そろそろ水不足が心配されそうな今年の梅雨。降らないまま終わって、降ればどしゃ降りというのは最も好まれないパターンなのですがね。
さて、吉田松陰さんに招かれている今日この頃。そういうことならその縁の続くところまで行ってみよう、と通勤電車の中で、先週買ってあった「留魂録(留魂録)」(吉田松陰 全訳注古川薫 講談社学術文庫)を読み始めました。
この留魂録とは、吉田松陰が小伝馬町上町にあった牢に入れられ、死を迎える二日前から一昼夜で書き上げた五千字ほどの文章です。
文章全体は「一、」から始まる十六の章に分かれたエッセイのような短文で、留魂録と書かれた後に和歌が一首。
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
留置(とどめおか)まし 大和魂(やまとだましい)
二十一回猛士
「二十一回猛士」とは松陰がよく使ったペンネームのこと。そしてその内容は、今日ここに至った経緯を簡潔な文章で表しつつ、死生観やこれからのことについて語った松陰最後の文章、すなわち遺書そのものなのです。
松陰は二度牢屋につながれていますが、最初はペリーの黒船に乗り込もうとして失敗し自首したとき。そして二回目の嫌疑の端緒はごく軽いもので「誰それにあったと聞くが、謀議ではなかったのか」「御所に批判的な文書が投げ込まれて、それがお前の字に似ているというものがおるがどうか」というものでした。
あまりの馬鹿らしさに松陰先生、思わず時の老中間部詮勝(まなべあきかつ)を襲撃する企てを述べて、意見をしてしまったのでした。
松陰は(それは幕府も知っていることだろう)と思っていたのですが、そうではなかったために、逆に超危険人物と見なされてしまったのです。
そのため、いくら「襲撃といっても、諫めるという意味である」という主張をしても、取り調べ調書には「殺すつもりであった」という書き方しかしないようになり、(ああ、これは自分に罪を着せるつもりであるな)ということが分かってきたのだ、というようなことが書かれています。
訳者の古川薫によるとこの後に続く文章は
「…だが、ことはもうここまで来た。差し違え、切り払いのことを私があくまで否定したのでは、かえって激烈さを欠き、同志の諸友も惜しいと思われることであろう。自分もまた惜しいと思わないわけではない」
「しかしながら、繰り返しこれを考えると、志士が仁のために死ぬにあたっては、このような取るに足らぬ言葉の得失など問題ではない。今日、私は権力の奸計によって殺されるのである。神々はあきらかに照覧されているのだから、死を惜しむところはないであろう」という訳になります。
既に死を覚悟した思いが切々と書かれています。
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そしてこのなかでも最も輝いている一節が、彼の死生観を表した一節です。
「今日、死を決意してもなお心が安らかなのは、四季の循環を考えたからである。農業が行われるのを見ると、春に種まき、夏に苗を植え、空きに刈り取り、冬には収穫物を蔵に入れる。秋冬ともなると皆収穫を喜ぶばかりであって、収穫を悲しむということを聞いたことはない」
「私は今三十歳で生を終わろうとしている。このまま死ぬのは育てた作物が花を咲かせないままに似て、惜しむべきかも知れないが、しかし自分自身でいえば、これもまた花咲き実りを迎えたときなのである」
「なぜなら人の寿命には定まりがなく、農業のように必ず四季を巡るものとは違うからである。人生には人生なりの春夏秋冬があるものだ。十歳にして死ぬ者はその十歳の中に四季がある。二十歳には二十歳の、三十歳には三十歳の四季があるのである」
「十歳が短いというのは、夏ゼミの一生が樹木のように長くあるべきだ、というようなものだし、百歳が長いというのは樹木をセミにしようというようなもので、どちらも天寿にたっすることにはならない」
「私は三十歳で四季は既に備わり、花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なるモミガラか成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。もし同志諸君の中に私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに穀物が年々実っていくのと同じで収穫のあった年に恥じないことになるだろう。同志諸君、このことを良く考えて欲しい」
まさにこの一節こそ、吉田松陰の死生観が存分に現れていて読むものの涙を誘わずにはいられません。
この留魂録は実は二通作られ、一通は所在が不明となったもののもう一通は牢獄内で松陰を尊敬するに至った牢名主の沼崎吉五郎が肌身離さずもっていたことで後に世に出るようになったのだとか。
松陰の門下生たちはこれを回覧し、書き写して自らを奮い立たせ維新の道をひた走ったのでした。
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この文庫本「留魂録」には、注釈者の古川薫さんによる吉田松陰の伝記も添えられていて、彼の生涯がより分かりやすくなっています。
明治維新の思想的背景を形づくり、命をもって維新に魂をいれた吉田松陰。歴史は人だ、ということを改めて感じました。