北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

今年もお世話になりました

2009-12-31 18:03:46 | Weblog
 さていよいよ今年もあと数時間で終わりです。

 今年もお世話になりました。毎年大晦日は自分なりの十大ニュース振り返ってアップしていますが今年はベスト5で考えてみました。

 今年一番の出来事といえばなんと言っても次女の東京への就職です。夏休みのあっという間に子育てが終わってしまうとは思いませんでした。

 それにしても就職超氷河期の昨今、雇ってくれるなら時期も場所も関係ありません。

 2番目は結婚25周年の銀婚式でしょうか。あっという間の25年でした。

 3番目はやはり政権交代。これが職場環境や今後の仕事にどのように変化をもたらすのかまだ分かりませんが、大変革の時代だと言うことだけは分かります。

 4番目はスピリチュアルな旅で、長野県下栗の里と上村へ行ったことです。日本のスピリチュアルスポットへの旅はこれからも続けたいと思います。

 5番目はネットブックを買って無線LANの世界を体験したこと。まだまだネット環境の進歩について行かなくては。

    ※    ※    ※    ※

 まだまだ挑戦をして行かなくてはならないですね。

 今年はお世話になりました。来年もまた宜しくお願い致します。
 

 
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蕎麦粉と蕎麦包丁

2009-12-30 23:44:05 | Weblog
 いよいよ明日は大晦日。日々家の掃除をしていますがなかなか終わりません。効率が悪いなあ。

 明日の年越し蕎麦用にと注文しておいた蕎麦粉が届きました。夏に墓参りをした際に食べてとても美味しかった「アグリステーションようてい」の蕎麦粉です。

 アグリステーションようてい 
   → http://www.youteizan.com/html/index.htm

 今回は楽をして蕎麦の汁も頼みました。明日は久しぶりに我が家で蕎麦打ち…とここまで書いて、なんと愛用の蕎麦包丁を東京に忘れてきたのを思い出しました。




 秋に東京で蕎麦を打つ話があってわざわざ送ってもらったのですが、今回の帰省の際にはそれをすっかり忘れていました。

 家には最初に買った3千円くらいの安物の蕎麦包丁しかないのですが、うーん、仕方がないこれで切るとしますか。

 蕎麦粉が良いだけにちょっともったいない思いです。

 
 ちなみにこれが私の蕎麦打ち台。シンクにのし板を載せると蕎麦打ち台に早変わりです。





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家の灯りの省エネ化

2009-12-29 22:32:30 | Weblog
 とりあえず帰省はできたものの、こちらでの仕事もまずは家の大掃除。家がいくつもあるというのは大変です。

 少しずつ掃除を進めながらも、昼食を外に食べに行くついでに家の電球を替えてやろうと思い立ちました。

 家にはまだ60wの電球や、クリプトン球といって小さい割に明るい電球が使われているのですが、省エネ推進の立場から言えばもっとエネルギー効率の良い電球を使ってエネルギー抑制に努めるべきということでしょう。

 最近では電球の形をしていながら中身は蛍光灯というのもあれば、LEDを使って長寿命と高効率を実現している商品もあります。

 LEDなどは100wの電球の明るさを出すのに5wしか使わないというのですから驚くべき高効率です。

 そこで近くの大型家電消費へ行って、LEDの電球でも買ってやろうかと思い品定め。

「どれどれ…うゎ、高いなあ!」なんと電球一個に安売りでも3,680円もの値札が付けられていました! うーむ、しかし清水の舞台から飛び降りた気持ちで買ってみようかなあ…。

 ところがよく見ると電球にも何種類かあるので、この値札の電球とは一体どういうものかをお店の方に訊いてみることに。

「この安売りの値札の電球はどれですか?」するとお店の方は商品を調べながら「ええと…、この電球では40w級の明るさが出るやつですね」とのこと。

「40wですか…、60wの明るさのものを買おうと思ったのですが」と言うと、「それでしたらお隣の商品ですね。こちらは4,500円になりますが…」

「4,500円!それは高い」うちの奥さんもさすがにそれは無理、という顔をしています。

 いくら省エネをしたくてもまだまだ手が出ない価格です。しかし折角来たのですからと、次善の策で蛍光灯ランプを買いました。

 左が裸電球タイプで右はクリプトン球タイプです。




 裸電球タイプは実際の裸電球と大きさがほとんど変わらないのですが、クリプトン球のほうはそのものよりも蛍光灯タイプのほうがだいぶ大きいので。

 下手をすると器具に着かないかもしれないと心配だったのですが、家に帰ってから取り付けてみると取りあえずなんとか着けることが出来ました。

 蛍光灯ランプのほうはスイッチを入れてから着くまでの一瞬の間があって、私には気にならないのですが、うちの奥さんは「うーん」とまだ違和感がある様子。省エネ、省エネと呪文を唱えることにしましょう。

 さて、年に一度の大掃除、是非この機会に家の灯りの省エネを考えてみてはいかがでしょうか。

 それにしてもLEDランプは高かった…ガックリ。
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空を青色以外で塗らせるのは難しい

2009-12-28 23:52:56 | Weblog
 今年もいよいよ今日が御用納め。

 今年の暦は半端な週末明けの一日だけが御用納めの出社日。一日くらい休んでしまえばこの週末に帰ることも可能だったのですが、なにしろ二ヶ月前に飛行機の予約を取る身としては、今年の年末がどんな状況になっているかよく分からず、一応御用納めの日の夜に札幌帰省の飛行機を取ったのです。

 北海道の天候が大荒れらしいという不安を抱えながら羽田空港へ。登場する便も、天候により着陸が出来なければ羽田へ引き返す条件付きで、後は天に祈るのみです。

 羽田空港は無料の無線LANサービスが行われているので、早く着いた時はネットブックでインターネットを見ていられます。全く、世の中の公共施設というものはすべからくこうありたい、という最先端の姿ですね。

 さて、ネットを見ていたら日経ビジネスオンラインでマクロスというアニメ映画の河森監督のインタビュー記事が出ていました。

 アニメを作る上での苦労談として、今までと違うものを作らないと世の中に衝撃を与えられない、そのためには「同じものの足し算ではなく違ったものの掛け算」でなくてはならなかった、と言います。

「指示待ち」のスタッフを如何に自らの意志で動けるようにするかにもかなり苦労したと語ります。アニメとは言え、監督ともなると実にいろいろな事を考えるものなんですね。
 

---------- 【ここから引用】 ----------

【日経ビジネスオンライン】空を「青以外」で塗らせるのは意外に難しい
  「マクロス・フロンティア」河森正治監督・3
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090707/199476/?P=3

(前1略 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090626/198722/ )

河森 …それから、個人的な気持ちとして、アニメーション作品がお客さんの好みの細分化に合わせていったことで、ファン同士でも他の人と交流ができなくなってきているんですね。今は、作品の本数はたくさんあるんだけど、ファン同士で「同じアニメを観て語る」ということが、難しくなってきているんです。お互いの趣味について分かり合える領域が本当に狭くなってしまって、わずかな違いで別々のコミュニティに住むことになって、そのニッチな領域から外に出なくなってしまう。

 僕は、それはさみしいなと思うんです。

 今の効率重視からくる閉塞感は、商品の売れ行きだけじゃないと思うんですよね。お客さんのコミュニティさえもバラバラにしている。

 それは、やっぱり目的とか方法が、モノを作って売るためにはこの効率的なやり方はひとつしかない、と思い込んでいるところから来るんだと思うんですよ。

 今の日本人や日本の企業って、個別最適で本当に技術は上がっているし、みんな優秀な人ばかりになっているんだけど、難しいのは、その優秀+優秀が、ハイブリッドな強さにはまったくならないようになっている。

―― 優秀+優秀だけでは、思い込みの枠からは逃れられないと。

河森 同じベクトルの優秀さばかりを集めると、いくら足しても、既存の枠からは離れられないと思うんですよ。

 それって「同種のもの」ばかり足しているということでしょう。そこがつまらないし、閉塞感に繋がっているのだと思います。

異種格闘戦をしてみよう
河森 僕のところにも、優秀なスタッフが集まってきています。でも、同種のものを足すだけではもったいない気がしたので、それぞれのスタッフの持ち味を活かしながらも、才能をぶつけ合わせるみたいなことをしたいと思ったんですね。それは異種格闘戦ですよね。

 もともと、「マクロス」の「歌と戦闘」というのは、お話自体が異種格闘戦になるわけですけれども。

―― 河森監督が作られた初代「マクロス」も、歌で戦争を解決するという、相当「思い込みの枠」を外した作品でしたね。その頃から意識されていたのですか。

河森 そう考えると、昔から既存のものと同じことはしたくないという性分だったのかもしれないですね。

 戦闘機や人型ロボットと戦艦の戦いというのはアニメでいくらでもあるでしょう。

―― はい。

河森 あれはアニメでいえば、昔ながらの“足し算”のモチーフなんですよね。食い合わせが良いモノ同士をプラスすることで最初っからまとまっている、という。

 でも、武器対武器みたいな同種の戦闘って、それだけでは広がりがないんですよ。あるところまでで止まってしまう。

―― ニッチになってしまうと。

河森 そう。だから異種格闘戦にして、「歌」と「武器」で、「え、この両者じゃどっちももはや戦いようがないんだけど」みたいな形にして(笑)。


 (…中略…)


河森 例えば戦闘シーンがある、そこに壮大なオーケストラがかかるというのは“足し算”ですよね。なじみが最初からいいもの。でも、壮大な戦闘シーンに、アイドルの女の子が歌うラブソングがかかるというのは、もはや“掛け算”にしかならないんですよ。もちろんハズせば論外になっちゃいますけどね(笑)。足し算というのは同種だから足し算として成立しているのであって、種類が違うともう掛け算をするしかないわけですよね。

【異質なもの同士を掛け合わせることで、未知のものが生まれていく】
河森 何か新しいことをやろうと思ったら、足し算じゃなくて、掛け算がいいと思うんですよ。

 何かと何かを混ぜるときに、すごく異質な組み合わせをやってみるというのが1つの手ですね。「歌」と「武器」を掛け合わせるとか、本来成り立たないはずのものを合わせることで、化学反応が起きて、その両者ではない新しいものが生まれていく、僕はそこが好きなんですね。

 水と油を足して、ドレッシングになるのか、化学反応を起こして別なものになるのかというのが勝負どころで、化学反応レベルまでいければかなりのエネルギーが出るし、核融合までいけるともっとすごい爆発力を生むという感じなんですよね。どれほど違うものを掛け合わせられるかだと思うんですよ。

―― 違うものを掛け合わせる=思い込みの枠を外した状態だということですね。

河森 そうですね。思い込みという、ある均一な価値観からはみ出していることが大事だし、はみ出しているものが1個じゃつまらないので、はみ出したものが大量に、多様なはみ出し方をしながら集まると面白いという。

 人間以外の生物だと、そういう複合的なメカニズムがうまく機能しているんですよね。単一機能ということはほとんどなくて、1つのものが何種類もの機能を持っていたりする。生物の皮膚は、防御装置でもあると同時にセンサーでもある、という具合に。

 「1つのものが1個の機能、可能性しかない」というのが現代社会の問題点だとしたらば、自然の生物は多機能で、1つのものがいろいろな役目をするんですね。

―― 私たち人間は、一番多機能なはずですが、それを忘れてしまうのはなぜだと思いますか。

河森 「単一機能」だったり、「単一の可能性しか世の中で許されてない」という思い込みが増えちゃったのだと思うんですよ。

 他の生物と違って、脳で考える存在である人間になると、とたんに「これはダメ、あれはムダ」というふうに選別を始めてどんどん単一化していく。その思い込みの枠が、近代文明が行き着いた果ての弊害なんじゃないかな。

 (…以下略…)

---------- 【引用ここまで】 ----------

 タイトルの「空を青以外で塗らせるのは意外に難しい」というのは、スタッフ達に「自由にアイディアを出してみてよ」と言った時に、みんな空を青く塗ってきた時の監督の言葉です。

 空は黄色だって赤だって良いのに、どうして空は青だと思うんだろう?何かの常識や超えられない枠を自分に設定してしまっているのでしょう。

 常識の枠の中で創作をしようと思うと、足し算になってしまって常識的なものしかできなくなってしまう。だから常識を越える発想をして異質なもの同士を組み合わせることが掛け算になると言う発想なのでしょう。

 今年は政権交代も起こり、これまでの常識ではない新しい社会作りの時になったとも言えるでしょう。

 常識を超えた社会づくりとはどういうことか、年末年始の間にゆっくり考えてみるとしましょうか。
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スペースがモッタイナイ

2009-12-27 22:18:22 | Weblog
 明日は御用納めで夜にはそのまま札幌へ帰省の予定。今日は単身住まいの大掃除の一日です。

 今日が今年最後の一日と思うと普段なかなかできないところの掃除にも力が入ります。

 以前の記事で「困ってもいいや、と思うことを覚悟してものを捨てよう」と書きましたが、まさにそれを実践。これも、これも、これも、ひたすら捨てまくりです。

 仕事上や勉強のための書類や冊子が多いのですが、なかには旅先での土産の絵ハガキなどが袋に入ったまま出て来たりして、買って良かったのか買わない方が良かったのか。

 ある友人は、「買い物が楽しいという人は、ものを買った時点で楽しみは終わっているんだな。だから、買ってしまったものというのはその後は意味のないものになる」と言っていましたが、買われたものの方にも可哀想なことをしてしまったのかも知れません。 

 よく、ものをモッタイナイと思って捨てられないものなのですが、ものへの執着よりもスペースが上手に使われないことこそモッタイナイと思うと良いのかも。

 自分の部屋では、片づいた広いスペースへの執着をより強く持ちたいですね。


    ※    ※    ※    ※

 パソコンデスクの周りも片づけてお供え餅を飾りました。みかんの替わりに虎の人形が載っています。

 お供え餅も年々様変わりしてきました。 
    
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新しい社会貢献の形「プロボノ」

2009-12-26 21:56:23 | Weblog
 今年最後の週末、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 この週末こそ大掃除と思っていた私ですが、一人暮らしをしている娘のパソコンの調子がどうしても悪くて、なんと一週間に4回目の訪問となりました。もう本当にこれで直ってね。

 さて、来年流行りそうな単語の一つが「プロボノ」だそうです。一体なんでしょうね?


---------- 【ここから引用】 ----------
シアワセ最大化~新しい働き方「プロボノ」とは?
「社会貢献したい」「スキルアップもしたい」人たちへ
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20091102/208673/?P=1





 最近、「ソーシャル」や「社会的」といった言葉を耳にする機会が増えてきた、と、感じる人は少なくないかもしれない。確かに、「社会起業家」「ソーシャルベンチャー」といった言葉がさまざまな場面で引き合いに出され、社会起業家を扱った本が書店で平積みになる光景も見かけるようになったのがここ数年の傾向だ。

 しかし、いざ一人のビジネスパーソンが、こうした「社会的」「ソーシャル」なことに関わろうと思うと、意外と選択肢は限られている。勉強会のような場に出かけて知識を養うか、ビジネススクールや起業塾のような場所に通って本気で社会起業家を目指すか、はたまた、気になるNPOを見つけてボランティアとして飛び込んでいくといった方法などが思い浮かぶかもしれない。

 こうした選択肢の中に、もう1つ、有力な方法として提案したいキーワード、それが、この連載のテーマである“プロボノ”である。

【社会貢献をするための“現実的”な手法】
 “プロボノ”とは、社会人が、仕事を通じて培った知識やスキル、経験やノウハウなどを活かして社会貢献することを意味する。

 “プロボノ”とは、ラテン語でPro Bono Publico(公共善のために)を略した言葉で、欧米のホワイトカラーにとってはごく一般的に使われている言葉だ。特に、弁護士や会計士、コンサルタントなどが、「月に数時間」「年間で数日」といった時間を決めて、NPOの法律や会計、経営の相談などを無償で行うことがオーソドックスな“プロボノ”のイメージである。

 だが、こうした職種に限らず、営業、調査、企画、総務、人事、広報、IT・システムなど、幅広い分野で活躍する多様なビジネスパーソンに向けて、“プロボノ”の考え方は適用可能なものである。仕事で培ったスキルは、すべからく、NPOなどの社会貢献活動にも活かすことができるエッセンスを含んでいるのだ。

 “プロボノ”は、社会人が、仕事を続けながら、いまの会社に所属しながら、自分の時間の一部を効率的に活用して社会貢献に役立てるきわめて現実的な手法である。

 しかも、“プロボノ”は、ただひたすら社会のために“奉仕”するばかりではない。むしろ、自身の仕事へのポジティブなフィードバックをも期待できる点については、この連載を通じて詳しく紹介していきたい。

 「社会的」「ソーシャル」なことに関心を持ち始めたいまの日本社会。そこで活躍する、多くのビジネスパーソンにとって、「社会的」なことと関わる、新しい選択肢。それが、“プロボノ”だ。

 (…以下略…)

---------- 【引用ここまで】 ----------

 これまでボランティアとか社会貢献と言うと、お金や時間を提供したり、実際労働力を提供するにしても単純作業てきなイメージだったのですが、それなりに仕事をしている人がまさにその仕事の能力を使って社会貢献するというのが「プロボノ」というものです。

 上記の記事でも弁護士や会計士など、それなりの資格を持った人が仕事の能力を提供することが例としてあげられています。

 それも、根を詰めてかかりきりになるのではなく、自分の仕事時間の延長でできるというのもこれまでのボランティアとは印象が違います。

 さて来年はこういう形が流行るでしょうか。

 それにしても、こういう社会貢献の形があるとしても、では自分にとって明らかな「仕事の能力」などというものがあるのだろうか、と考えてしまいます。

 経験や人脈などと言ってもどこか掴みどころがなく、明確な資格などに裏打ちされたりもしていないような能力などではプロボノにはなりそうもありません。

 自分とは何で、自分は何が出来るのか、ということを改めて見つめたいものです。

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それでも日本は「戦争」を選んだ

2009-12-25 23:19:41 | Weblog
 最近話題の一冊、「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子著 朝日出版社)を読みました。

 この本は、2007年から2008年に移ろうという冬休みの5日間に、東大文学部教授の加藤陽子さんが、中高一貫教育の栄光学園で歴史研究部の中学校1年生から高校2年生(当時)までの17人を相手にした歴史講義をまとめた本です。

 構成は、「序章 日本近現代史を考える」から、「1章 日清戦争」、「2章 日露戦争」、「3章 第一次世界大戦」、「4章 満州事変と日中戦争」、「5章 太平洋戦争」となります。おそらくはこの各章が一日分の講義だったのでしょう。

 加藤先生の専門は1930年代の外交と軍事です。大学では文学部の3年生と大学院生に対して講義をしていますが、これでは理系の学生や文系でも他の学部の学生に対して、近現代史を知ってもらえない、と常々考え、もっと若い人たち、つまり中高生に対して歴史を語ろうと思ったのだそうです。

 その結果この本は、若い人たちとのやりとりによる新鮮な感性が伺え、同時に大学教授ならではの戦争の時代に対する深い洞察の両方が盛り込まれ、歴史のエピソードが満載の格好の近現代史入門書となりました。

    ※    ※    ※    ※

 冒頭加藤先生は、1930年代(大正末期から昭和初期)ころの教訓はなにか?と問いかけます。

 実は1937年の日中戦争の頃までは、我が国は政党政治による社会民主主義的な改革(労働者の団結権など、戦後GHQによって実現されたことがらなど)を求めていたのですが、その当時は既成政党や貴族院、枢密院など多くの壁によってそれらが実現出来ずにいたころなのです。

 その結果何が起こったかというと、こうした改革要求は既存の政治システム下では無理だと言うことで、擬似的な改革推進者としての軍部への人気が高まっていったのだと言います。その当時の陸軍の改革案の中には、自作農創設、工場法の制定、農村金融機関の改善などとてもよい社会民主主義的な改革項目が盛られていました。

 ここで先生が述べる歴史の教訓とは、国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を擬似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れるかも知れないという危惧なのだ、ということです。

 ちなみにこの本の初版は今年2009年6月です。

    ※    ※    ※    ※

 さて、日本の近現代史を勉強しようと思うと、大抵は自分の国の中の出来事を中心に語ります。加藤先生はそれを「日本中心の天動説」だと言います。

 やはり時代を大きく俯瞰して、大陸の大国である中国とロシアの力関係、またヨーロッパ大陸における、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアなどの力関係とやはり対ロシア関係、そしていよいよ登場するアメリカといった国々の中の政治状況や思惑などを見て行くことで初めて、関係性の結果としての歴史を少しずつ理解出来てくるもののようです。

 読んでいて感じ入るのは、やはり当時の世界常識はなんだったのか、ということに思いを馳せる必要があるということです。

 ともすると、現代日本における常識をそのまま半世紀前に持ち込んだ議論がなされがちですが、植民地もあたりまえならば、そこでの権益を強国どうしが密約を交わして取引をするというのも当たり前。
 
 日本もそうなるまいと必死に権益を確保しようとした努力の跡が痛いほど分かります。

    ※    ※    ※    ※

 また、政治的に重要な判断をしようと思う時に、しばしば人は過去の出来事について誤った評価や教訓を導き出すことが以下に多いのか、という点も興味深いものでした。

 ハーバード大学のアーネスト・メイ教授は1973年に「歴史の教訓(原題は”The lessons of the Past”)」という本を書きましたが、そこでの主題は、「なぜアメリカはベトナム戦争に突入し泥沼に陥ったのか?」という問いでした。

 それをメイ教授は、アメリカの第二次大戦後の「共産化による中国の喪失」というトラウマだと言います。

 せっかく第二次大戦は中国の蒋介石率いる中国国民政府と共に対日本、対ドイツに対して勝利したのにもかかわらず、1945年以降の内戦で結局中国は共産化してしまった。
 
 だから内戦の最後には介入して、こちらにとって都合の良い政治体制を確立させなきゃいかんという思いを教訓として感じてしまった。これがメイ先生の結論なんだと。

 要するに人間はしばしば歴史から得た教訓と思われることに縛られて仕舞う存在でもあるのだと言うことです。

    ※    ※    ※    ※

 さて、タイトルの「それでも日本人は『戦争』を選んだ」のはなぜでしょう?

 答えを全てまとめて言ってしまうわけにも行きませんが、一つには、当時の国民の中に、「日中戦争はなにか弱いものいじめをしているような気が進まない戦争だったが、米英を相手にする戦争は強い相手と戦って東亜を建設しようと言うのだから明るい戦争だ」という気分が広く認知されていたということ。

 また、一部のインテリには「日本は武力戦には勝てても、持久戦、経済戦には絶対に勝てない、つまり日本は戦争する資格がない」という人もいました。しかしそれだからこそ、持久戦ではなく速戦即決を求めざるを得なかったのだとも言えます。

 大陸における中ロの政治力学、同じロシアとヨーロッパの関係、ドイツとイギリスの関係など、時々刻々と変わる政治情勢を判断し、日本はやはり「巻き込まれた」と言うよりは戦争をする決断をそれぞれの段階でしていたのではないでしょうか。

 ただし、そういう判断をするためには当時の資料をもっと公正に評価し、歴史的に適切な問いを発してそれに答える知的作業をもっとしなくてはならない、というのが加藤先生の結論のようです。

 大人の教養書として近現代史への入門書としては非常に面白い本でした。冬休みの読書には最適かも知れません。  

 
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日本で最初のクリスマス

2009-12-24 23:28:43 | Weblog
 今日はクリスマスイブ。キリスト教ではない私も娘と食事に出かけてきました。

 クリスマスはもはや日本人には宗教行事と言うよりは俳句で言う「歳時記」に近いのかも知れません。

 外国に人には日本のクリスマスはどう見えるでしょうか?

---------- 【ここから引用】 ----------
【中国ブログ】東京の「クリスマス」から感じ取れる日本人の願い 2009/12/24(木) 17:38
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=1224&f=national_1224_023.shtml

 クリスマスはキリスト教の救世主であるイエス・キリストの誕生を祝う記念日だ。日本で初めてクリスマスが行われたのは1552年であると言われている。その後、徳川幕府がキリスト教弾圧を行ったために一時すたれていたが、1900年頃から東京・銀座でクリスマスを商業イベントとして取りあげたことにより、日本にクリスマスが定着したと言われている。

 中国人ブロガーの偶爾一筆氏が自らのブログに「暖かい気持ちが流れる東京のクリスマス・イヴ」と題する文章を掲載している。

 ブロガーは、日本にクリスマスが導入された経緯を紹介した上で、「現在の日本では、クリスマスは若い人びとが結婚したり婚約したりするための重要な日となっている」と指摘し、雰囲気のある場所はどこもカップルで埋め尽くされ、各商業施設もこの機に乗じてカップルたちの消費を狙っていると語った。

 続けてブロガーは、「写真を見れば日本のクリスマスの雰囲気を味わうことが出来るだろう」と語り、東京都内でクリスマスの雰囲気が溢れている場所として、銀座や恵比寿駅前、東京タワーなどの写真を掲載。さらにブロガーは、日本は気候も経済も冷え込んでいるが、東京のクリスマスの夜からは来年こそは好転して欲しいとの願いを感じ取ることができると綴った。 (編集担当:畠山栄)

---------- 【引用ここまで】 ----------

 かつてのバブル時代にはクリスマスイブともなるとレストランは予約で満杯、ホテルも取れないという騒動がありましたが、いまではそんなことも歴史の彼方のようです。

 なんでもいいから消費の種にしたいという商業者の思惑も、このブロガーには見透かされているようです。

 それにしてもクリスマスが日本で始めて行われたのは1552年とはよく調べたものです。Wikipediaで調べたら「1552年(天文21年)に周防国山口(現在の山口県山口市)において宣教師コメス・デ・トルレスたちが日本人信徒を招いて降誕祭のミサを行ったのが日本で初めてのクリスマスである」とありました。案外すごい歴史なnですね。
 
 クリスマスが終わると日本では一気に年末年始モードに突入です。さて、忙しくなりますぞ。
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きっと親は

2009-12-23 22:48:56 | Weblog
【小田和正 たしかなこと】←この曲を聴きながらお読みください
 http://www.youtube.com/v/I-yHDph56Rk&hl=ja_JP&fs=1


 天皇誕生日の祝日。少し遠くへ出かけようかと思ったところ、東京で一人暮らしをする次女からパソコントラブルの緊急SOSが来ました。

 Windows VistaからWindows7へとバージョンアップしたのですが、やりかたがまずかったらしくて起動が不安定になっていたのです。

 何度か娘の家を訪ねて直そうとしたのですが、私が見ている時に限って正常に起動するのでなかなか直しようがなくて困りました。それがいよいよ昨夜から動かなくなったというので、今日は朝から訪ねて修正を加え、やっと原因と思われる状況を改善することができました。

 やれやれ、これで治まってくれると良いのですが…ふー。

    ※    ※    ※    ※

 そこでそんな時間の最中に娘とインターネットの使い方についてしばらく会話ができました。

 いろいろと高度な技を教えてあげようかと思ったら、「え?お父さん、知らないの?」娘の方が私以上にいろいろなソフトの使い方を知っていて、逆にいくつか教わるはめに。

 特に今二十歳の彼女の世代は、ネットと言えばyoutubeやニコニコ動画などの動画サイトについて実によく知っています。

 そうか、もういろいろな場面では子供に遙かに追い越されていたのか。君も知らない間に大きくなったな。

 それにしても、そもそも就職のお祝いにと買ってあげたパソコンは、私が中古で買って使っているものよりも10倍くらい性能が良いのだよな。うらやましいぞ。

 しかし、きっと私自身が子供の時も、親はきっと我慢していろいろと良い文房具なんかを買い揃えてくれていたんだろうな、と思いました。「子を持って知る親のありがたみ」ってやつか。

 明日はクリスマス。もう子供にも夜のサンタさんは来ない年頃になりました。 

  
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後悔しても… ~片づける覚悟

2009-12-22 23:46:03 | Weblog
 年末の大掃除の時期が近づいてきました。

 机の周りというのはいつも使う場所だけに、いろいろな物が置かれてなかなか片づかないものです。そんな悩みにスパッと答えを出してくれる記事がありました。キーワードは『後悔してもいいから』です。

---------- 【ここから引用】 ----------

【お悩み3分解決レシピ】デスクが片付かない~後悔してもいいから捨てよう
 http://beautystyle.jp.msn.com/healthcare/feature/3minutes/006/02.htm





 生きているかぎり、モノは無限に増えていきます。あなたが本当にモノを減らしたいと思うなら、「今後使うかどうか」で判断してはいけません。すべてを「おみくじ感覚」に切り替え、「後悔してもいいから捨てる」くらいの覚悟が必要でしょう。

 まずは、書類や資料、雑誌など。これらは完全に使い捨てです。どうしても必要なものは、スキャナでパソコンに取り込むなど、データで保存しましょう。

 お土産などのいただき物は捨てにくいものですが、これも原則的には「後悔してもいいから捨てる」こと。半年や1年など、一定期間使っていないモノは、今後使うこともありません。もし必要になったら、そのとき買えばいいのです。

デスクまわりにおけるスペースも、オフィスの家賃の一部である以上、厳密にはタダではありません。モノを捨てる対価として、有効に使えるスペースが増えると考え、意識的にモノを捨てていきましょう
 
  (…中略…)

 せっかくデスクまわりを整理しても、その状態が続かないようでは意味がありません。いつでも同じように整然としていることが大切なのです。空間をキレイに保つには、とにかく捨て続けること。これを習慣化する必要があります。そのためにも、毎日のスケジュールに「捨てるタイム」を組み込みましょう。

 「捨てるタイム」は、シンプルにモノを捨てるためだけの時間なので、どの時間帯に設定しても構いません。昼休み明けや終業前など、ほんの10分程度でいいので、必ず毎日確保しましょう。そして、「後悔してもいいから捨てる」こと。10分あれば、必要な書類をデータ化したり、雑然としたデスクを整えたりすることは十分可能です。

 掃除や整理整頓が苦手な人こそ、たまの大掃除より、毎日の「捨てるタイム」が必要なのです。

---------- 【引用ここまで】 ----------

 『後悔してもいいから』というキーワードは新鮮でした。確かに普段は後悔したくないので捨てられないのです。

 「後悔してもいいんだ」というのは一つの決断であり覚悟です。捨てない方が良かったという場面で後悔するのは感情で、それでも後悔しないというのは意志です。感情よりも意志を大事にする行き方をしようと言うことなのでしょう。

 後段の「捨てるタイム」というのもなかなか取れません。資料などは、来週までは要るかも知れないと思って捨てないのであって、その時が過ぎた時にはもうそれがあったことも忘れてしまっているので机の周りが片づかないのです。

 必要ならばパソコンに取っておけ、と言いますが、取っておいた資料がたくさんになってパソコンの中が片づかない、という笑えない状況にもなりつつあります。過去のメールなんかも捨てられませんよね。

 でも、過去一年使わなかったものはもう使うことはない、と決めてかかるのも一つの手です。
毎日、一年前以前のメールは捨てるとか、そういうことだって良いのかもしれません。

 さあて、今年の大掃除ではものを捨てるよう真剣に頑張ってみましょう。
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