北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

たまには古典を開いてみよう ~ 闇夜を照らす光となる言葉がある

2020-10-22 23:45:45 | 古典から

 

 本を読むときはバランスが大切だ、と思っています。

 私の場合は、古いものと新しいもののバランスに注意をしています。

 時代についてゆくためには、最新流行のキーワードによる書物を読むのがよろしくかつ必要です。

 しかしそればかりでは流行り廃りに傾きすぎ。

 そこで最新のものを読んだ後には、古めかしいけれど何十年、何百年の時のフィルターを経てなお人々に愛されているような古典を読み、あるいは読み返すことでバランスをとっているつもりです。

 手近なところにあった森信三先生の「修身教授録」は、森先生が大阪天王寺師範学校(現・大阪教育大学)本科での講義をまとめられたものです。

 ぱらぱらとページをめくっていると「行く手を照らす光」という単語が目に留まりました。

 このページは教師を目指す子供たちが卒業をするお別れの時の講義です。

 曰く「教育というものは、常に種まきであり苗木を育てるようなもので、花実を見る喜びは必ずしも教育の本質的なものではない。

 花実の見られる希望がなければ真の努力ができないようでは、よし為政者ではあり得るとしても真の教育者とはいいがたい。

 いや、真の為政者であれば事故の努力が在職中にその結実を見ることを念とせず、必ず後に来る為政者に、自己の努力の収穫を譲る程度の雅量と見識が必要でありましょう。

 かくして諸君らは、真に自分の道を開くものは自己自身でなくてはならぬということを今日から深く覚悟しなくてはならない。

 が同時にまた、闇夜に燈火なくして、手探り足探りでは歩かれないように、人生の行路においても、なるほど歩むのはあくまで自己一人の力による外ないのではありますが、しかし同時にそこには、自己の行く手を照らす光を要するでありましょう。

 そのために諸君らはまず偉大な先哲の教えについて学ばねばならないのであります」

 
 一人で歩いて行かなくてはならない自分自身の人生ではありますが、その行く手を照らすのは先哲の教え、つまり古典です。

「修身教授録」それ自体も今や古典に属する書物ですが、古典はたまに読み返すと心をかき鳴らす言葉に出会うものです。

 ちょっと気持ちが穏やかではない時こそ、古典を開いてみてはいかがでしょう。

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「幕末日本探訪記」を読む

2010-04-22 23:49:31 | 古典から



 ロバート・フォーチュンの「幕末日本探訪記」を読みました。

 ロバート・フォーチュンについては、3月末に東京の飛鳥山公園へ行った際に、この地を訪れて非常に喜んだ外国人として紹介されていたのでした。

 幕末に日本を訪れた外国人がその文化の違いに驚きつつ、日本人の特質を高く評価しているのはつとに知られているところです。こうした外国人の評価をまとめて日本人を泣かせる名著としては渡辺京二さんの「逝きし世の面影」がありますが、これなど日本人ならば是非読んでおきたい一冊です。

 さてロバート・フォーチュンさんですが、彼はイギリス政府からの派遣によって幕末の1860年と1861年の二度にわたって日本を訪れています。日本の珍しい植物を本国に持ち帰ることを仕事とする、いわゆる「プラントハンター」(植物収集家)です。

 プラントハンターはヨーロッパでは16世紀以降世界各地の行けるところはどこでも訪れて有用な植物を探して歩きました。そしてこの時期、日本が開国したと言うことで何人ものプラントハンターが日本を訪れているのです。

 ペリー提督による黒船来航が1853年で、日米和親条約が結ばれたのが1854年の3月、そしてその年の9月には日英和親条約が結ばれましたが、フォーチュンは1860年に初めて日本を訪れています。

 もっとも、まだこの時期は日本の開国の動きを快く思わない攘夷派の武士も多かったわけで、だいぶ力の衰えた幕府による護衛の監視を受けながらの日本探訪でした。 

 フォーチュン氏は、横浜に入港し、江戸を訪問した際には染井や向島まで足を伸ばして園芸屋からいくつもの植物を買い取って収集をしていますが、それらの様子を今で言うエッセイ風に書き記したものが、この「幕末日本探訪記」というわけです。

 フォーチュン氏はこの日本探訪と前後して中国の天津と北京も訪れてそこでも植物収集を行っていますが、この本では日本に関する記事が全体の8割ほどを占めていて、日本の関心を表しています。

 外国人の目から見た日本の風俗に関しては、先に述べた「逝きし世の面影」でも何人もの外国人による記事が引用されていますが、このロバート・フォーチュン氏の「幕末日本探訪記」の特徴は、プラントハンターとして日本を季節の植物と園芸文化の側面から捉えていることです。

 今は染井霊園になっているあたりの染井村では、アロエやサボテンなどを見つけて、「これらの南米の植物は、シナではまだ知られていないのに日本へは来ているのである。実際それは識見のある日本人の進取の気質をあらわしている」と驚いています。

 また、イギリスでは斑入りの植物はアオキしか知られていなかったのに対して日本では、斑入りのラン、斑入りのシュロ、斑入りのツバキ、そして斑入りの茶まである!と歓喜の声を上げています。

 花好きの国民性としては、「日本人の国民の著しい特性は、下層階級でも皆生来の花好きであると言うことだ。気晴らしにしじゅう好きな植物を少し育てて無上の楽しみとしている。もしも花を愛する国民性が人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人々は、イギリスの同じ階級の人たちに較べるとずっと勝って見える」としています。
 
 この当時の江戸の庶民がいかに自由で花好きをほしいままに町を飾り、それを無上の喜びとしているかが驚きをもって描かれています。こうした花の文化で日本を捕らえているのがロバート・フォーチュンの文章の特徴です。

 昔の表現から今の植物へと和訳をするのは大変だったでしょうが、しっかりとした訳で表現されています。

 150年前の祖先の姿を花の文化を通じて見て取った記録。機会があったら是非ご一読ください。
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子供を託せる人

2008-05-11 22:34:14 | 古典から
 先日知人のAさんと飲んでいて、今私が死んだら子供のことを託せるのはAさん、あなただけなのでよろしくお願いします、という話題になりました。

 そう言えば、どこかの中国の古典でそういう話があったように思って、気になって古典を引っ張り出して見ました。すると、あった、ありました、孔子の論語にありました。直接には思い出せなくても、キーワードを頼りにネットで検索できるのですから、「知」はいよいよ我々の身近になりました。

  

 さてその一節は、こういうもの。

 曾士(そうし)の曰わく、以(もっ)て六尺(りくせき)の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨(のぞ)んで奪うべからず。君子人か、君子人なり。(「論語」泰伯第八)

 このなかの六尺(りくせき)の「尺」とは長さではなく時間の単位で、約2年半くらいのことだそう。だから「六尺の孤」とは親を亡くした15歳くらいの子供のことですが、文脈的には君主の若君のこと。

 意味は「曾士が言われた『小さい孤児の若君をあずけることもできれば、諸侯の国家の政令を任せることも出来、大事にあたっても〔その志を〕奪うことが出来ない。これこそ君子の人だろうか、〔確かに〕君子の人である』」というものです。(参考:岩波文庫「論語」金谷治訳注)

 この一節、短い言葉では託孤寄命(たくこきめい)などとも呼ばれ、秀吉から遺児秀頼のことを託された前田利長の話や、その前田利長の臨終に際して「太閤からそう言われて、論語を勉強してきたが、これをあなたに差し上げるから熟読せよ」と言われながら、「あの話を聞いたときは無学で何を言っているのか分からなかったが、今ようやく分かるようになった」と臨終の際に慨嘆した加藤清正の話などが伝わっています。


 実際、本当に心から相談をしたいと思ったときに、相談できる人が何人皆さんの頭に浮かぶでしょうか。普段は仲良く話したり飲んだりする友達はいても、本当に物事を相談できる相手って、一人いるかいないかではありませんか。

 まして今自分が死ぬとなったときに、子供を託そうというつもりで周りを見回してみて、その信頼に足ると思える人がいるとしたら、その人こそ本物だということです。

 人間、ある程度の年齢になってくると、そろそろ本物の友を見つけることを考えた方が良いですし、逆に、友から託すに価すると思われるような自分になれるでしょうか。

 自分がそんな風になれるかどうか、と思うと冷や汗が出てきます。

 修行が足りません。 

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吉田松陰「留魂録」を読む

2007-06-27 23:51:02 | 古典から
 そろそろ水不足が心配されそうな今年の梅雨。降らないまま終わって、降ればどしゃ降りというのは最も好まれないパターンなのですがね。


 さて、吉田松陰さんに招かれている今日この頃。そういうことならその縁の続くところまで行ってみよう、と通勤電車の中で、先週買ってあった「留魂録(留魂録)」(吉田松陰 全訳注古川薫 講談社学術文庫)を読み始めました。

 この留魂録とは、吉田松陰が小伝馬町上町にあった牢に入れられ、死を迎える二日前から一昼夜で書き上げた五千字ほどの文章です。

 文章全体は「一、」から始まる十六の章に分かれたエッセイのような短文で、留魂録と書かれた後に和歌が一首。

 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
       留置(とどめおか)まし 大和魂(やまとだましい)
                         二十一回猛士

 「二十一回猛士」とは松陰がよく使ったペンネームのこと。そしてその内容は、今日ここに至った経緯を簡潔な文章で表しつつ、死生観やこれからのことについて語った松陰最後の文章、すなわち遺書そのものなのです。

 松陰は二度牢屋につながれていますが、最初はペリーの黒船に乗り込もうとして失敗し自首したとき。そして二回目の嫌疑の端緒はごく軽いもので「誰それにあったと聞くが、謀議ではなかったのか」「御所に批判的な文書が投げ込まれて、それがお前の字に似ているというものがおるがどうか」というものでした。

 あまりの馬鹿らしさに松陰先生、思わず時の老中間部詮勝(まなべあきかつ)を襲撃する企てを述べて、意見をしてしまったのでした。

 松陰は(それは幕府も知っていることだろう)と思っていたのですが、そうではなかったために、逆に超危険人物と見なされてしまったのです。
 そのため、いくら「襲撃といっても、諫めるという意味である」という主張をしても、取り調べ調書には「殺すつもりであった」という書き方しかしないようになり、(ああ、これは自分に罪を着せるつもりであるな)ということが分かってきたのだ、というようなことが書かれています。

 訳者の古川薫によるとこの後に続く文章は
「…だが、ことはもうここまで来た。差し違え、切り払いのことを私があくまで否定したのでは、かえって激烈さを欠き、同志の諸友も惜しいと思われることであろう。自分もまた惜しいと思わないわけではない」

「しかしながら、繰り返しこれを考えると、志士が仁のために死ぬにあたっては、このような取るに足らぬ言葉の得失など問題ではない。今日、私は権力の奸計によって殺されるのである。神々はあきらかに照覧されているのだから、死を惜しむところはないであろう」という訳になります。
 
 既に死を覚悟した思いが切々と書かれています。

    ※    ※    ※    ※

 そしてこのなかでも最も輝いている一節が、彼の死生観を表した一節です。

「今日、死を決意してもなお心が安らかなのは、四季の循環を考えたからである。農業が行われるのを見ると、春に種まき、夏に苗を植え、空きに刈り取り、冬には収穫物を蔵に入れる。秋冬ともなると皆収穫を喜ぶばかりであって、収穫を悲しむということを聞いたことはない」

「私は今三十歳で生を終わろうとしている。このまま死ぬのは育てた作物が花を咲かせないままに似て、惜しむべきかも知れないが、しかし自分自身でいえば、これもまた花咲き実りを迎えたときなのである」

「なぜなら人の寿命には定まりがなく、農業のように必ず四季を巡るものとは違うからである。人生には人生なりの春夏秋冬があるものだ。十歳にして死ぬ者はその十歳の中に四季がある。二十歳には二十歳の、三十歳には三十歳の四季があるのである」

「十歳が短いというのは、夏ゼミの一生が樹木のように長くあるべきだ、というようなものだし、百歳が長いというのは樹木をセミにしようというようなもので、どちらも天寿にたっすることにはならない」

「私は三十歳で四季は既に備わり、花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なるモミガラか成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。もし同志諸君の中に私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに穀物が年々実っていくのと同じで収穫のあった年に恥じないことになるだろう。同志諸君、このことを良く考えて欲しい」

 まさにこの一節こそ、吉田松陰の死生観が存分に現れていて読むものの涙を誘わずにはいられません。

 この留魂録は実は二通作られ、一通は所在が不明となったもののもう一通は牢獄内で松陰を尊敬するに至った牢名主の沼崎吉五郎が肌身離さずもっていたことで後に世に出るようになったのだとか。

 松陰の門下生たちはこれを回覧し、書き写して自らを奮い立たせ維新の道をひた走ったのでした。

    ※    ※    ※    ※

 この文庫本「留魂録」には、注釈者の古川薫さんによる吉田松陰の伝記も添えられていて、彼の生涯がより分かりやすくなっています。

 明治維新の思想的背景を形づくり、命をもって維新に魂をいれた吉田松陰。歴史は人だ、ということを改めて感じました。 
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三上~どこで何を読むか

2007-06-25 23:59:50 | 古典から
 「三上」という言葉があります。読書をどこでするべきか、ということの教えです。

 曰く「枕上(ちんじょう)、馬上(ばじょう)、厠上(しじょう)」の三つです。本を読むには、寝るとき(枕上)、馬に乗って移動するとき(馬上)、トイレにはいるとき(厠上)というわけ。

 この三つは、あくまでも「そう言う時間を使って『良い本』を読め」と言っているわけで、ただそこで何でも本を読めばよいと言うものではありません。

 安岡正篤先生によれば、特に厠にあっては、「身体の汚れたものを排出するのだから、同時の心の汚れを排出すべきである」「そのためには大部の本を読んではいかん。霊感を与える『語録』のようなものがよい」のだそうです。

 トイレでじっくりとマンガなど読んでいる場合ではありません。汚れを出したら良いものを取り入れるということも大事。

 そういう品格ある短い文章こそ、言葉の出会いを感じるものです。安岡先生お勧めの語録としては、「言志録」、「菜根譚」、「論語」、「呻吟語」などを挙げられておられます。

 トイレに一冊、読むなら良書しか読む暇はありませんね。

 
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特待生問題と「空気の研究」

2007-05-04 23:38:23 | 古典から
 野球特待生の洗い出しの問題が世間をにぎわせています。

 特待生は金品の提供に当たるとのことで、違反していた学校では特待生をのぞいて春季大会に臨むか、そんなことをしたら誰が特待生だったかが特定されてしまうという判断から学校として出場を辞退するなど対応が混乱しています。

 今までは実質認められていたことが突然性急に厳しくなると、世の中に混乱と不安定を招きますね。「こんなに蔓延していたとは!」と驚いてはいますが、案外「想定の範囲内」なのかもしれません。

 私は、近代法の原則は「決まっていない前のことにはさかのぼってまで罪を問わない」ということなので、今回も今から駄目にして、これまでは不問にすればよいのに、と思っていたら、もともとがいけないと決められていたことだったのですね。

 もともと駄目とされていたのに、独特の世界でなんとなくお目こぼしをしていたわけで、それが突然正論が声高に叫ばれるようになると、やはり面と向かって文句も言えないものです。

 それにしても、もともと駄目なことが、日本人お得意の「ホンネとタテマエ」論から少しくらいの違反は見逃すという風にタガがはずれると、どこまでのエスカレートするのがまた情けないところ。

 このあたりのきわめて日本的な風景については、山本七平さんの「空気の研究」の中に面白く書かれています。

 「・・・従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、『空気が許さない』という空気的判断の基準である・・・」

 今回の特待生問題では、論理的には間違っていたとわかっていつつ、どこでもやっているんだから強いチームを作るためには仕方ないだろ。『空気読めよな~』というように、それまでは高校野球の世界の空気が許していたのでしょうね。

 このような非常に大きな「空気の存在」に対して山本七平さんは、「・・・だがわれわれの祖先が、この危険な『空気の支配』に全く無抵抗だったわけではない」としています。

 「少なくとも明治時代までは『水を差す』という方法を、民族の智恵として、われわれは知っていた。従って『空気の研究』のほかに『水の研究』も必要なわけで、この方法についてもだいぶ調べたのだが、この『水』は伝統的な日本的儒教の大系内における考え方に対しては有効なのだが、疑似西欧的な『論理』には無力であった」としています。

 空気と水。今の高校野球の現実や、スポーツプロの若年化などさまざまな問題を論理がどのように解決してゆくのかに注目したいものです。

 自分たちの回りにも空気が支配する世界って多いもの。

 自分には「水を差す」勇気があるでしょうか。
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きっとどこかで役に立つはず

2007-03-19 23:05:50 | 古典から
 のどが痛い~。どうやら風邪じゃなくて、のどが炎症を起こしているようす。いててて。 
 
【年度末まであと二週間】
 いよいよ今年度もあと二週間。年度内の予定をこなすためには一日が五分割くらいのスケジュールを組まなくてはなりません。

 そこへきて飛び込みの資料作成要求なども入るので、もうてんやわんやです。


 4月になると多くの同僚が散り散りになってそれぞれ新しい職場へ向かうことでしょう。あたらしいところでも、存分に力を発揮して欲しいものです。

 さて私もどうなる事やら。

 自戒を込めて、言志四録の最後の一巻である言志耋録(げんしてつろく)より一節をご紹介しましょう。

 曰く「人おのおの長ずるところありて、恰好の職掌あり。いやしくもその才にあたらば、すなわち棄つべきの人なし。『牛溲(ぎゅうしゅう)、馬勃(ばぼつ)、敗鼓(はいこ)の皮』、最も妙諭なり」

 その意味は、「ひとそれぞれに長所があって、ぴったりの役目がある。かりそめにもその人の才能に当てはめて使えば、棄ててしまって良い人などいない。『牛の小便、馬の糞、破れ太鼓の皮』なども名医はこれを用いて薬にするとは、誠に巧妙なたとえである」ということ。

 大したことのない自分でも、それなりに役に立つシーンはあるはずですね。

 それにしても、牛溲、馬勃とは…。   
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【番外編】六中観とは

2007-03-11 20:43:50 | 古典から
 五悪を検索してたどり着いた、という方からコメントをいただきました。
 
 「五悪」もそうですが、ある事柄を幾つかの言葉を集めて説明すると簡潔明瞭になるものです。今回は『六中観(「りくちゅうかん」と読む)』のご紹介です。

【六中観】
 安岡正篤先生の「一日一言」という本にも紹介されていたのが、六中観(りくちゅうかん)です。

 曰く、
  忙中閑有り (忙中につかんだものこそ本当の閑である)
  苦中楽有り (苦中に掴んだ楽こそ本当の楽である)
  死中活有り (身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ)

  壷(こ)中天有り (自分だけの内面世界はどこでもつくれる)
  意中人有り (心中に尊敬する人、相ゆるす人物をもつ)
  腹中書有り (心身を養い、経綸に役立つ学問をする)
 
 前半の三つは、いろいろな逆境の中にあって絶望しないあり方を示し、後半の三つは、精神的な空虚に陥らないための修養のあり方を示してくれています。

 「忙中閑あり」くらいはよく知られていますが、その他はいかがでしょうか。東洋哲学は知れば知るほどその知識が血になり肉体と同化してゆくものです。
 
 こういう一節は暗記と言うよりも心に染み入らせてしまって、常日頃からの自分自身の生き方を省みる指針にしたいものですね。
 

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五悪と五善

2007-02-22 23:16:56 | 古典から
 暖気が入って道路は水浸しです。おまけに雪が厚く積もったところは固まって氷になってツルツル滑るのです。2月にしては早い暖気です。

【五悪と五善】
 馬上、枕上、厠上(ばじょう、ちんじょう、しじょう)は、考え事をするのに良いところと言われていますが、読書にもぴったり。

 私の場合は夜眠気が差すまで本を読みます。くらっと気を失いかけたところで本を閉じて目を閉じると、1~2分で眠りにつくことができます。寝付きがよいのだけは自慢です。

 安岡正篤先生の「一日一言」という本を読んでいたら、「五悪」という言葉が出てきました。

 「荀子」という書物の中にある言葉なのだそうですが、五悪とは、
①仕事が良くできて、心険しいもの
②行が偏向して、しかも頑固なもの
③言うことが実は偽で、しかも口が達者なもの
④くだらぬことばかり覚えて、しかも博識であるもの
⑤悪い勢力について、しかも良く恩を売るもの

 とありました。

 仕事が良くできる、口が達者(弁が立つ)、博識、良く恩を売るなどというのは、一見すると良い評価にもつながりそうなものです。

 しかしそれらは一つに軸のうえで考えるとそう見えるのですが、水平な軸に垂直な軸を加えて別な評価を重ねて眺めてみると、違った様相が見えて来るということなのでしょう。

 仕事ができる~できないという軸を横に引いて、心が優しい~険しいという軸を縦に引いてみると、仕事の軸に心が加わった人間の評価位置が示されます。

 五悪を見て、「いるいる、そういう人が」という風に他人を評価するのではなく、常に我が身を省みて、自分がそうなってはいないかということの判断の基準にしたいものです。

 「一日一言」には「五美」という項目もありました。曰く、
①人を恵んで厭味(いやみ)なく
②労して怨(うら)みず
③欲して貪らず
④泰(ゆたか)で驕(おご)らず
⑤威あって猛からず

 人間できることならこうありたいと願う姿です。
 
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天の道と人の道

2007-02-19 23:22:26 | 古典から
 今日から明日にかけては東京出張です。そうか、今年になって初めての東京です。暖かいんだろうなあ。

【天道と人道】
 今週末の金曜日に苗穂地区でまちづくりに関する講演をすることになっています。

 苗穂地区といえばやはり大友亀太郎の大友堀に触れなくてはなりませんし、当然「報徳の教え」にも触れることになるでしょう。

 そのため、東京出張の移動時間を利用して改めて二宮尊徳に関する本を読んでいるのです。付け焼き刃といえば付け焼き刃ですが。

    *   *   *   * 

 「二宮翁夜話」というお話の中に「天道と人道」という話が出てきます。

 天の行う道と人の行う道ということで、尊徳先生はこの二つを「天道は自然に行われる道で、人道は人の立てる道だ」と、厳格に区別しています。

 曰く「天道にまかせておけば、堤は崩れ、川は埋まり、橋は朽ち、家は立ち腐れとなる。人道はこれに反して、堤を築き、川をさらえ、橋を修理し、屋根をふいて雨のもらぬようにするのだ」ということです。

 また「天には善悪というものがない。それゆえ稲も雑草も差別せずに、種のあるものはみんな生育させ、生気のあるものはみんな発生させる。人道はその天理に従いながらも、そのうちでそれぞれ区別をして、雑草を悪として米麦を善とするように、全て人の身に便利なものを善として、不便なものを悪とする」とも言っています。

 人が人として社会を築いて暮らしやすいように工夫と努力を重ねて行くことは、漫然としていて天から得られるものではなく、祖先から今に至るまで営々と積み重ねてやってきたおかげなのだ、ということを尊徳翁は強調するのです。
 
「人の卑しむ畜道は天理自然の道である。尊ぶところの人道は、天理に従うのであるが一方また作為の道であって、自然ではない」

 動物の生き方は、雨に濡れ日には照らされ、食べ物があれば飽きるまで食べ、なければ食べずにいるというもので、これはまさに自然の道そのものです。

 それに対して人間の生き方というものは、住まいを作って風雨をしのぎ、蔵を作って米穀を蓄え、衣服を作って寒暑をささえ、四季を通じて米を食べるというものであって、これこそが作為の道というわけです。

 尊徳先生は「自然の道は万古すたれないが、作為の道は怠ればすたれる」と断言します。

「ところが世人は、その人作の道を天理自然の道と思い誤るために、願うことがならず、思うことがかなわず、ついに我が世は憂き世だなどという言うようになるのだ」

 食べたいものを食べたいだけ食べ、したいことをしたいだけし続けることがいかに人の道として誤っているのか。「己に克つ」ことが人の道である、と強調し続けるのです。

 自然に流れるままに身を置くことは、人として許されることではない。自分の中に善悪の分別をつけて、善の方向に向かうように飽くことなく倦むことなく努力し続ける姿こそが人として美しい姿なのです。

 これこそまさに万古不易なり、ですね。   
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