真を求めた木村伊兵衛やデザイナーの原弘らがこれに参画し、やがて分裂して、互いに内外紙誌への写真配信を競った。
満洲事変(31年)や国際連盟脱退(33年)によって日本が国際的に孤立しつつある中で、鉄道省の国際観光局や外務省外郭団体の国際文化振興会などが設立され、伝統文化や近代都市など肯定的なイメージを他国に発信しようとしていた。〈報道写真〉は海外へ日本を宣伝する手段と認識され、対外グラフ誌や前衛的な表現が実現されていった。
『写真週報』1938年6月8日号表紙「仁と愛と」土門拳撮影。陸軍省医務局の協力で日本赤十字社の看護婦養成所に通って撮影し、同号巻頭11ページを占めたほか、ドイツなどのグラフ誌にも掲載された。
カメラ持った「憂国の志士」
しかし、37年7月に日中戦争が勃発すると〈報道写真〉はプロパガンダに変容していく。同年10月に、内閣情報部は反日宣伝に対抗する対米宣伝のためにグラフ誌『LIFE』へ写真を送る具体案を検討した。
翌38年2月に同情報部が創刊した週刊グラフ誌『写真週報』には、大衆への啓発宣伝だけでなく海外配信用写真収集の目的もあった。
同誌創刊号には、「写真関係のものが、官庁も民間も、作家団体も個人の工房もあらゆるものが総動員」と記されている。同年4月の国家総動員法公布よりも前に、写真関係の総動員が図られたのだ。対外配信経験者である名取、木村らも同誌に携わった。
同年、上海に陸軍写真製作所が設立されて名取と山端祥玉が業務を請け負った。国家機関を顧客として内外の大衆を誘導する「報導写真」が隆盛した。
意気盛んな若きプロ写真家たちは、40年9月に「日本報道写真家協会」を結成した。同協会常任幹事であった土門拳は、写真雑誌に「僕達は云はばカメラを持つた憂国の志士として起つ」と熱い思いを記した。
同協会は41年12月に「日本報道写真協会」(渡辺義雄理事長)に発展改組し、すでに統制対象であったフィルムはこうした国家に協力的な写真機関へ割り当てられた。
戦況と共に、対外宣伝は欧米向けから「大東亜共栄圏」向けにシフトされ、写真やグラフ誌の目的も日本的精神文化指導へと転換されていった。
そして、44年3月、既存の写真団体は全て解散の上、プロ、アマ合同の報国写真団体「大日本写真報国会」(情報局次長村田五郎会長)に統合された。同年10月に閣議決定された決戦与論指導方策要綱には、「米英人ノ残虐性ヲ実例ヲ揚ゲテ示シ殊二今次戦争二於ケル彼等ナル行為ヲ暴露ス」とある。これに従い、同年12月から「国防写真隊」が編成されて空襲被害を撮影し、8月9日に長崎へ投下された原子爆弾の被害状況は西部軍司令部報道班員の山端庸介が撮影した。
「裕仁邸の日曜日―天皇が初めて非公式写真のためにポーズをとる」『LlFE』1946年2月4日号、サン・ニュース・フォトス撮影。原爆投下直後の長崎を撮った山端庸介が撮影に参加。家庭人、学者という側面を強調し、リンカーンの胸像を傍らにした天皇の写真は、軍国主義から民主的親米派へのイメージ転換を促した
占領軍進駐の時局に合わせ
戦争が終わった後の9月、占領軍は新聞紙規定として「プレスコード」を発令した。占領政策への批判や原爆についての報道などを管制するもので、日本の全出版物は48年7月まで占領軍の事前検閲、49年10月までは事後検閲を受けた。
国家に奉仕していた写真家やデザイナーは、自国のプロパガンダに腕を振るったように、占領軍向け観光写真集や子ども用英語教本などを制作した。戦中同様に時局の変化に順応していくのだ。
写真が先端メディアに直結していた頃、カメラに携わる人々は、強制力と自発性の両輪に支えられ、最良の顧客を素朴に選択し続けて時代に伴走した。さて、国家的イベントや近隣諸国との緊張など、30年代を彷彿とさせる今日、〈報道写真〉に起こっていたことが新しいメディアに見られはしないだろうか。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年2月21日付掲載
戦前、戦時中は、写真の神様とまで言われた土門拳まで戦意高揚に貢献していたとは…
戦後は打って変わって、占領軍にこびへつらう写真…。
アマチュアであっても写真を志すものとして、決してそうであってはならないと決意。
白山 眞理(しらやま・まり)
1958年生まれ。写真評論家。日本カメラ財団調査研究部長。著書『〈報道写真〉と戦争』ほか
2020年のオリンピック東京大会を前に、日本をアピールするさまざまな情報がインターネットで発信されている。幻となった1940年東京大会直前の30年代も、日本イメージの発信が盛んだった。カメラ機材や印刷技術の進歩により、総合雑誌にようやくグラフページができた頃で、当時の先端メディアは視覚に訴えるグラフ誌であった。
ドイツのグラフ誌で『ルポルタージュ・フォト』(美学者の伊奈信男が〈報道写真〉と訳した)に携わっていた名取洋之助は、33年に帰国し、組み写真と短い文章による写真記事の制作を目指して、銀座に日本工房を創設した。
社会とともにある写真を求めた木村伊兵衛やデザイナーの原弘らがこれに参画し、やがて分裂して、互いに内外紙誌への写真配信を競った。
満洲事変(31年)や国際連盟脱退(33年)によって日本が国際的に孤立しつつある中で、鉄道省の国際観光局や外務省外郭団体の国際文化振興会などが設立され、伝統文化や近代都市など肯定的なイメージを他国に発信しようとしていた。〈報道写真〉は海外へ日本を宣伝する手段と認識され、対外グラフ誌や前衛的な表現が実現されていった。
『写真週報』1938年6月8日号表紙「仁と愛と」土門拳撮影。陸軍省医務局の協力で日本赤十字社の看護婦養成所に通って撮影し、同号巻頭11ページを占めたほか、ドイツなどのグラフ誌にも掲載された。
カメラ持った「憂国の志士」
しかし、37年7月に日中戦争が勃発すると〈報道写真〉はプロパガンダに変容していく。同年10月に、内閣情報部は反日宣伝に対抗する対米宣伝のためにグラフ誌『LIFE』へ写真を送る具体案を検討した。
翌38年2月に同情報部が創刊した週刊グラフ誌『写真週報』には、大衆への啓発宣伝だけでなく海外配信用写真収集の目的もあった。
同誌創刊号には、「写真関係のものが、官庁も民間も、作家団体も個人の工房もあらゆるものが総動員」と記されている。同年4月の国家総動員法公布よりも前に、写真関係の総動員が図られたのだ。対外配信経験者である名取、木村らも同誌に携わった。
同年、上海に陸軍写真製作所が設立されて名取と山端祥玉が業務を請け負った。国家機関を顧客として内外の大衆を誘導する「報導写真」が隆盛した。
意気盛んな若きプロ写真家たちは、40年9月に「日本報道写真家協会」を結成した。同協会常任幹事であった土門拳は、写真雑誌に「僕達は云はばカメラを持つた憂国の志士として起つ」と熱い思いを記した。
同協会は41年12月に「日本報道写真協会」(渡辺義雄理事長)に発展改組し、すでに統制対象であったフィルムはこうした国家に協力的な写真機関へ割り当てられた。
戦況と共に、対外宣伝は欧米向けから「大東亜共栄圏」向けにシフトされ、写真やグラフ誌の目的も日本的精神文化指導へと転換されていった。
そして、44年3月、既存の写真団体は全て解散の上、プロ、アマ合同の報国写真団体「大日本写真報国会」(情報局次長村田五郎会長)に統合された。同年10月に閣議決定された決戦与論指導方策要綱には、「米英人ノ残虐性ヲ実例ヲ揚ゲテ示シ殊二今次戦争二於ケル彼等ナル行為ヲ暴露ス」とある。これに従い、同年12月から「国防写真隊」が編成されて空襲被害を撮影し、8月9日に長崎へ投下された原子爆弾の被害状況は西部軍司令部報道班員の山端庸介が撮影した。
「裕仁邸の日曜日―天皇が初めて非公式写真のためにポーズをとる」『LlFE』1946年2月4日号、サン・ニュース・フォトス撮影。原爆投下直後の長崎を撮った山端庸介が撮影に参加。家庭人、学者という側面を強調し、リンカーンの胸像を傍らにした天皇の写真は、軍国主義から民主的親米派へのイメージ転換を促した
占領軍進駐の時局に合わせ
戦争が終わった後の9月、占領軍は新聞紙規定として「プレスコード」を発令した。占領政策への批判や原爆についての報道などを管制するもので、日本の全出版物は48年7月まで占領軍の事前検閲、49年10月までは事後検閲を受けた。
国家に奉仕していた写真家やデザイナーは、自国のプロパガンダに腕を振るったように、占領軍向け観光写真集や子ども用英語教本などを制作した。戦中同様に時局の変化に順応していくのだ。
写真が先端メディアに直結していた頃、カメラに携わる人々は、強制力と自発性の両輪に支えられ、最良の顧客を素朴に選択し続けて時代に伴走した。さて、国家的イベントや近隣諸国との緊張など、30年代を彷彿とさせる今日、〈報道写真〉に起こっていたことが新しいメディアに見られはしないだろうか。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年2月21日付掲載
戦前、戦時中は、写真の神様とまで言われた土門拳まで戦意高揚に貢献していたとは…
戦後は打って変わって、占領軍にこびへつらう写真…。
アマチュアであっても写真を志すものとして、決してそうであってはならないと決意。