ウクライナへのロシア侵攻。
ウクライナ南東部の要衝マリウポリを手中に収めたいロシア軍は攻撃の手を強めているようですが、マリウポリを守備するアゾフ大隊は徹底抗戦の構えでロシア軍も苦戦を強いられているとのこと。
補給のない中でなお徹底抗戦を貫くアゾフ守備隊への同情の念を禁じえません。
このような姿を見せ続けることは敵に対する反骨心を募らせ、後に続く戦いにおける士気をますます高めるに違いありません。
全く同じようなシーンが古代ギリシャの歴史にあります。
それはバラバラな都市国家しかなかったギリシアがペルシアの大群に攻められた時のことです。
ペルシアが初めてギリシアを攻めたのは紀元前490年のことで、これを第一次ペルシア戦役と呼びます。
この年の春にペルシア軍がギリシアのマラトンの平原へ向けて進軍を開始し、夏にこれをアテネ軍とプラタイア群からなるギリシア軍が迎え撃ちギリシア軍は大勝します。
この戦いの勝利を報告するためにマラトンからアテネまでを走った兵士は勝利の報告後に力尽きてしまいましたが、このマラトンからアテネまでの約40kmと言う距離は、後に第一回オリンピックで走ったマラソン競技に繋がっています。
さて、この第一次ペルシア戦役の10年後に再びペルシアはギリシアの地を攻める第二次ペルシア戦役が始まります。
このときのペルシアの軍勢は、陸上軍20万人、海上群800隻に及び、対するギリシア軍は陸上軍1万人、海上軍330隻と圧倒的な数的不利。
ペルシアが北部ギリシアへ侵入しアテネを目指して南下したときスパルタの王レオニダスは300人の軍勢を率いてこれを迎撃するため国境のテルモピュレーの峠へと向かい「テルモピュレーの戦い」が始まりました。
初戦はスパルタの重装歩兵の敢闘によりペルシア軍2万人が戦死し、二度まで退却。
しかし三度目の総攻撃では、迎え撃つテーベ兵400人、テスピアイ兵700人が次々に壊滅、最後まで戦った300人のスパルタ兵はレオニダス王以下全員が玉砕し果てます。
しかしここで時間を稼いでいる間にアテネ市民は全員強制疎開を果たし、ペルシア軍が入城したアテネは無人になることで人的被害を防ぐことができたのでした。
その後秋の「サラミスの海戦」でギリシア軍は数的不利を覆して見事に勝利を得て陸上軍を残してペルシア軍を小アジアのサルディスまで撤退に追い込んだのでした。
このときのスパルタ軍の戦いは後世まで語り継がれ、「300(スリーハンドレッド)」と言えばレオニダス率いるスパルタ軍と誰もが分かる存在になりました。
テルモピュレーの戦いが始まる前にペルシア王はギリシアの本陣に特使を派遣し、「武器を差し出せば、各自の国への自由な帰還を許す」と伝えました。
それに対するレオニダスの口から出た答えは「モロン・ラベ(Molon Labe)」(取りにきたらよかろう)でした。
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「ギリシア人の物語」を書いた塩野七生さんは、「このペルシア戦役を乗り越えたことによって、ギリシア人の中に『持てる力全てを活用する精神』が芽生え、このギリシア文明が後のヨーロッパの母胎になってゆく過程を経て、ヨーロッパ精神を形成する有用な一要素になったのではないか」と記しています。
また「勝負は『量』ではなく『活用』で決まるのだ」とも。
マリウポリが象徴的な戦場になりつつありますが、私たちは力による一方的な現状の変更と言う行為を許してはならない、という意思をはっきりと持ち続けるべきだと思います。