職場の打ち合わせ中に東京の友人から突然電話がかかってきました。
「ごめん、今打ち合わせ中なのでかけ直すよ」
「あれ?そうだったの?てっきりもう在宅勤務に入って退屈しているんじゃないかと思いましてね」
「こちらは不定期の在宅勤務なので必ず家にいるとは限らないんですよ。それじゃあ後でまた」
次に彼に電話をしたのはその日の夜のこと。
「で、東京はどうですか?」
「さっきはごめんね。でもこちらも家から出ないようにしているのであまり外のことは分からないんだけど、お金が動かないのでお店なんかは本当に大変だと思うよ。そっちは?」
「札幌はまだ甘いね。マーケットにも公園にも人がずいぶん出ている。でも飲食業なんかは『行かないで』だから経済が回らなくて参っちゃうな」
すると彼は突然こんなことを言い出しました。
「小松さん、経済で言うとアダム・スミスの名前は知ってますよね」
「まあ『神の手と言った』くらいのことはね」
「でも彼は18世紀後半に生まれ、せいぜい19世紀前半を生きたくらいの人なんです。で、彼の時代の経済って、せいぜい今でいう1次産業と2次産業くらいが関の山で、実際のものを作る物的生産のことしか考えていなかったんです。
現代の経済との圧倒的な違いは、今は付加価値が生産されて経済を動かしているという事なんですよ。
彼の時代はいわゆる"生産性"も低かったから、生産性を上げて物を作ることが強く求められました。しかしその頑張りの結果、生産性が上がって需要が満たされたらどうなるでしょう。
仮の話として世の中に人が1人しかいなければ、彼は食べるためのお米を生産し続けなくてはなりません。
さてそこへもう1人が加わって、彼が鶏を飼い始めたとしましょう。アダム・スミスの『国富論』でいう『国の富』とはお米と鶏です、まあ卵もあるかな。で、この二人はそれぞれ米を食べつくしては駄目だし、鶏を食べてしまってはいけません。翌年のための米を残し、翌年のための鶏と卵を残します。これが貯蓄というわけです。
スミスは、この米と鶏と卵を残せば残すほど翌年の収穫は増えるのでこれを資本とすると『資本を蓄積せよ』と言います。それが経済成長なのだというわけです」
「ほーー」
「で、ところがこの2人は真面目に働いたおかげで、1年に2人が食べるだけ以上の米と鶏を作れるようになったとします。そこに3人目としてお医者さんが登場したとします。彼は米も鶏も作りませんが、その代わりに2人が病気になったらそれを治してあげる約束をして米と鶏を手に入れて暮らすことができます。
さあスミスが軽視した、必需品や便利な産品を作らない非生産労働者の登場です。スミスは、そうしたものを生産しないくせに消費だけする非生産労働者は社会の富を増やすうえで邪魔になるだけの"浪費家と同じだ"と考えます。
そして有名な言葉ですが「浪費家は皆社会の敵であり、倹約家は社会の恩人である」と述べます。
ところが実際には、この米農家も養鶏家も生産性が上がってくると働いてばかりいても2人では消費できないくらいの産物ができてしまいます。しかし2人だけでは消費してくれる人がいない。ならば、それを使って病気の面倒を見てくれる人がいたっていいし、何だったら退屈な日々を紛らわしてくれる物語を書いてくれる人がいてもいいし、なにかの芸で笑わせてくれる人がいてもいい。
スミスのすぐ後に登場したマルサスという人は、まさにスミスが「非生産的労働だ」とした医者や小説家や芸能人は需要を創出してくれて社会を豊かにしてくれるという意味で経済的な活動なんだと考えました。そしてマルサスの考え方をその100年後にケインズが有効需要論の原型として位置づけることになる。
実は経済学には初期のころから2つの前提がぶつかりあって今日に至っています。それは「経済を回すのは需要なのか供給なのか」というテーマです。
「需要を創出すべきだ」という立場の経済学があれば、「供給を備えれば需要はついてくる」という立場の経済学もある。
このどちらに立つかは、やがて公共事業をどう考えるかとか、社会保障をどう考えるか、という立場の違いになって表れてくるんですが…、まあ今日はここまでにしておきましょう」
「えー?面白くなってきたところなんですが」
「はは、でも今の世界経済をごらんなさい。コロナウィルスを封じ込めるために経済を回すことを我慢している。こうなると欲しくても欲しがらない、という需要を我慢することになってしまって経済は回らなくなるって話ですよ。
国民だって対岸の火事と思っていてはいけません。テイクアウトだとかだぶついた商品を買ってあげるとか、できる範囲で経済を回して耐えてゆかないとその影響はいずれ自分に及ぶんですから。さて、では僕はこれから近くのイタリアンのテイクアウト総菜を買いに行ってきます。ではまた」
経済は循環なので、自分だけが倹約をしていれば耐えられるという話ではありません。
もちろん自分だけが頑張っても社会を救えるわけではありませんが、そういう気持ちを共有して社会を構成する一員として協力をする姿勢が大事なのだと彼は言いたかったのでしょう。
さて、神の手と握手ができるように、家飲みばかりじゃなく、少しはテイクアウトも利用しましょうか。