
このまま何も手を打たなければ、人口減少が我々の未来の事実になるということにようやく世間が気づき始めました。
なんとかしなくては、という機運が出始めています。
若い人たちには結婚して夫婦になって子供を生んでくれなくては人口は増えません。
人口減少になると地域の密度が薄れてしまうので、コンパクトなまちづくりが必要になると言われています。いつまでも車が必要な郊外に住んでいるのではなく、歩ける範囲で暮らせるまちなかに住んでもらわなくては効率が悪いのです。
出産奨励でもまちなか居住奨励でも、この両者に共通する今日の社会の問題は、個人のメリットの方向と社会のメリットの方向が必ずしも重なっていないと言うことです。だから求めるような社会像が実現しないのです。
高度成長時代には、人口が増えて足りない家を求める人たちは安い土地と家を求めました。そしてそれに応じて都市は郊外に住宅地を開発しましたが、結果として安い土地に付加価値が生まれより多くの税金が市町村財政を潤すという好循環が生まれました。
郊外の一戸建て住宅地を欲しがった人たちは喜んで土地を買い求め、個人のメリットを追うことが次の投資を生み出し、社会にとってのメリットになりました。
子育てでは、子孫を残したいという素直な望みと子供を育てることに喜びを見いだす人が多かったのですが、もう一つの側面は、子供がいないと高齢になったときの面倒見てくれる宛がありませんでした。
男の子には家の跡継ぎを期待し、女の子には身の回りの世話をしてくれる優しい手を期待したことでしょう。
苦労はあるけれど子供を育てることは社会のメリットでもありながら自分たちのメリットでもありました。
個人の努力が報われる良い時代でした。
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時代が成熟してくると、個人の努力ではどうしようもないことを社会全体で支えようという意識が高くなりました。
子供たちの食事を安定させるための給食制度、親が身近にいない子育て世代のための保育制度、そして子供がいなくても老いた時に世話をしてもらえる介護保険制度などができました。
道路が充実して、耐久財としての自動車を手に入れやすくなったことで、無理をして駐車場が高く狭いマンションばかりのまちなかよりも、郊外で庭付きの一戸建てが幸せの対象となりました。
まちなかにみんなで密集しながら住むことは税金も高くて個人にとってはメリットではなくなりました。だからみなこぞって郊外の安い一戸建てを目指すしあわせを求めました。
まちなかに住んでほしいと思っても、それは個人の求める幸せとはちょっとかけ離れているように思えます。
子育ても同じで、子供を育てる苦労と費用が益々増して、子供のいない生活の方が気楽に見えてきます。
子供を産まなければお金もかからず苦労もせず、それでいておいたときの世話は社会がしてくれるのですから、無理をしなくてもいいかな、と思えます。
社会が子供を産んでほしいと思っても、それは個人の求めるものではないという声が増えてきました。
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子供を産んでほしい、まちなかに住んでほしい。社会としてはそう思っても、それが個人がそうありたいという方向と違うのではそれは社会全体としてのムーブメントにはなりません。
こうあってほしい未来のためには、それが個人にとっても喜びや幸せや、あるときは経済的メリットがなくては動かないものです。
では子育てを個人にとってもっとメリットが感じられるようにするにはどうしたらよいか。住民がまちなかに住みたいと思って、まちなかの住まいにこぞって応募するようなシステムはどう作ればよいのか。
逆に言えば、子供を持たなかったり郊外に住むことがデメリットになるような制度設計ができて社会がそれを認めるでしょうか。
しかし考えれば考えるほどそこが難しい。制度を発送する難しさと、それを政治的に納得させて実行するという政治力、この二つが揃うでしょうか。
財政で言えば、お金の給付と税制でのコントロールが常套手段。それを社会がどこまで容認できるでしょうか。
そしてそれは多分地方自治体行政の枠を超えて、国としての制度でなければ国民は動かないと思います。
黙っていれば不幸な未来が訪れるけれど、それにどれだけの人が共感し協力をしてくれるでしょうか。それこそが実は"政治力"ということ。官僚は制度の案は作れるけれど、それを実行に移すのは政治家です。
本当の政治力が必要な時代だということなのかもしれません。
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日経のネットに、『着実な縮小計画を怖がるな』という対談記事がありました。もう議論している時間はあまりありませんね。
【着実な縮小計画を怖がるな】