日頃の買い物ではお買い得なものを選びたいのは当たり前。
じゃあその「お買い得」な価格って一体なんだろう?と思うと、同じような品物でも価格にはピンからキリまであって、一概には言えません。
実は価格には、「自分にとって正当化できる価格」と「自分には正当化できないバカげた価格」の2つしかないんだそうです。
まあこの記事をご覧ください。
---------- 【ここから引用】 ----------
お得感のトリック “妥当な価格”は幻想?
http://money.jp.msn.com/newsarticle.aspx?ac=IT20091026004&cc=07&nt=25
何かの値段を聞いた時、「高い」もしくは「安い」と感じる個人の金銭感覚には大きなバラツキがあります。収入や資産など経済力の差に加えて価値観の違いもあり、同じ値段でも「高い」と思う人、「安い」と思う人がいます。さまざまな人が持つ“妥当な値段”という感覚。これを考えてみると結構面白い。
例えば、衣料品やファッション雑貨の価格帯は、きれいにいくつかの「層=レイヤー」に分かれています。
(1)普段は数千円の衣服、雑貨、かばんを買っている人なら、一点2万円のバッグやセーターは高級品に思えるでしょう。
(2)2?3万円のものは普段からよく買う。でも、5万円を超えると高いと感じ、「ブランド品だから」などと自分を納得させないと買えない、という人もいます。
(3)5?10万円のものを買うことはよくある。でも30万円を超えるスーツやコートは「高いなあ」と思う人もいる。
(4)ごく日常的に20?40万円のものを買っているが、「この指輪は200万円です」と言われると、「ちょっと高い」と感じ、買うためには「限定品だから」「記念日のプレゼントだから」といった特別な理由が必要という人たちもいる。
ここから先の人は数は少ないですが、でも確実に存在していて、
(5)日常的に100万円単位の買い物をする。でも、「この宝石は1000万円」と言われると、「主人に相談してからにしようかな」と思うレベルの人もいます。このレベル以上になると、行きつけのブランド店でお店に入ると、すぐに奥のソファに通され、お茶を出してもらえるでしょう。
(6)買い物をする時に値段なんて見ない人たち。宝石箱には数百万、数千万円の指輪が並んでいるし、着物から置き物まで一級の芸術品。ご主人は数千万円の車に改造費をたっぷりかけて注文し、しかも複数台保有という人です。
●誰しも2つの“価格”しか認識していない
しかし、どのレイヤーにいる消費者も「自分にとって正当化できる価格」と「自分には正当化できないバカげた価格」の2つしか認識していません。
例えば(3)の「5万円程度の洋服やかばんはよく買っているが、30万円のコートは簡単には買えない」というレベルの人は次のように考えます。
「この5万円のかばんは作りもいいし、皮も上質。使い勝手もいいし、それだけの価値はある。一生モノだから安物買いの銭失いになるよりはよっぽどお得だわ。
でも、こっちの30万円のコートは、あきらかにブランドマークの値段よね。実際それだけの価値があるとは思えない。はやりすたりがあるし、汚れてしまうかもしれない。こんな値段のものを買うのはバカげているわ」
この人にとって、30万円のコートがバカげた値段に思える本当の理由は、「それが自分には簡単に手に入らないものだから」なのですが、人はそれを「バカげた価格」と呼ぶことで自分がそれを買わないことを正当化します。「私の経済力では買えない」のではなく、「賢い消費者の私は、あんなバカげた値段のものは買わない」と理解しようとするのです。
そして(4)や(5)の人も、(1)や(2)の人も同じように思っています。“客観的な妥当な値段”なんてものは存在しないのです。
食べ物でも同じですよね。「1人10万円のコース料理なんてバカげている!」と思う人でも、「やっぱりお値段だけのことはある」と言って1万円のコースを食べにいったりします。
でも、毎日のランチが500円以下という人からすれば、「1万円の食事なんて無駄遣いの骨頂」となります。一方、「やっぱり10万円くらい出すとまともなモノが食べられるよね。素材もいいし、シェフも一流だし、価値があるよね」と言う人もいます。
ここでも、“絶対的に妥当な値段の水準”なんてないのです。誰もが「自分がお金を出しているものは、質がいいからそれだけの値段を払っている。妥当な値段なのだ」と考え、自分がお金を出さない一段上の値段のものに関しては「あんなバカ高い額を払って食事をするなんてバカみたいだ」と思うわけです。
なぜこんなことが起こるのかといえば、市場が分断されているために、消費者には自分が手の届くレベルと、その一段上しか見えていないためです。市場の分断により、消費者は“自分がバカげていると思う値段のもの”を日常的に買う人に会わないし、“自分がお得だと感じているもの”を「バカげた値段」と言い切る人とも会いません。
市場を分断するための方法の1つが“情報の遮断”です。超高級店は“関係のない層の人の目に付きやすい場所”に店を出すことを慎重に避けているし、広告も“誰でも見られる”テレビや新聞には出しません。
高級ホテルのインハウスマガジンへの広告や、ハイクラスのクレジットカードホルダー、特殊な会員制クラブメンバーへのDMしか出さなければ、違う層の人に広告さえ見つからずにすみます。また、店舗の入り口を重厚感と威圧感のある作りにし、“間違った人”が入ってこないように工夫したりもします。
こうして消費者は、まるで世の中には「自分が考える妥当な値段のもの」と「バカげた値段のもの」しか存在しないかのように感じ、楽しくお買い物できるというわけです。
【以下略】
---------- 【引用ここまで】 ----------
世田谷に住んでいたときには環状八号線沿いに、高級な食材を売っているお店がありました(今でもあると思いますが)。たまに様子を見に行ってみると、そこにはベンツやジャガー、BMWなどの外車で乗りつけて品の良い母子連れが買い物をしていたりして、「うーむ、住む世界が違うんだよなあ」などと思ったものです。結局そういう人たちと自分とは暮らしている層が違うんだということなのでしょう。
実はこの記事の後半部分では、実は経済成長とは、“人々が妥当だと思う値段”が全体として少しずつ上がっていくプロセスでもあるのだ、というようなことが書かれています。
そのことだけが経済成長でもありませんが、今まで食べたことのなかったものがたまに食べられるようになったなどということが身近に分かりやすい経済成長ということなのです。
それまで不便を我慢していたことが、パソコンを買ってインターネットを初めて便利になったというような生活の質を上げることにお金を使い、その使ったお金が巡り巡ってさらに質の高い生活に繋がるという循環こそが経済成長。
これが逆に、外食の回数を減らして家でつましく食べるようになったなど、気持ちが縮小して生活の改善に皆がお金を使わないようになるとどうなるでしょう。物が売れにくくなって仕方がないので企業は価格を下げてでも売るしかなくなり、従業員の給料はさらに下がる・・・。
企業としては消費者に「欲しい」と思わせる魅力的な商品を開発して買ってもらうというのが社会的な使命です。
自分自身でできることは、物の価値を高めるということです。原材料100円の蕎麦粉を手打ち蕎麦にして一杯600円で売ることも、100円の画用紙に絵を描いて1万円で売るという芸術も価値を創出し、高めているということ。常に、どうやったら自分や社会の価値が高まるかと考えるのが経済成長の原点なのです。
今や「ムダ撲滅」がスローガンになり始めていますが、それは経済成長のための手段であって目的ではないはず。
評判をあげることだって立派な価値増進。自分たちにできることはなにかな。