里村専精先生の「浄土真宗にようこそ」No46をお届けします。
「二」という数字が、七祖にはついて回ります。
善導大師の場合は、実にたくさんの「二」があります。
今回は有名な「二河白道」を見つめてみましょう。
東西を流れる百歩ばかりの河ですが、その中間に道が見えていても、南北に火と水が遮っています。
四五寸の白道は、この水火にあおられているのです。
この白道は、実は信心の風景なのですが、実に危うい形に示されています。
火と見える南の半分は瞋恚だと言われていますし、北の荒波は貪欲だと設定されています。
実に象徴的な譬喩ですし、由来世界的に有名な譬喩だと評価されています。
東の岸では、一人の行者が追いつめられてゆきます。
群賊悪獸が、次第次第にその人を攻め立ててくるというのです。
現代の人が、いかにその尊厳を失墜させられているかを考えれば、何かその意味が浮かんできます。
追いつめられた行者は、ついに決断を迫られます。
「すでにこの道あり、必ず度すべし」と、その決断は固まって来ます。
と、その時になって初めて真実の声が聞こえてきます。
「仁者(きみ)ただ決定してこの道を尋ねて行け。必ず死の難なけん」
と、これは釈尊の声でした。そして…、
「汝一心正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん」と、西岸の人が呼びかけます。
この三人の言葉は、実によくぴったりと呼応しています。
人間の究極の場面には、規を一にした言葉が求められてくるのではないでしょうか。
白い道は、か細く儚いものに見えているのですが、今はこの道しかないのです。
で、その道は…、実はその人そのもののことなのではないでしょうか?
その人がその人を生きている、その状況自体がみんな細く頼りない道なのです。
敢然として、自己を見つめてほとんど絶望的だったその人は…、ほんの僅かずつですが歩き始めます。
背後には、彼を呼び戻そうとする無数の叫びが聞こえています。
けれども、彼はみごとに渡りきって、二人のブッダ如来と伴に喜びを交わしてゆくのです。
ほんの須臾(僅かの時間)だと、書かれています。
「須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難をはなる」とあります。
何故にそれは須臾だったのでしょうか。答えは簡単なのですが、お分かりになるでしょうね。
決断をしたその人のその決断は、実はその人自身を確認していたのです。
荒立つ水火の二河も、実はその人自身だったのです。
同じように、群賊も悪獸も自らが落ち込んだ幸せ追及型の生活のことなのです。
長さ百歩の白道は、実はその人自身の永く逡巡していた心もとない歩みだったのです。
そして今やその人の歩みは、自らを引き受けて歩む仏道に基づいたものに変わっていたのです。
勝れた譬喩ですが、善導大師の言葉をよくよく味読してゆきたいものです。
◆里村専精先生のお話は、11月9日(月)夜に、新小岩の専福寺様で聞くことができます。
◆カウンセリング研究会【くりのみ】も10月の定例会は、10月31日(土)です。
学習会の内容は、『教行信証』の音読、『正信偈』の読誦他です。