今朝は早くから一雨降って気温も大きく下がりました。窓を開けて涼やかに寝られたのは久しぶりです。
アマゾン・ドット・コムの古本で買った「日本幽囚記」(ゴロヴニン著 井上満訳 岩波文庫~現在は絶版)全三巻を一気に読みました。
面白い!近世の日露外交史の一ページとも読めれば、運命にもてあそばれるように日本(北海道)に囚われの身となったロシアのディアナ号艦長ゴロヴニンの冒険譚とも読める。
また、その代償として逆にロシアに囚われた日本の商人高田屋嘉兵衛の肝の据わった日露の友情譚でもあり、おまけに19世紀初頭の蝦夷地の市民生活の記録でもあるという、実にいろいろな意味を含んだ極めて優れた書物です。
この物語を理解するには、江戸時代中期の対ロシア外交を概観する必要があります。
ロシアは18世紀末ころから北太平洋の領土経営のために日本との交易を求めるようになります。それはまだ航海技術が発達していないために、近場で交易ができるように希望したものです。
そこで1793年にラクスマンを派遣しますが、江戸幕府では長崎に寄港させた上で交易は認めませんでした。
ロシアでは長崎では遠いので、蝦夷地での交易を希望して1803年にレザノフに政府の訓令をもたせて日本を訪れますが、そのときの対応は十年前のラクスマンのときよりもさらにつっけんどんな対応で、レザノフは頭に来て、武力による政策が必要と思うようになります。
そこでレザノフは部下のフヴォストフらとともに樺太の襲撃に向かいます。事実としてはどうやら途中でレザノフ自身は考えが変わったらしいのですが、命令はそのままにフヴォストフは文化3(1806)年の夏に樺太を襲撃し、住民を殺害して村を焼き払うという事件が起きます。世にいる「フヴォストフ事件」です。
このため日本はロシアを意識した北方に目を向けるようになり、近藤重蔵らを国後島まで派遣して、北方の事情を調べるようになりました。
ちなみに近藤重蔵は、北方の島々と蝦夷地を視察するの旅の途中で蝦夷地を歩くための道をアイヌ人を使って開削します。今の黄金道路の広尾町あたりのビタタヌンケ~ルベシベツの間の山道で、これが北海道の道路開削の嚆矢と言われています。
このフヴォストフ事件の思いがまださめやらぬ頃に北方の島々の測量のためにやってきたのがこの本の著者のゴロヴニンで、彼と6人の船員が文化8(1811)年に択捉島で日本の守備隊によって捕らえられることになります。
世に言うゴロヴニン事件です。
艦長のゴロヴニンが捕らえられた後、彼らのディアナ号には副館長に相当するリコルドが残されますが、彼は絶望の中にもゴロヴニン奪還に向けて活躍を始めます。
そしてその活動のなかで高田屋嘉兵衛たちがリコルドに捕らえられることになるのです。
囚われたゴロブニンらは松前島(北海道のこと)の松前に連れて行かれ、一時は脱走を試み三日にわたって北海道の山野をさまよいますが最後には再び捕らえられるというドラマもありました。
しかしよくよく観察してみると、日本人が彼らに対する応対は一貫して礼儀にかなったもので決してそれまでオランダ人によってヨーロッパに伝えられた未開で野蛮な国というイメージを全く覆すものでした。
彼らは接触した通詞(通訳)の熊次郎や村上貞助らから日本の文化について様々なことを聞き出し、日本観を改めて行きます。
さて、逆にロシアに囚われた高田屋嘉兵衛はここで男気を発揮し、ゴロヴニンがまだ松前で生きていることをリコルドに伝え、同時に自分の一身に替えてもこの問題を解決しようと決心します。
その態度にリコルドもうたれ、全幅の信頼を高田屋嘉兵衛に寄せるようになります。
嘉兵衛は囚われている最中にロシア語を勉強して意思疎通を図れるようになると、日露の仲介役として活躍し、ついにフヴォストフ事件はロシア政府の知らない、個人の独断であるという公式文書を渡すことで双方の人質を交換するという策に出てこれを日露両国が了承し、函館にてゴロブニンを引き渡すという、この事件のクライマックスを迎えることができたのでした。
この本は、捕らえられたゴロヴニンの手記と、残された艦長代理のリコルドによる補足的手記、ならびに訳者が日本側の公式文書を注としてつけることで、三つの視点でこの事件を俯瞰することができるようになっています。
下手をすると武力衝突しかねない、緊張した状況の中でも信頼を寄せることで円満な解決を迎える最後のシーンは、よもや小説でもこれほど上手には描けまいと思うほど感動的です。
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最後の喜びに満ちた別れのシーンでは「タイショウ」と呼ばれた高田屋嘉兵衛の見送りに対してロシア艦の全員が万歳にあたる「ウラー!」を三唱します。
「タイショウ、ウラー!」
そして嘉兵衛は見送る船の一番高いところに立って拳を突き上げて「ウラー!ディアナ!」と叫ぶのでした。
これは日露間の信頼と友情の物語でもあるのです。