『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』(祥伝社 麻生川静男著)を読みました。
著者の言う"リベラルアーツ"とは、漠然とした『教養』ということではなくて、 『世界各地の文化のコアをしっかりつかみ、そのうえで自分なりのしっかりした確固とした世界観と人生観を身に着けること』だといいます。
日本人と西洋人、他のアジアの国々はいったい何が違うのか。そもそもの歴史的背景や価値観、ものの考え方を知らないままではグローバル化する国際社会で生きていくのは難しい。
そうした広い視野と知識を持ちつつ、自らの考えを自分の言葉で語れる力が必要です。
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モノづくりに関する日本人と西洋人の考え方の違いが面白いエピソードでした。「日本人はモノづくりが得意」と言われますが、本当にそうでしょうか。
江戸末期に日本を訪れて日本の歴史を大きく変えたペリー提督。彼は日本と沖縄を訪問し、帰国後は米国議会に詳細なレポートを提出し、その中で日本という国の特性を極めて鋭く看破しています。
その強みをして曰く、「実際的及び機械的技術において日本人は非常な巧緻を示している。そして彼らの道具の祖町さ、機械に対する知識の不完全を考慮するとき、彼らの主工場の技術の完全なことはすばらしいもののようである。日本の手工業者は世界におけるいかなる手工業者にも劣らず練達であって、人民の発明力をもっと自由に発達させるならば日本人は最も成功している"工業国民"にいつまでも劣ってはいないことだろう」(p119)
そして同時に弱みとしては、「すべてのアメリカ人は、木造の家屋を建築する際に日本の大工達が示した熟練した技術すなわち整理の巧みさ、接合の滑らかな仕上げ、床張りの整然さ…を嘆賞した。(しかし)家屋や公共建築物全体の設計は、構造の細部の仕上げよりもはなはだ劣っていた」(同)
つまり日本人は細部を徹底的にパーフェクトに磨き上げるのは得意であるが、奇抜なアイデアを実現したり、複雑な物事を扱うのが極めて苦手であるのだ、と。
さらに、西洋人と比べた時に、日本人が得意だというモノづくりには民族独特の道具に対する関わり方の違いが見えてきます。そして著者はそれを「日本人はアナログ的で、西洋人はデジタル的だ」と表現します。
アナログ的とは、道具をフレキシブルに柔軟に使いこなして目的を果たすのが得意ということで、デジタル的とは、柔軟性がないが単一目的を簡単に果たすことが得意ということ。
その代表的な例が日本の柄杓(ひしゃく)と西洋のじょうろです。日本人は道路に水を均等にまくためには柄杓を上手に使いこなさないといけません。そしてそれには練習を重ねた練達の技が必要です。
つまりこのことから、『西洋文化の根底には道具に技巧をビルトインさせる発想があり、日本文化の根底には、各人が修行を通して技巧を個別に取得する発想がある』というのです。
この指摘は私の趣味の蕎麦打ちと西洋のパスタづくりに極めてよく現れています。
蕎麦打ちによる麺は、は綿棒と包丁と駒板と呼ばれる道具で蕎麦生地を薄く伸して細く切ることで作られますが、パスタは粉をこねて玉にした後はパスタマシンのローラーで薄く伸して、パスタマシンのカッターで同じ幅に切られます。
麺を薄く均等の幅に切ることに習熟する要素はほとんどありません。これが日本人的な感が肩と西洋的な考え方の違いとして実にわかりやすいではありませんか。
このエピソードを通じて著者は、「日本人は科学の国ではなくて技術の国だ」と言い、その技術も実利よりは趣味的、職人的なのだ、と。そしてだから抽象化や理論化にはほとんど興味を示さず、自分たちの役に立つところでとどまってそこから先には興味を失うところがある、とも。
日本人は世界を変えるような発明は苦手かもしれないけれど、発明されたものを職人的気質でより便利でより良いものに改造する力があります。それが日本人の得意技として生きるという道はありそう。
自分たちの強みと弱み、そして世界との違いを考え続けることもリベラルアーツ。多様な視点を持つって大事ですね。