さて、「黒船前夜」のレビューです。全体は十章からなっていて、それぞれにテーマを持った文章が書かれています。
まず初めはロシアの東征の物語。16世紀の末あたりから東へ東へとコサックたちが進出を始め、1639年にはオホーツク海の名の元となったオホーツクへ進出をしています。
そしてその後、ロシアの政治がまともには及ばない東方を舞台にまあ乱暴な活動が始まりますが、そのころ丁度力を伸ばしていたのが大陸の清でした。
ロシアは清と6年にわたる戦争を戦い、ついにネルチンスク条約によって、アルグン河との合流点より下流のアムール河流域を清国領と認め、結果として広大なアムール河下流から駆逐されることになりました。
後世歴史家は、「このことによりロシアは沿海州を押さえることができず、カムチャッカ方面からアプローチせざるを得なくなり、北方問題の始まりが遅くなった」と説明しています。
実はこの時代はまだカムチャッカ半島から蝦夷地に至るクリル諸島周辺は夏期に立ち込める霧によって視界がきかず、世界の中でも満足な地図が描けない最後のエリアでした。
しかしロシアはカムチャッカ半島からのクリル諸島がテンやラッコなどの毛皮資源が豊富であることに気づき、原住民を征服して毛皮税をかけようとします。
そこで莫大な現地利益を上げられるという成功体験が彼らを東へ東へ、未開の土地へと突き動かす原動力でした。
同時に、その頃からしばしば見られた漁船の漂流者たちがやって来る、東方にある日本という国は、水や食料、燃料の供給拠点や交易先として有望であると思われるようになりました。
ロシアがペテルブルクに日本語学校を作ったのはなんと1705年のこと。この頃からロシアは日本とコミュニケーションをとることへの戦略的な活動を始めていたのです。
※ ※ ※ ※ ※
さて、時代は下って1771年。一隻の異国船が阿波の国(今の徳島県)の港に入り、長崎出島のオランダ商館長に当ててロシア人に注意するようにとの警告の手紙を託すという事件がありました。
その人物とはファン・ベニョフスキーという流刑になっていたポーランド人ですが、脱獄してこの挙に及んだらしいのですが、彼の名はいつしか間違って伝えられ「はんべんごろう」と呼ばれるようになります。
最初はこの手紙の訳も判然とせず放っておかれたのですが、これを市井の知識人たちが騒ぎはじめ、幕府も捨て置けないようになりました。やがて工藤平助が「赤蝦夷風説考」を著すに至って、どうやらロシアは蝦夷地のまだ先の諸島でアイヌたちをてなずけ始めているらしいということを知るようになりました。
この頃の松前藩の蝦夷地統治は、アイヌとの交易権を場所請負制として力のある商人に任せるようになりました。この場所請負制については、しばしばアイヌから搾取をする非道な面が強調されていますが、著者は「少なくとも松前藩としては非道な商人は取り締まったり罰を与えるなどかなり倫理に適った政治をしていた」と解釈します。
また必ずしもアイヌを日本人化させることにも積極的ではなく、アイヌにはアイヌの文化や生活があり、そこで彼らが採るものと交易ができれば良い、とさえ考えていて、ロシアのように土地を征服するというような強い支配意識を持っていなかったのがロシアとの違いである、とします。
しかし、天明5年、6年に田沼意次政権末期に相次いで行われた蝦夷地一周大探検に加わった者たちには既に国家意識や近代ナショナリズムの意識が芽生えていたようです。
かれらの報告書には搾取されているアイヌに同情し、「アイヌは日本人であり、彼らを日本の国風に同化させないでいるのは『その方が掠め安いため』であり、松前藩と悪徳商人の結託の結果であり、アイヌを救い出さなくてはいけない」という不信感が明らかで、この考え方はその後の幕府の方針や明治以降の歴史観にも大きな影響を与えることとなったのでした。
* * * * *
天明の探検が行われてから数年後の1789年にネムロ、アッケシ、クナシリまで巻き込んだメナシ・クナシリの乱が起きます。くしくもフランス革命と同じ年のことです。
これはアイヌの長老が死んだことに対して、それまでの交易上の不満が重なって和人に殺されたものでこのままでは自分たちも危ないと思う、追い込まれた感情が爆発したものでした。
幕府は騒動が治まった後にアイヌならびに商人側から聞き取り調査を行っていますが、このときのアイヌ側の不満は後々、和人によるアイヌ収奪という固定的な観念を生んだのではないか、と著者はこれまでの常識に疑問を投げかけます。
それはさまざまなアイヌとの関係に関する研究の中でわかってきたことがベースになっています。
たとえばアイヌ勘定というのがあります。鮭を数えるときに「はじめ、一、二、三…、九、十、おわり」という数え方で、和人は10本ごとに2本得をするものです。
これは数の勘定に疎いアイヌをだます典型的な数え方だ、とされて搾取の典型とされてきましたが、実はアイヌには数の概念はしっかりあったし、いわゆるアイヌ勘定は鮭と鱒のかんじょうのときにしか使われなかったのだそう。
つまりこうした輸送中に痛みやすい品物は12本を持って10本とするという一般の商習慣であって、「アイヌを騙して搾取している」とするのは劣った彼らを保護しなくてはならない使命感とセットになった文明的優越感があったのではないか、というのが著者の解釈です。私自身の既成概念が揺らぎました。
またアイヌ側の方も和人の側が新しい漁場を開拓することに対して「自分たちだけでは無理なので嬉しい」と歓迎を示すなど、既に交易という形での商品経済なくしては生活が成り立たなくなっていたのも事実で、経済が社会を変えて行くことは時代の流れだということがこの歴史でも学べます。
* * * * *
さて、いよいよラクスマンの登場。彼は漂流民を日本に返すというカードを持ちながらネムロに到着して日本側に交易を求めます。
そこで初めて徳川幕府は長崎の出島意外での外国に対して開国をするかどうかを迫られます。
このときの対応は、相手をじらしつつ「今は駄目だが長崎へ行くならそこで改めて考える」という証文を渡してごまかします。このときには長崎へはいけまいと踏んだ節があります。
案の定、ラクスマンは長崎へは行かずに戻ることになりましたが、あとは長崎へ行けば交易は開かれると信じていました。
ところが戻ってみるとロシア本国ではナポレオン旋風が吹き荒れていて東方をどうするどころではなくなってしまい、日本渡航はしばらく沙汰やみとなってしまいます。
その証文は十数年後にレザノフに託され、レザノフは長崎へ向かうのですが、このとき幕府はやはり開国することはできないとつっぱることになり、怒ったレザノフは部下のフヴォストフに武力で威嚇するように伝え、クナシリや樺太で日本人が襲われると言ういわゆる「フヴォストフ事件」を起こします。
これがやがてゴローニンの捕獲と高田屋嘉兵衛との交換といった一触即発直前の緊張感を招きます。
総じて江戸幕府の外交対応は、国を開かないことを除けば捕虜の扱いなどは当時の国交の世界標準にかなったものであって、双方に敬意をもった紳士的なものであったと著者は評価します。
またゴローニンも後にその顛末を「日本幽囚記」として表しますが、一貫して日本の役人および庶民の態度を好ましいものだと記しています。
このゴローニン事件(1813年)の一件落着を契機として、ロシアは日本との接触を控えるようになります。南進するロシアと北進する日本とのせめぎあいはここにこう着状態を迎えたまま、日本は今度はアメリカから開国を迫られ、明治維新を迎えることとなります。今度は開国を避けられなかったと言うわけです。
* * * * *
総じて北方は江戸から遠くても現場力でなんとか鎖国の禁を守り続けたけれど本丸が襲われると耐えられなかったということでしょうか。
この間、蝦夷地は松前藩の統治におかれていたものが幕府直轄となりまた松前藩に戻され、さらにまた直轄になるというゆらぎを繰り返します。
地方自治的な管理が国家管理になる過程の揺らぎを示しているようですが、辺境の地は地方が管理するのが良いのか、それとも国家が管理するのが良いのか、地方分権の流れが強まる昨今、やはり私たちは今一度辺境の地の歴史を勉強しなおしたほうが良いように思います。
数多くの歴史的エピソード満載の「黒船前夜」、北海道を舞台にこのような良書が現れたことに感謝したいと思います。
道民ならばぜひ読んでおきたい一冊。重ねてお勧めします。
まず初めはロシアの東征の物語。16世紀の末あたりから東へ東へとコサックたちが進出を始め、1639年にはオホーツク海の名の元となったオホーツクへ進出をしています。
そしてその後、ロシアの政治がまともには及ばない東方を舞台にまあ乱暴な活動が始まりますが、そのころ丁度力を伸ばしていたのが大陸の清でした。
ロシアは清と6年にわたる戦争を戦い、ついにネルチンスク条約によって、アルグン河との合流点より下流のアムール河流域を清国領と認め、結果として広大なアムール河下流から駆逐されることになりました。
後世歴史家は、「このことによりロシアは沿海州を押さえることができず、カムチャッカ方面からアプローチせざるを得なくなり、北方問題の始まりが遅くなった」と説明しています。
実はこの時代はまだカムチャッカ半島から蝦夷地に至るクリル諸島周辺は夏期に立ち込める霧によって視界がきかず、世界の中でも満足な地図が描けない最後のエリアでした。
しかしロシアはカムチャッカ半島からのクリル諸島がテンやラッコなどの毛皮資源が豊富であることに気づき、原住民を征服して毛皮税をかけようとします。
そこで莫大な現地利益を上げられるという成功体験が彼らを東へ東へ、未開の土地へと突き動かす原動力でした。
同時に、その頃からしばしば見られた漁船の漂流者たちがやって来る、東方にある日本という国は、水や食料、燃料の供給拠点や交易先として有望であると思われるようになりました。
ロシアがペテルブルクに日本語学校を作ったのはなんと1705年のこと。この頃からロシアは日本とコミュニケーションをとることへの戦略的な活動を始めていたのです。
※ ※ ※ ※ ※
さて、時代は下って1771年。一隻の異国船が阿波の国(今の徳島県)の港に入り、長崎出島のオランダ商館長に当ててロシア人に注意するようにとの警告の手紙を託すという事件がありました。
その人物とはファン・ベニョフスキーという流刑になっていたポーランド人ですが、脱獄してこの挙に及んだらしいのですが、彼の名はいつしか間違って伝えられ「はんべんごろう」と呼ばれるようになります。
最初はこの手紙の訳も判然とせず放っておかれたのですが、これを市井の知識人たちが騒ぎはじめ、幕府も捨て置けないようになりました。やがて工藤平助が「赤蝦夷風説考」を著すに至って、どうやらロシアは蝦夷地のまだ先の諸島でアイヌたちをてなずけ始めているらしいということを知るようになりました。
この頃の松前藩の蝦夷地統治は、アイヌとの交易権を場所請負制として力のある商人に任せるようになりました。この場所請負制については、しばしばアイヌから搾取をする非道な面が強調されていますが、著者は「少なくとも松前藩としては非道な商人は取り締まったり罰を与えるなどかなり倫理に適った政治をしていた」と解釈します。
また必ずしもアイヌを日本人化させることにも積極的ではなく、アイヌにはアイヌの文化や生活があり、そこで彼らが採るものと交易ができれば良い、とさえ考えていて、ロシアのように土地を征服するというような強い支配意識を持っていなかったのがロシアとの違いである、とします。
しかし、天明5年、6年に田沼意次政権末期に相次いで行われた蝦夷地一周大探検に加わった者たちには既に国家意識や近代ナショナリズムの意識が芽生えていたようです。
かれらの報告書には搾取されているアイヌに同情し、「アイヌは日本人であり、彼らを日本の国風に同化させないでいるのは『その方が掠め安いため』であり、松前藩と悪徳商人の結託の結果であり、アイヌを救い出さなくてはいけない」という不信感が明らかで、この考え方はその後の幕府の方針や明治以降の歴史観にも大きな影響を与えることとなったのでした。
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天明の探検が行われてから数年後の1789年にネムロ、アッケシ、クナシリまで巻き込んだメナシ・クナシリの乱が起きます。くしくもフランス革命と同じ年のことです。
これはアイヌの長老が死んだことに対して、それまでの交易上の不満が重なって和人に殺されたものでこのままでは自分たちも危ないと思う、追い込まれた感情が爆発したものでした。
幕府は騒動が治まった後にアイヌならびに商人側から聞き取り調査を行っていますが、このときのアイヌ側の不満は後々、和人によるアイヌ収奪という固定的な観念を生んだのではないか、と著者はこれまでの常識に疑問を投げかけます。
それはさまざまなアイヌとの関係に関する研究の中でわかってきたことがベースになっています。
たとえばアイヌ勘定というのがあります。鮭を数えるときに「はじめ、一、二、三…、九、十、おわり」という数え方で、和人は10本ごとに2本得をするものです。
これは数の勘定に疎いアイヌをだます典型的な数え方だ、とされて搾取の典型とされてきましたが、実はアイヌには数の概念はしっかりあったし、いわゆるアイヌ勘定は鮭と鱒のかんじょうのときにしか使われなかったのだそう。
つまりこうした輸送中に痛みやすい品物は12本を持って10本とするという一般の商習慣であって、「アイヌを騙して搾取している」とするのは劣った彼らを保護しなくてはならない使命感とセットになった文明的優越感があったのではないか、というのが著者の解釈です。私自身の既成概念が揺らぎました。
またアイヌ側の方も和人の側が新しい漁場を開拓することに対して「自分たちだけでは無理なので嬉しい」と歓迎を示すなど、既に交易という形での商品経済なくしては生活が成り立たなくなっていたのも事実で、経済が社会を変えて行くことは時代の流れだということがこの歴史でも学べます。
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さて、いよいよラクスマンの登場。彼は漂流民を日本に返すというカードを持ちながらネムロに到着して日本側に交易を求めます。
そこで初めて徳川幕府は長崎の出島意外での外国に対して開国をするかどうかを迫られます。
このときの対応は、相手をじらしつつ「今は駄目だが長崎へ行くならそこで改めて考える」という証文を渡してごまかします。このときには長崎へはいけまいと踏んだ節があります。
案の定、ラクスマンは長崎へは行かずに戻ることになりましたが、あとは長崎へ行けば交易は開かれると信じていました。
ところが戻ってみるとロシア本国ではナポレオン旋風が吹き荒れていて東方をどうするどころではなくなってしまい、日本渡航はしばらく沙汰やみとなってしまいます。
その証文は十数年後にレザノフに託され、レザノフは長崎へ向かうのですが、このとき幕府はやはり開国することはできないとつっぱることになり、怒ったレザノフは部下のフヴォストフに武力で威嚇するように伝え、クナシリや樺太で日本人が襲われると言ういわゆる「フヴォストフ事件」を起こします。
これがやがてゴローニンの捕獲と高田屋嘉兵衛との交換といった一触即発直前の緊張感を招きます。
総じて江戸幕府の外交対応は、国を開かないことを除けば捕虜の扱いなどは当時の国交の世界標準にかなったものであって、双方に敬意をもった紳士的なものであったと著者は評価します。
またゴローニンも後にその顛末を「日本幽囚記」として表しますが、一貫して日本の役人および庶民の態度を好ましいものだと記しています。
このゴローニン事件(1813年)の一件落着を契機として、ロシアは日本との接触を控えるようになります。南進するロシアと北進する日本とのせめぎあいはここにこう着状態を迎えたまま、日本は今度はアメリカから開国を迫られ、明治維新を迎えることとなります。今度は開国を避けられなかったと言うわけです。
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総じて北方は江戸から遠くても現場力でなんとか鎖国の禁を守り続けたけれど本丸が襲われると耐えられなかったということでしょうか。
この間、蝦夷地は松前藩の統治におかれていたものが幕府直轄となりまた松前藩に戻され、さらにまた直轄になるというゆらぎを繰り返します。
地方自治的な管理が国家管理になる過程の揺らぎを示しているようですが、辺境の地は地方が管理するのが良いのか、それとも国家が管理するのが良いのか、地方分権の流れが強まる昨今、やはり私たちは今一度辺境の地の歴史を勉強しなおしたほうが良いように思います。
数多くの歴史的エピソード満載の「黒船前夜」、北海道を舞台にこのような良書が現れたことに感謝したいと思います。
道民ならばぜひ読んでおきたい一冊。重ねてお勧めします。