北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

パソコンモニターの入れ替え

2008-05-31 23:27:20 | Weblog
「お父さん、パソコンがまた壊れた!」と携帯にうちの奥さんから電話があったのが月曜日のこと。

「それで、どういう症状なの?」
「画面に何も出ない・・・」

「本体は動いてるよう?」
「うーん、良くわかんない」

「もしモニターの故障だったら、もう一台あるパソコンのモニターをつないでみて写るかどうか試してみて」
「・・・繋がっているコードの種類が違うからよく分かりません・・・」

 むー、やっぱり舌先三寸でパソコンを直すのはムリでした。

  *    *    *    *    *

 良いタイミングで帰省が出来たので、早速娘のパソコンのモニター借りて取り替えてみたところ、ちゃんと写りました。なるほど、モニターの寿命でしたか。考えてみればもう十年も使っていたもんね。古いモニターよご苦労様でした。

  *    *    *    *    *

 娘からは「あのー、早くモニター返して欲しいんだけど・・・」と冷たい視線。こうなると新しいモニターを買い求めなくてはなりません。

 折角なので、この機会に大画面に変えたいところですが、新品にこだわって高いお金を払うのももったいないので、安い中古品を求めて市内を探検。「蛇の道は蛇」で、心当たりの中古パソコンショップを巡ると二軒目でちょっとした出物に出くわしました。

 22インチワイド型でアナログ端子もデジタル端子もついていて、お値段は1万7千円!箱がないのとほんのちょっとした傷があるのでお安くなっているということなのですが、これは私の許容範囲。

 即決で購入を決めました。家で設置してみると、いかにも今までのものよりも大きくなりました。液晶の面積が約2倍になり、ワイド画面にしたことで作業面積は約三割増えました。

 画面の拡大で、作業環境が大幅に向上しました。「文字が小さくて画面が見づらい」という方はもう大画面に変えてみてはいかがでしょうか。不便の陰にはニーズがあって、ニーズにはビジネスがあります。

 便利と楽は、新しい付加価値なのです。

  
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トヨタ流人材育成術

2008-05-30 23:30:17 | Weblog
 午後の飛行機で札幌へ。週明けに札幌で「北三条広場委員会」があるために、この週末はついでに帰省なのです。

 一ヶ月ぶりの札幌は思いの外寒くてちょっと閉口。5月末で10℃前後とはね。天候も寒すぎたり暑すぎたりだし、世の中の出来事も事件もなにやら極端に走りがちのよう。いろいろな意味で世の中に「穏やかさ」が足りないようです。

 さて、長い移動の時間は格好の読書タイム。今回はPHP新書から「トヨタの社員は机で仕事をしない」(若松義人著)です。

  

 トヨタという会社のすごさは、「カイゼン」と呼ばれる、日々の活動をいかにより合理的なものに近づけるかという飽くなき努力を続ける企業マインドです。

 その活動の結果が『安く良い自動車を早くお客様の手元に届ける』という企業としての成果に繋がり、それが次の車づくりとしてお客様の支持を得ることに繋がる、と信じているのです。その過程で全従業員に対してトヨタマインドをいかに身につけてもらうか、という人材教育に長けた指導者を輩出しています。

 著者の若松さんはトヨタ自動車で傑出した指導者だった大野耐一氏の指導の下で「トヨタ生産方式」の実践、改良、普及に努めてこられた方で、本書はその実践活動の一端をまとめたものです。

  *    *    *    *    *

 トヨタのある企業経営者の口癖は「私は課題のない報告書は認めない」というものだそう。

 例えば部下がセミナーや勉強会に参加した後の報告書は「勉強になりました」とか「役に立ちました」ではダメ。「自社と比べて何が良かったか」「それは自社の課題を解決するためにどのように使えるのか」という二点が盛り込まれていなければダメだというのです。しかもなおかつ「それをいつからどのようにして実行に移すのか」までが入っていなければ報告とは認めない、というのですから徹底しています。

 勉強会に参加するということは、物見遊山ではなく、現場が抱えている課題を解決するためのヒントを得て、部下として成長するためなのです。だから上司の方も、単なる「ご苦労さん」ではなく、「どうだった?」「何が参考になった?」「職場に行かせることは何か?」と訊ね、なにかがあるならば「すぐに実行しろ」と背中を押すのです。

 トヨタではさらに、二、三ヶ月後に「ところであれはどうなった?」と必ずフォローを入れることを大切に考えるのだそう。

 「報告する」ということは、何を学び、どんな課題を見つけ、その解決のためにどうしようとしているのか、をきちんと整理することだ。トヨタではその当たり前のことを徹底することで人を育ててゆくのです。

  *    *    *    *    *

 こういう人材育成の本は本屋さんにもたくさん並んでいますが、それを呼んだときには感動しても、その感動はすぐに薄れがち。いかにその感動をときに思い出して自分を奮い立たせるか、は永遠の課題でしょうか。

 こういう良い本を読むと熱くなるものです。
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カツオの美味しい話

2008-05-29 23:37:51 | Weblog
 とある公園緑地研修の講師をするために国分寺まででかけてきました。

 講師役は私ともう一人、造園コンサルタント会社の社長をしているAさんとで行い、研修員たちが作成した計画を見て講評を行うというものでした。計画するということは絶対的な正解はないので、多くの人たちの多様な意見を見聞きして、教えられることも多々ありました。やはりたくさんの人があつまるとバラエティに富んだ意見が出るものです。

    ※    ※    ※    ※

 仕事が終わってから一緒だったAさんと、国分寺駅周辺の居酒屋でいっぱいやって盛り上がりました。

 実はこのAさん、表だって活躍する姿はあまりお見かけしないのですが、何か困ったことが発生したときにはみんなが頼る、裏方としての実力で知られた方なのです。
 国のちょっとした基準作りや短時間での資料まとめなど、せっぱ詰まったときに呼び出され、それでいて「あまりお金にはならないんですよ」と苦笑い。公務員も大変ですが、その陰でこういう方たちの協力によっていろいろな政策ができあがっているのですね。

    ※    ※    ※    ※

 Aさんと居酒屋をどこにしようかとうろついていたら「カツオ食べ放題、飲み放題1980円」という看板が目に入りました。「本当かな?」と怪訝な面持ちでとりあえずそのお店に入ってみることに。

  

 お店のお姉さんに「これはどうなっているの?」と訊くと「カツオはお刺身とにぎり寿司と漬け丼の三種類が食べ放題で、飲み物はこのメニューからになります」とのこと。飲み物のメニューの内容も満足の行くものだったので、もう迷わずこのコースに決めました。

 Aさん曰く「なんだかんだ言って、飲み屋さんが一番企画に工夫をしているような気がしますね。やはり競合と競争があるっていうのは新しい工夫へのエネルギーなんですね」
「国は政策の競争が出来ませんからね」と私。

「だから地方分権で自治体ごとの政策競争が現れれば面白いのかも知れませんよ」
「確かに。しかし今の有権者にとってサービスの良い行政が、後の世代まで含めて本当に良いのか、ということを有権者自身がどれだけ判断できるでしょうかね。今の判断が後ろの世代への責任も持っているということへの矜持(きょうじ)が試されもするのですが」

 話は弾み、カツオも美味しくいただきました。ちなみにこのサービスは今日が最終日。

 美味しい話もたまにはあるようで。
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肉を食え!カツ丼の巻

2008-05-28 23:57:22 | Weblog
 最近はメタボに対する世間の風圧がいよいよ強くなってきました。

 企業でも職員のメタボ率を一定以下に下げないとなにやらペナルティも生じるのだとか。
そこまでして予防的な部分に関心を向けない限り保険料の増大に歯止めがかからないという危機感のあらわれでもあるのでしょうが。

 あるとき知人のキャリアウーマンに、「僕は最近ダイエットに心がけていて、カロリーコントロールをしているんだ」と言ったところ、逆に反論を聞かされました。

「あのねえ、私が瀬戸内寂聴さんにお話を聞いたときに、『どうしてそんなにエネルギッシュなんですか?』って訊いてみたのよ」
「へえ、答えは?」

「答えはねえ、『エネルギッシュに活動するためには肉をたくさん食べなくちゃ駄目なのよ』だったわよ。あなたも、今からカロリーコントロールなんて情けないことを言っていないで、がんがん食べてがんがん行動する方が良いんじゃな~い?」

 なるほど。確かに人間、行動的であろうと思えばそれなりにしっかりした食事を取らなくては行けませんね。野菜ばかりのベジタリアンも時と場合によっては考えものです。

    ※    ※    ※    ※

 そんなことを思い出しながら今日はカツ丼をつくりました。

 カツも買ってあった豚肉を解凍して衣とパン粉をまぶして自分で揚げたもの。揚げたてだけに、お店で売っているような揚げてから時間がっったあとのものとはひと味違います。

  

  

  


 それを切り分けて次にはタマネギと出し汁で煮込んで最後に卵とじに仕立てると完成です。簡単だけど実にうまい。やはり料理はとにかくできたてが一番です。

 ご飯も土鍋での炊きたてだから余計に美味い!

 庶民の幸せってこういうところにいくらでも転がっているんですねえ。
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寿命尽きるまで

2008-05-27 23:05:55 | Weblog
 アメリカのNASAが打ち上げた火星探査機のフェニックスが無事に火星に軟着陸を果たしたというニュースが伝わってきました。

 火星には水があることが分かっているのですが、それならば地球外の生物もいるのでは、というのが最大の関心事。どんな発見をしてくれるか楽しみです。

 ところで昨日NASAは、フェニックス探査機がパラシュートで火星に向かって降りて行くシーンを、偶然火星上空を周回している別の衛星が望遠カメラで撮影した、と発表しました。

  
【写真提供:NASA】

 数億キロメートルも先の火星での出来事が別のカメラから撮影されているというのはなんともすごいことですね。

 それにしても、このパラシュートで火星に降りたって行くシーンを見ていると、たとえロボットとはいえ、地球の期待を一身に背負って未知の世界に飛び込んで行くその姿になんだかほろりとしてしまいます。

 二度と地球に帰ることもなく、火星の上で調べたことを電波に乗せて地球に送り続けることが唯一の仕事な訳ですが、それをひたすら一生懸命にこなす姿に打たれるんです。

 そういえば手塚治虫さんの名作「鉄腕アトム」も最初のシリーズの最終回では地球を守るために爆弾のカプセルを抱きかかえて太陽に突入するシーンでした。そんな特攻的な姿と今回のフェニックスのパラシュートの姿がだぶってきます。

    ※    ※    ※    ※

 そういえば、ハレー彗星に突っ込んで壊れる直前まで映像を送り続けた衛星や、木星まで旅をしてそこで使命を終えた木星探査機ガリレオなど、こうした話題は枚挙にいとまがないことに気付きます。

 寿命が尽きるまで与えられた使命を懸命に果たそうとする姿は感動的です。

 人間もそうありたいものですね。
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グローバル化するということの意味

2008-05-26 23:51:30 | Weblog
 大相撲の五月場所は琴欧州の優勝で幕を閉じました。最後の横綱同士の千秋楽の一番でミソをつけましたが、全ては琴欧州の笑顔に免じていいことにいたしましょう。

 今の相撲は外国人力士が番付の上位を占めるようになりました。外国人が最も日本らしい文化である相撲に参加し、大関や最高位の横綱として支えてくれているのです。

 日本人は外国人に対して閉鎖的かというと案外慣用で、単に外国人だからというということで排斥するわけではなく、強ければ外国人であろうとその世界で出世し活躍をすると言うことに関しては、現実を受け入れてしっかりと評価し応援もしているようです。

 プロ野球だって、ひいきのチームに勝利をもたらす外国人の活躍には喝采をおくるはず。そこには「日本のチームなのだから、参加メンバーは全て日本人でなくては駄目だ」などという狭量な国粋主義はありません。

 イチローや松井がメジャーリーグで活躍することを多くの日本人もアメリカの人たちも正当に評価しています。人材のグローバル化はどんどん進行しています。

    ※    ※    ※    ※

 話題を日本の構造改革に転じると、政府の中枢でも構造変化と日本経済について今真剣な議論が交わされています。

 M&Aという企業買収の方法がありますが、日本の企業を外国の資本が買収するということも最近では良くある話。なにしろ今世界では使い切れない資本が優良な投資先を鵜の目鷹の目で狙い、求めているのですから。

 日本の企業への投資を海外の企業に広く開放するのも立派なグローバル経済への参加です。逆に考えると日本の企業だって海外の企業を買収して利益を上げようと企業努力を続けているのです。

 しかしながら、市場経済というものに対して日本企業のなかには意識がまだまだ低いところも多く、敵対的な買収に対してこれを嫌う経営者もたくさんいます。

 最近では○ルドッグソース事件やJパ○ー事件などに見られるように、司法も結果として海外への門戸を閉ざすような判断を下したことで、「日本は経済をグローバル化する気がないのではないか」と思われるのではないか、という懸念が識者の間で広がりつつあります。

 日本経済のこれからは、グローバル化して海外の資本や人材も積極的に受け入れ、その恩恵を国内・国民に配分するという生き方を目指すべきだ、というのが現在の政府の主流です。私もそれが正しい選択なのだと思う一人です。

 そして経済をグローバル化するときに必要な条件が、日本では英語が通じない、ということや非効率な企業が延命を続けるような既得権益の排除、新しい価値を生み出す人材の育成と海外からの引き寄せということなのです。

 日本には天然資源がほとんどありません。こんな国が世界とまともに互して行くためにはとにかく人的資源のみが頼りなのです。

 文科省が小学校から英語を学ばせようという流れを打ち出しているのも、国を挙げて、とにかく英語が話せる人ならば生活できる社会を形成しなくては投資も人材もやってこない、ということへの対応の端緒なのです。

 人材がこぞって押し寄せてくるようなところでなければ、逆に人材はどんどん流出してしまうということ。分水嶺のどちらに位置するかが発展するか衰退するかの分かれ道というわけ。

 日本人として、日本語や日本文化へのこだわりをもつことは当然ですが、それを支えてくれる人が日本人かどうかということは全く別の問題。

 そのためには日本文化を理解する日本人として日本社会にも価値を生み出す形で貢献できる人間にならなくてはなりません。

 そういうことを目指す風潮や目的意識、意欲をしっかりと見据えたいものです。
 
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御田植え神事

2008-05-25 23:59:32 | Weblog
 昨夜は掛川で一泊。朝から強い雨と風の悪天候です。

 昨日の結婚式以外は何の予定もなく、「No Plan」で来たのですが、掛川に来ることだけは知人に伝えてありました。

 すると「こままささん、今日東京の学生さんたちのゼミを案内する催しがあるんですがスローライフについて話をしてくれませんか?」とか、「ちょうど明日龍尾神社の御田植神事があるんだけど行きませんか?」、「ちょうど日本画の展覧会を開いているんですよ」などと、ちょうどこの週末に行われるイベントの数々に遭遇しました。

 まあ人間、お声がかかるうちが花ということですから、誘われるままに巡って歩きました。

 午前中は掛川を離れてから完成した道路やゴミの焼却施設などを見学。少しずつながらまちが移り変わっている様子がうかがえます。

    ※    ※    ※    ※

 そんななか、午後一番は龍尾神社の御田植え神事の様子を伺いに行きました。今年のお米の豊作を祈っての神事で、担当の町会の氏子の若い衆が集まって白装束に烏帽子姿で御田植えをしてくれるのです。

  

 午前中の暴風雨にもかかわらず、社殿で神事が始まってそれが終わり、田んぼに移動する頃には陽ざしも差し始め好天に変わりました。

 明るい初夏の陽ざしの中で一反五分ほどの田んぼで田植えが始まると地元のマスコミの皆さんも取材に現れました。

「今朝からの雨ならどうなることかと思いましたよ」
「こちらも、あちこちから問い合わせがありましたけど『12時半に決める』と言っていたら晴れてきましたからね。直来の準備も進めていましたから良かったです」

「これは雨が降ったらどういうやり方になるんですか」
「考えてみたら、この神事を始めてから6年目ですけど雨に当たったことがないんですよ。だから前例がないので…、まあどうしたもんですかね(笑)」

 雨を晴れに帰るとはまさに御神徳というべきでしょうか。

 そして考えてみれば、昨年のこの神事の時にも掛川に招かれていたのを思い出しました。来年もこれるでしょうか?

 食糧危機が叫ばれる中、今年も豊作をお祈りします。

  
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掛川での結婚式

2008-05-24 23:32:53 | Weblog
 掛川市役所の若い職員の結婚式に招待されて出席をしてきました。

 考えてみれば、掛川在住の三年間では一度も結婚式に出席をしたことがありませんでした。おめでたいお話に喜んで掛川へ向かいました。

 新郎は祭り囃子保存会で笛を吹き、蕎麦も打つという好青年。のお母さんからはかつてお祭りの時に家に遊びに行って、「うちのY3に良いお嬢さんがいませんでしょうかねえ…」と相談されたこともあって気にはしていたのです。

 お嫁さんは五つ年下ですがしっかりしたお嬢さんで、見ていて安心できるカップルです。本当に良かったね。

  

 さて結婚式というのはその土地柄が実に良く出るイベントですが、今日の結婚式では地域の祭りの先輩が大活躍。会場への入場も祭りのお囃子で、余興も新郎自ら笛を披露する祭り囃子が繰り広げられました。

 私の横に座った地元出身の方が「これは太鼓も来ているから、相当やりますよ。20分はやるに」と囁いてくれましたが、案の定約30分ほど演奏が続き、なんと結婚式の余興はこれひとつ。新婦側からの余興はなしという祭り一色の披露宴でした。

 祭りの盛んなN地区らしい演出と言えましょう。

 お二人さん、末永くお幸せに。

  
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「体育」の意味

2008-05-23 23:45:33 | Weblog
 仲の良い身体学の専門家のAさんといつもの世間話。

 彼は自分自身の感覚を、脳からではなく身体から考えるべきだ、という身体論の持ち主なのです。

 現代社会はインターネットの発達などによって情報化社会が進展し、たどり着ける知識は爆発的に増えたのですが、それでも自分自身は身体という制約のある存在にすぎません。

 身体ができないことに限界はあるし、だからこそ身体が出来ることを少しでも広げようとする肉体的鍛錬には大きな意味があるというのです。

「学校で体育って教科を習うでしょ?」
「ええ、私も習いましたよ」

「あれって『体を育てる』ということなんですが、体って昔は『體』って書いたように、骨と筋肉を鍛えることが体育だったんです」
「あ、なーるほど」

「その後は漢字が変わったこともありますが神経などの考え方も入ってきて体育になりました。でも結局は子供たちに『体を育てるとはどういうことか』ということを教えるのが本来の体育の意味なんですよ」
「ほうほう」

「それがある時から体育とはスポーツを教えることに変化して、下手をすると子供達にゲームをやらせてそれで体育を教えているつもりになっている先生もいます。これは本来の体育の意味からかけ離れてしまったいわざるを得ません」
「ではその本来の『体』とはなんですか?」

「骨、筋肉、内臓、皮膚という体に加えて、五感で感じるという感覚まで身体に関わる能力全てを含むことだと理解できるでしょう。例えば、最近食べ物には賞味期限表示がされていますが、あんなものは昔は無かったわけで、日が経って(まだ食べられるかな?)という時には口に入れてみて酸っぱくなっていたらはき出すなんてことをしたものです」
「確かに今はそういうことが無くなりましたね」

「口に入れてまだ食べられるかどうかを試す前に日付を見て捨ててしまっているでしょう?あれでは『食べ物が食べられるかどうか』という本来命に関わるような大事な身体感覚が養われません。熱いものに触ったらやけどをするという感覚だとか、転んだときにどう体をかばうと怪我をしないか、などというのは本来、物心付く前に子供にたたき込んでおかなくてならない身体感覚なんですがね」

    ※    ※    ※    ※

 確かに、最近は頭でものを考えすぎて身体感覚に正直に反応するというような体験が薄れています。それは実は人間として楽な幸せを謳歌しているのではなく、能力を伸ばすことをさぼっているだけなのかも知れません。
 Aさんの話はさらに続きます。

「物事を理解する能力をリテラシーといいますが、自分自身の体をどうやったらコントロールできるか、ということを『体リテラシー』という人もいます。自分自身の体をどうやってコントロールするかを教えるということが本当の体育なんですよ」
「なるほど、体重が増えたと思ったらダイエットしたり、出来ない動作を練習でモノにするということもありますね」

「自然の中で水や虫や石に触ると、冷たかったりぐにゃぐにゃしていたり、ぬるぬるしていますよね。そういう感覚だって身体感覚なんです。これは鍛えなくては行けないんですよ。そういう鍛錬の中から危険になる徴候や限界を体で身につけなくてはならないんですから」

 所詮は人間も動物であり、動物としての限界があるのです。パソコンのモニターの前に座っているとそんな原点すら忘れてしまっています。

 厳しい練習の成果は、「体が覚えている」という感覚になりますね。体は大いに鍛えましょう。
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マンションのスラム化・廃墟化

2008-05-22 23:19:56 | Weblog
 ある勉強会で、群馬県の各市におけるマンションのスラム化の恐るべき現状についてのお話を聞きました。今日の講師は高崎健康福祉大学教授の松本恭治先生です。

  

 これからの地方都市のマンション問題のひとつは、入居者が高齢化して行く中で次第に活力を失い、独居化し、そして入居人が亡くなった後には入る人もなく次第に入居者が少なくなってスラム化してゆくという事態です。

 そしてもう一つはこれまでに、都市の郊外に林立したマンションの中から、新しいマンションが出来るたびに郊外のそれからは転居し次第に入居者が少なくなって管理費も出ず、管理の手が及ばなくなりスラム化・廃墟化するという過程のマンションです。

 前段のケースでは、まだある程度活力のあるうちにワンフロアをグループホーム化するなどの利用で利用を復活させる取り組みが始められたりすることもあり、早い段階からマンションの行く末について住民が対応をしておくことが有効のよう。

 しかし後半のケースは、もう建てた業者も倒産していたり、競売でも値が付かなくて、一戸五万円にまで値が下がったケースも珍しくないとか。それでも実際に見に行くともうゴミの山だったり、給水塔がさび付いていたりととても人が住めるような状態では無いものが多いのだそうです。管理費が安かったり修繕積み立て費を取っていないような管理では早晩そういう憂き目をみそうです。

 住まいは人が住んでいないと駄目なんです。

 結局これらの現象は、少子高齢化という大きな社会構造の変化からくる訳ですが、これに車社会の進展による居住環境の拡散という要素が加わりました。

 かつて人口がどんどん増えた時代には、より広くてより安く、プライバシーが確保されるような住まいを求めればどうしても土地の安い郊外に立地する物件がその要望に応えられたわけで、そこには社会的な歓迎ムードもありました。

 しかし車がありさえすれば心地よい郊外の住居も、車が使えないようなお年寄りや子供達のような社会的な弱者にとっては非常に厳しい環境です。

 市街地に固まった住宅であれば介護をしてくれる人も自転車で回れますが郊外の拡散した居住地では車でなければ回れないということだってあるとか。

 来るべき高齢化社会と都市の構造とがうまく調和すればよし、調和しなければ幸せになれない拡散都市になるというのが、過疎を経験した地方都市が得た知見です。

 住む人や世帯の数と新築される住居との関係などから、適切な住宅政策が打たれなければ、これからもマンションのスラム化は進むでしょうし、それは「民間の財産だから」では済まなくて、税金を投入しないと解決できないような社会問題にも発展する可能性が高いということです。

 「良質な住宅」というのは社会の財産です。上手に造り上手に守って後代に残してあげることが出来れば良質なストックにもなり、逆につまらないものができてしまえば後代には廃墟とゴミの山にもなるということ。

 住宅には住宅政策という視点が必要です。

 マンションで区分所有で済んでいる方たちは自分のところだけは頑張っても、回りの生活水準が下がってしまえばマンション全体の価値が下がります。「隣は何をする人ぞ」と気取ってばかりもいられません。

 棟全体が結束するかしないかで、自分の財産の価値はいかようにも上下するのです。

 まずは近くに友達を作るところから始めたいものです。

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