8日に映画「青い山脈」(今井正監督、1949年)を再見した。2011年は今井正監督の生誕百年で、国立フィルムセンターでも特集が予定されている。一足先に銀座シネパトスで2回にわたる特集上映があり、8日には「青い山脈」の寺沢新子役でスターになった杉葉子のトークショーがあった。
杉さんは1928年生まれ、もう80歳を超えているが実に若々しい。東宝の第2回ニューフェースで、成瀬巳喜男作品など50年代に活躍。1961年にアメリカ人と結婚してロスに住んでいる。文化庁の文化交流に貢献したり、折に触れ日本に帰って活動してきた。戦時中に上海の女学校を出て以来、世界をまたにかけた活躍にはビックリ。今井監督は若い俳優への指導がうまく、杉さんも自然体でいいものを引き出してくれる今井演出に得心し、その後も試写会などに誘ったりしたと楽しそうに語った。会場に香川京子さんが見えていて、何十年ぶりかの再会という劇的なシーンだった。(2019年没)。
「青い山脈」は計5回映画化されている。1回目が圧倒的に有名で、以後は若い女優の売り出し企画となった。(ちなみに、若い女学生寺沢新子役は、杉葉子、雪村いづみ、吉永小百合、片平なぎさ、工藤夕貴。)多くの人にとって、「青い山脈」は今ではテーマ曲で記憶されていると思う。
「若く明るい歌声に 雪崩は消える 花も咲く
青い山脈 雪割桜
空のはて 今日もわれらの 夢を呼ぶ」
「若く明るい歌声」が、どうしてマイナーなんだろうかと昔から疑問だ。なぜこれが「戦後の理想」を歌ったとされるのか。後の世代からは理解不能である。変な歌詞だし。(4番まである。)歌詞は西條八十、作曲は服部良一という大御所である。戦後を代表するヒット曲の「リンゴの歌」も短調。戦争の記憶が生々しすぎる時代には、本当に明るく陽気な歌は出てこないのかもしれない。
この映画では、新採女性教師島崎雪子(原節子)の存在感が圧倒的に大きい。劇中で美人、美人と言われているが、実際輝くばかりの美しさ。49年のベストテンは1位が小津の「晩春」、2位が「青い山脈」だから、全く原節子の全盛期である。この映画は多くの人にとって、古い因襲がはびこる学園の民主化のために原節子が闘う映画だった。民主主義の啓発でもあり、男女交際をめぐる「若さと恋愛のロマンティシズム」でもある。若い男女が惹かれあうのは自然の摂理で、それをいやしいもの、隠すべきものと考えるのは、「封建的な因襲」だ。そのような「戦後民主主義映画」の文脈で、この映画は理解されてきた。石坂洋次郎の原作自体がそういう意味合いで書かれた新聞小説である。
(「青い山脈」の原節子)
ところが今見直すと、「生活指導上の事件」をめぐる「学校側の拙劣な対応」の映画だった。海辺の古い町、休日のある日。杉葉子(女学校の生徒)が池部良(旧制高校の生徒)の家を訪ねる。杉の家は貧しく、卵を売って教材費に充てるため売り歩いていた。池部の両親は出かけていて、池部は全部買うから料理を作ってくれと言う。仲良くなって、近所の占いを一緒に見てもらう。偶然の成り行きで、「男女交際」ではない。ただ、若い女性が男の家で料理を作るのは、「誤解を招きかねない行為」ではある。杉は前の学校でも同じようなな問題があり、転校してきたばかりらしい。
杉が占っていた場面を目撃していた生徒がいた。池部は交際相手で、相性を占っていたと思い込む。そこで何人かで相談して、女名前の手紙をかたって、「男子高校生からの呼び出しの手紙」を書いて投函する。それを受け取った杉は、英語教師の原節子(多分、クラス担任なんだろう)に相談する。原節子は授業の後半をこの問題の指導にあて、この行為がいかに卑劣な行動であるかを糾弾し、関係生徒の反省を求める。書いた生徒たちは、杉が風紀を乱す行為をするからいけないのに先生はちっとも生徒が学園を思う気持ちを判ってくれないと反発する。これが親や地域ボスも巻き込む「政治闘争」化していき、ついに理事会で大論争が巻き起こる。
この理事会の場面(後編のハイライト)が昔から有名で、証拠の手紙を資料として読み上げると「変しい 変しい」と書いてあった。「恋しい」と書くつもりで「へんしい」と書いてしまったという落ちである。もう一つ、「悩ましい」を「脳ましい」とも間違っている。これは手書き時代にはありそうだ。でも「恋しい」が書けないというのは、こういう手紙を書くにしては抜けすぎていて、よく考えるとリアリティがない。だが旧字で書くと「戀しい」と「變しい」なので、これなら間違いそうだ。(前が恋で、後が変。)今見ると、この後編の理事会場面はつまらない。いくら何でもこんな学校は当時でもないでしょ。
これが今の学校で起こったらどうなるか。杉の行為は「誤解を招きかねない」部分はあるが、明確に校則違反とまでは言えないだろう。一方、同級生の行為は、「名前をかたった手紙でクラスメイトを呼び出す」わけで、今でも「大問題」である。全国どこの学校でも「大事件」になるだろう。何も起こらなかったからいいけど、場所と日時を指定した呼び出しを実際にかけている。今なら暴力事件や動画に撮るといった展開も想定される。男がいると期待して出てきたところを動画サイトに投稿されたら、ちょっと立ち直れないほどの大イジメ事件に発展する。
この事件は、けっして新旧の対立ではない。「ちょっと可愛く、ちょっとお茶目で、男子にモテそうな明るいタイプの転校生」に対する、嫉妬感情に基づく集団イジメ事件なのである。両者はいじめの加害者と被害者である。校内で起きた生活指導事件だから理事会で判断する問題ではない。「生徒同士の事件ですから、教員と生徒で解決します」と校長が理事会の干渉をはねつけるべきだ。
実際の学校だったら、集団的イジメ事件の様相はあるが、まだ手紙を一通送っただけで嫌がらせ段階だからあえて大事にしないという方針もありうる。イジメ認定になると「退学勧告」「無期謹慎」もありうるが、中身的には重すぎる。しかし実際に手紙に呼び出しが書かれている以上、相手に恐怖感や嫌悪感を抱かせた。軽くても「登校謹慎一週間」以下ということは僕には考えられない。それだけでは「片手落ち」と言われかねないし、杉の行為も誤解を招く部分があった。校長まで出てくる必要もないが、「生活指導主任注意」くらいだろうか。
この校内イジメ事件をここまで大きくしたのは、新人教師原節子の不適切な行為である。原はバリバリの新採、若くて美人、都会の大学出たての英語教師、生徒と一緒にバスケをしている(バスケ部の顧問?)行動的な教師である。だから生徒にも大人の男性にもファンができるのは理解できる。でも、どうだろう? 張り切ってる、若い美女が正論をとうとうと述べる。反発しないか。 世の中美女ばかりではない。英語もスポーツも不得意で美人でもなければ、反発するでしょ、フツウ。
クラスで正論をぶって手紙を書いた生徒を追いつめた。適切な指導ではない。そう見えないのは映画だからで、「金八先生」型ドラマなのである。転校生杉への反感のようなものは教師には見えたはずだ。(映画を見てても感じられるくらい明確に描かれている。)だから、それらの生徒の話をじっくり聞くまで「事件」を公にせず、クラス内部で解決をさぐる方策を取るべきだった。
原節子に好意を持つ校医沼田は、理事会に向け「対策」を練る。それが「ニセ理事」を送り込むというものなんだから、どこに民主主義があるのか。どっちもどっちとしか思えない。しかも、生徒が正しいか、原節子が正しいか、理事会で投票で決するというんだから、この話狂ってる。このあたり、「陽のあたる坂道」などに通じる石坂文学の「議論好き」の特徴である。でも、日本ではそういう風に物事は進まない。何でも議論して多数決で決するのがいいわけではない。
もう一つの問題は、「ともしび」「人間の壁」と同じく、学校の問題が、いつのまにか地域ボスとの闘いの様相を呈することだ。「地域ボスとの闘い」映画は、当時星降るごとく存在した。地域では旧来からの伝統的支配者が実権を握っていたが、大学を出た「ムラで一番の知識層」である教師が、「教え子を再び戦場に送らない」というスローガンを掲げて闘争を始めた。地域ボスにとって大きな脅威だった。50年代以後つねに「教育」「教員組合」「教科書」が保守勢力から攻撃され続けてきた理由である。この戦後史の本質的対立関係を忘れて、現在の教育問題を理解することは出来ない。(2020.5.29一部改稿)
杉さんは1928年生まれ、もう80歳を超えているが実に若々しい。東宝の第2回ニューフェースで、成瀬巳喜男作品など50年代に活躍。1961年にアメリカ人と結婚してロスに住んでいる。文化庁の文化交流に貢献したり、折に触れ日本に帰って活動してきた。戦時中に上海の女学校を出て以来、世界をまたにかけた活躍にはビックリ。今井監督は若い俳優への指導がうまく、杉さんも自然体でいいものを引き出してくれる今井演出に得心し、その後も試写会などに誘ったりしたと楽しそうに語った。会場に香川京子さんが見えていて、何十年ぶりかの再会という劇的なシーンだった。(2019年没)。
「青い山脈」は計5回映画化されている。1回目が圧倒的に有名で、以後は若い女優の売り出し企画となった。(ちなみに、若い女学生寺沢新子役は、杉葉子、雪村いづみ、吉永小百合、片平なぎさ、工藤夕貴。)多くの人にとって、「青い山脈」は今ではテーマ曲で記憶されていると思う。
「若く明るい歌声に 雪崩は消える 花も咲く
青い山脈 雪割桜
空のはて 今日もわれらの 夢を呼ぶ」
「若く明るい歌声」が、どうしてマイナーなんだろうかと昔から疑問だ。なぜこれが「戦後の理想」を歌ったとされるのか。後の世代からは理解不能である。変な歌詞だし。(4番まである。)歌詞は西條八十、作曲は服部良一という大御所である。戦後を代表するヒット曲の「リンゴの歌」も短調。戦争の記憶が生々しすぎる時代には、本当に明るく陽気な歌は出てこないのかもしれない。
この映画では、新採女性教師島崎雪子(原節子)の存在感が圧倒的に大きい。劇中で美人、美人と言われているが、実際輝くばかりの美しさ。49年のベストテンは1位が小津の「晩春」、2位が「青い山脈」だから、全く原節子の全盛期である。この映画は多くの人にとって、古い因襲がはびこる学園の民主化のために原節子が闘う映画だった。民主主義の啓発でもあり、男女交際をめぐる「若さと恋愛のロマンティシズム」でもある。若い男女が惹かれあうのは自然の摂理で、それをいやしいもの、隠すべきものと考えるのは、「封建的な因襲」だ。そのような「戦後民主主義映画」の文脈で、この映画は理解されてきた。石坂洋次郎の原作自体がそういう意味合いで書かれた新聞小説である。
(「青い山脈」の原節子)
ところが今見直すと、「生活指導上の事件」をめぐる「学校側の拙劣な対応」の映画だった。海辺の古い町、休日のある日。杉葉子(女学校の生徒)が池部良(旧制高校の生徒)の家を訪ねる。杉の家は貧しく、卵を売って教材費に充てるため売り歩いていた。池部の両親は出かけていて、池部は全部買うから料理を作ってくれと言う。仲良くなって、近所の占いを一緒に見てもらう。偶然の成り行きで、「男女交際」ではない。ただ、若い女性が男の家で料理を作るのは、「誤解を招きかねない行為」ではある。杉は前の学校でも同じようなな問題があり、転校してきたばかりらしい。
杉が占っていた場面を目撃していた生徒がいた。池部は交際相手で、相性を占っていたと思い込む。そこで何人かで相談して、女名前の手紙をかたって、「男子高校生からの呼び出しの手紙」を書いて投函する。それを受け取った杉は、英語教師の原節子(多分、クラス担任なんだろう)に相談する。原節子は授業の後半をこの問題の指導にあて、この行為がいかに卑劣な行動であるかを糾弾し、関係生徒の反省を求める。書いた生徒たちは、杉が風紀を乱す行為をするからいけないのに先生はちっとも生徒が学園を思う気持ちを判ってくれないと反発する。これが親や地域ボスも巻き込む「政治闘争」化していき、ついに理事会で大論争が巻き起こる。
この理事会の場面(後編のハイライト)が昔から有名で、証拠の手紙を資料として読み上げると「変しい 変しい」と書いてあった。「恋しい」と書くつもりで「へんしい」と書いてしまったという落ちである。もう一つ、「悩ましい」を「脳ましい」とも間違っている。これは手書き時代にはありそうだ。でも「恋しい」が書けないというのは、こういう手紙を書くにしては抜けすぎていて、よく考えるとリアリティがない。だが旧字で書くと「戀しい」と「變しい」なので、これなら間違いそうだ。(前が恋で、後が変。)今見ると、この後編の理事会場面はつまらない。いくら何でもこんな学校は当時でもないでしょ。
これが今の学校で起こったらどうなるか。杉の行為は「誤解を招きかねない」部分はあるが、明確に校則違反とまでは言えないだろう。一方、同級生の行為は、「名前をかたった手紙でクラスメイトを呼び出す」わけで、今でも「大問題」である。全国どこの学校でも「大事件」になるだろう。何も起こらなかったからいいけど、場所と日時を指定した呼び出しを実際にかけている。今なら暴力事件や動画に撮るといった展開も想定される。男がいると期待して出てきたところを動画サイトに投稿されたら、ちょっと立ち直れないほどの大イジメ事件に発展する。
この事件は、けっして新旧の対立ではない。「ちょっと可愛く、ちょっとお茶目で、男子にモテそうな明るいタイプの転校生」に対する、嫉妬感情に基づく集団イジメ事件なのである。両者はいじめの加害者と被害者である。校内で起きた生活指導事件だから理事会で判断する問題ではない。「生徒同士の事件ですから、教員と生徒で解決します」と校長が理事会の干渉をはねつけるべきだ。
実際の学校だったら、集団的イジメ事件の様相はあるが、まだ手紙を一通送っただけで嫌がらせ段階だからあえて大事にしないという方針もありうる。イジメ認定になると「退学勧告」「無期謹慎」もありうるが、中身的には重すぎる。しかし実際に手紙に呼び出しが書かれている以上、相手に恐怖感や嫌悪感を抱かせた。軽くても「登校謹慎一週間」以下ということは僕には考えられない。それだけでは「片手落ち」と言われかねないし、杉の行為も誤解を招く部分があった。校長まで出てくる必要もないが、「生活指導主任注意」くらいだろうか。
この校内イジメ事件をここまで大きくしたのは、新人教師原節子の不適切な行為である。原はバリバリの新採、若くて美人、都会の大学出たての英語教師、生徒と一緒にバスケをしている(バスケ部の顧問?)行動的な教師である。だから生徒にも大人の男性にもファンができるのは理解できる。でも、どうだろう? 張り切ってる、若い美女が正論をとうとうと述べる。反発しないか。 世の中美女ばかりではない。英語もスポーツも不得意で美人でもなければ、反発するでしょ、フツウ。
クラスで正論をぶって手紙を書いた生徒を追いつめた。適切な指導ではない。そう見えないのは映画だからで、「金八先生」型ドラマなのである。転校生杉への反感のようなものは教師には見えたはずだ。(映画を見てても感じられるくらい明確に描かれている。)だから、それらの生徒の話をじっくり聞くまで「事件」を公にせず、クラス内部で解決をさぐる方策を取るべきだった。
原節子に好意を持つ校医沼田は、理事会に向け「対策」を練る。それが「ニセ理事」を送り込むというものなんだから、どこに民主主義があるのか。どっちもどっちとしか思えない。しかも、生徒が正しいか、原節子が正しいか、理事会で投票で決するというんだから、この話狂ってる。このあたり、「陽のあたる坂道」などに通じる石坂文学の「議論好き」の特徴である。でも、日本ではそういう風に物事は進まない。何でも議論して多数決で決するのがいいわけではない。
もう一つの問題は、「ともしび」「人間の壁」と同じく、学校の問題が、いつのまにか地域ボスとの闘いの様相を呈することだ。「地域ボスとの闘い」映画は、当時星降るごとく存在した。地域では旧来からの伝統的支配者が実権を握っていたが、大学を出た「ムラで一番の知識層」である教師が、「教え子を再び戦場に送らない」というスローガンを掲げて闘争を始めた。地域ボスにとって大きな脅威だった。50年代以後つねに「教育」「教員組合」「教科書」が保守勢力から攻撃され続けてきた理由である。この戦後史の本質的対立関係を忘れて、現在の教育問題を理解することは出来ない。(2020.5.29一部改稿)