今朝の日経新聞の最終面「文化面」に『芸術のしまいかた』という一文が掲載されていました。
この趣旨を生成AIのClaudeに400文字程度でまとめさせると以下のように出力してきました。
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パブリックアートは1980年代から日本各地に設置されてきたが、その管理や継承に課題が生じている。広島駅の舟越保武作品「牧歌」の消失は、その象徴的な例である。
作品の存在価値が認識されず、メンテナンス計画も不十分だったため、多くのパブリックアートが劣化や撤去の危機に直面している。
一方で、立川高島屋ショッピングセンターの岡崎乾二郎作品のように、市民の声で保存が決まった例もある。しかし、作品の維持管理は地域の負担となる。
パブリックアートの問題は、「みんなのもの」という概念と、実際の所有者や管理者の責任の間のギャップにある。作品の保存か撤去かの判断には、作家、所有者、地域住民、美術ファンなど、多様な立場の人々の意見を考慮する必要がある。
今後の社会変化を見据え、文化や芸術の「しまいかた」を適切に計画することが、その継承につながる重要な課題となっている。 (以上、Claudeの出力による)
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誰しも、後世のために良かれと思って多くの財産を残そうとしてきました。
道路・公園・ダム・港・上下水道、学校、芸術ホールなど様々なインフラもそうだし、法律や制度も創ってきました。
警察や消防、医療・介護などは、制度を作るとともに人材を育成して整備してきましたし、なによりも時代のニーズを受けて成立してきたビジネス・産業も現代の財産と言えるでしょう。
しかしそれらを支えるのはとにもかくにも「人」であり、「人数」であり、さらには人がいたとしても「人々の関心」があればこそ支えられるものといえるでしょう。
今日の日経の記事のポイントは、"関心を持っていた人々がいなくなった結果、関心が薄れて放置され失われた"と読み解くことができそうです。
特に日々人々に使われるような日常的な関わりがあれば「認知・認識・関心」として繋がっていられたものが、こと芸術となると、価値観や好き嫌い、ゆとりの有無などにも影響を受けて、必要性が問われることになるでしょう。
何もしなければ、アート作品の設置当時に関心を持っていた人々が少なくなるのは仕方のない事かもしれませんが、そこに工夫を加えれば、人々の関心を保ち続けることができるかもしれません。
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私のいた掛川市には「NPO法人 掛川の現代美術研究会」という会があって、パブリックアート作品の定期的な掃除や手入れや現代アート講座の開催、アート作品の説明パンフレットの作成などを通じて、市民にパブリックアートを生かしたまちづくりを模索しています。
アート作品を一つ一つとしてとらえるのではなく、市内にあるパブリックアート作品を網羅的にとらえて、作品のあるわが町への関心を寄せさせようという取り組みで、パブリックアートを設置する町ならば、こういう活動をセットにするような仕組みが求められてくることでしょう。
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しかし今日の日経の記事では、「何としても残すためにはどうするか」という視点ではなく、「しまいかたをどうするかも含めて『みんな 』で考えるべきだ」という関わり方を求めているようです。
地域の人口が減るということは、インフラでも芸術でも担い手や関心が失われるという悲しい現実に結びついてゆきます。
ITやAIなどの新技術は、それがあれば人間が考えなくて済むような社会ではなく、それらによって人間自身の関心が保たれるような方向性が求められます。
いくら技術が進んでも、守るにせよ始末をつけるにせよ、やはり人間は自ら考えて行動しなくてはならない、ということに気が付きます。